詩とかポエムとか言って、一言で詩とは何か説明できる人はいないと思う。
広辞苑では、いろんな定義があってその最初が中国の韻文の一つであるという。
では韻文とは何かといえば、韻を踏み声調を整えた文であるという。
はてそうだろうか。
書経には

> 詩言志、歌永言

とある。
志を言うとはつまり 訴える == 歌う == 謳う(高らかに唱える。聴衆に演説する etc) という意味だろう。
言を長くするとはつまり 詠う == 普通のしゃべり方よりゆっくりはっきりと言うことであろう。
書経の説明では、「詩」は、その心情を言い、「歌」はその形式を言っている、と考えれば良かろう。
実際には詩と歌が明確に区別されていたわけではなく、
「心に思い訴えたいことをゆっくりと言う」のが詩歌である、と考えればよかろう。

私もまったく賛成である。

韻を踏むとか声調を整えるというのは枝葉末節、後世の技巧に過ぎない
(ただし反復、リフレインは詩の初めからあった。ゆっくり言うだけでなく訴えたいことだから繰り返して述べたのである)。
文字を書くようになり、人は歌わずにただ文字で詩を書くようになった。
そうなるともはや韻も声調もない。
では何をもって歌と言い、詩というかというと、
楽曲に合わせて歌うものを歌といい詩と言うように考えるようになる。
それは本末転倒だと思う。
先に詩があり、歌があり、それを修飾するのに韻律を付けたりリズムをつけたり伴奏を付けたりしたのだ。
最初にあるべきものは詩歌なのだ(インストゥルメンタルな奏楽は除くとして)。

ぶつぶつとつぶやくような、ワープロに向かって打ち込んだような文章を詩というだろうか。
私は違うと思う。

たとえば万葉集冒頭の雄略天皇の御製など、どこが詩か歌かと思うが、
これは求婚の言葉であるから、「心に思い訴えたいことをゆっくりと言う」の定義に当てはまる。
それが原点、本来の意味であり、そこから和歌の場合には一句の長さを五七に揃えるとか七五に揃えるなどということが巧まれるようになる。
だいぶ後世になると伴奏を付けたり、場合によっては韻を踏んだり対句にしたりなど技巧を凝らすようになるのだ。

逆に雄略天皇の御製を見て真似して、適当な話し言葉を羅列して詩です、と言ってもそれは詩ではあるまい。
詩集ですと言って新宿西口で売ったとしても歌われてなければ詩ではないのではないか。
まあそれはエッセイか何かであり、韻文ではあるかもしれない。しかし詩歌ではない。

現代では詩歌と散文が完全に分業してしまった。
今の小説家は誰も、源氏物語や平家物語のような歌物語を書かない(そもそも誰もこの二つの作品を歌物語だとは思ってない)。
逆に詩人は小説を書かない。
みんな当たり前だと思っているが、西遊記を読んだだけでも、これが、韻文と散文の融合でできていることがわかる。
近世の儒林外史にもふんだんに詩が出てくる。

近代では、話し言葉は韻文や文語文から独立してなきゃいけないと考えられるようになった。
口語で、誰もが話す言葉で書かなきゃならない。
そのため韻文は排除されていき、ついでに詩歌も小説から閉め出されてしまった。

明治以後の歌人たちがまったく歌物語を書かなかったから和歌はだめになってしまった、と思う。
また、漱石、鴎外、荷風、中島敦らは多少漢詩を作ったが、あまりできがよいとは言えず、また彼らの著作の中で使うことがなかった。
戦後、小中高校教育では日本人の漢詩や漢文を教えなくなった(義経の腰越状すらやらない)。
やたら高級な唐詩選とかばかり教えるようになった。
これでもうまるで詩がわからなくなった。
さいごに現代口語自由詩によってとどめを刺された。
口語自由詩はすでに死んでいる。
生き残っているのはポップスの歌詞だけだ。
定型詩も絶滅危惧種であって、ほとんどはただ句数語数を合わせてあるだけ。
多くは演歌の歌詞がすけてみえる。
或いはどこか流行小説かドラマの文句を切り出したような歯の浮くような台詞。

子供の頃丸谷才一の『日本語のために』を読んで、小学校の国語の教科書の例をあげて、
これは詩ではない、これは詩だなどと書いてあって、
じゃあ詩か詩じゃないかはどうやって区別するのか、とずっと疑問だった。
プロの詩人が書いたものが詩で、素人や生徒や教科書出版会社の編集がでっちあげたものは詩ではない、
そう言ってるだけのような気がした。
ではプロの詩人とは何か。
結局何が何やらわからない。
今なら自分なりに理解しているつもりだ。

千里眼と順風耳

西遊記を読み始めたのだが、昔読んだときと違いすごく面白い。
昔は、いちいち漢詩が出てくるところがうざかったのだが、
漢詩がわかってくるとそれがまた余計に面白い。
原文で読みたくなる。

こういうのは子供のころはただ苦いまずい臭い食べ物や飲み物が、大人になると好きになるのに似ているのかもしれん。

玉皇(天帝)というのが出てきてその武将に千里眼と順風耳というのが出てくる。
千里眼は日本人にもよく知られているが、順風耳はよくわからんのだが、
おそらく対比で言えば、
千里眼は遠くのものも良く見える、順風耳は遠くの音まで良く聞く、という意味なのだろう。

検索してみると、媽祖に仕える二神というが、もとは媽祖に限ったのではないのだろうと思われる。
道教の聖廟の正門の左右にちょうど一対の仁王像のようにたっている。
ということは仁王像と同じで、もとはインド由来なのではなかろうか。

真夏の生ビール

真夏に生ビールを飲むと店によってはまずいことが多い。うまいと思っていた店が急にまずく感じることがある。
いろいろ考えてみるに、タンクは常温で設置されていて、それがビールサーバーで冷やされて出てくるのだから、
気温が低ければタンクがたとえば一週間はもつとしても、
真夏日や熱帯夜などで暑ければ一晩でダメになるのかもしれない。

だいたい厨房というところは熱がこもって余計に暑くなるものである。
営業中はエアコンを入れててもそれ以外の時間帯はずっとタンクは熱せられる。
ビールが傷んでもおかしくないだろう。

春夏秋冬常にまずい店というのは、店の管理状態も問題かもしれないが、卸している酒屋も疑うべきかも知れない。
だいたい生ビールのタンクの賞味期限は一週間ほどらしい。
ビール工場から酒屋へ。酒屋から飲み屋へ移動し、飲み屋で何日で一つのタンクが空になるのであろうか。
工場出荷からあっという間に一週間が経過してしまうことも当然あるだろう。

そういうわけでビールが傷みにくい冬場が実は生ビールは一番うまい、ということになる。
瓶ビールは栓を抜くまではそれほど傷まないのではなかろうか、という気がする。
夏だからとむやみやたらに生ビールを飲む連中は実はビールの味などわかってないのではないか。

それで安全策を採って瓶ビールを頼むとぬるかったりして痛い目にあうのです。
今時ぬるい瓶ビール出すところとか信じられないじゃないですか、でも田舎では普通です。
むしろぬるい瓶ビールは田舎の象徴。

酒もコーヒーもずっと毎日呑んでると効かなくなってくる。

同じように毎日薬を服用していると数ヶ月で効き目がなくなるのじゃなかろうか。
それでもやはり飲み続けなくてはならないのだろうか。
まあいいけど。

回転率と禁煙

飲食業界では当たり前のことなのかもしれんが、つらつら考えるに、
飲食店で最近喫煙のところが多いのは単に食後一服している時間がまったく儲からないからだろう。
その時間が十分か十五分であったとしても、全体では大きな損失になる。
売り上げをきちんと計算すればすぐにわかることだ。
飲食業界紙でも当然すでに指摘されていることだろう。
特に昼食時のように少しでも客が回転してもらいたい時間帯では禁煙にしたほうがもうかる。
逆に、昼食時以外であれば比較的客にだらだらしていられてもかまわないから、禁煙でない店もある、
ということではないか。

スタバのように完全禁煙というのは明らかに海外の文化によるものだろう。

また、昼食時にタバコの吸える店がたまにあると、そこには逆に喫煙者が殺到して店は繁盛する。
そういう店はほぼ全員が喫煙者だから、タバコを吸わない人は自然と近寄らないようになる。
店としてはそういう生き残り戦略もあろう。

これが、酒を飲む店になるととたんに喫煙率があがり、故に禁煙にすると儲からないという逆の現象が起きる。
だから居酒屋には禁煙の店が極めて少ない。
条例などあってもかなり消極的だ。

神奈川県の海水浴場でも、海の家は喫煙できる(海岸で海の家が喫煙所を兼ねている)ので海の家が臭くて仕方ない。
砂浜は広いのだから禁煙の海の家と喫煙可能な海の家で分ければよさそうなもんだが、
おそらく未成年と思われる若いバイトのにいちゃんなどもみなタバコを吸う土地柄だからもう何を言っても仕方ない。

ようするに、単に、もうかるかどうかで禁煙か喫煙かが決まっているだけなわけだ。

電波

思うに、携帯電話もテレビも、電波時計の電波も、すべて電波というものは、静止軌道上の人工衛星からふらせれば良いのではないか。

BS放送は全然普及しなかったというが、
それはBSが出てきたのがアナログ地上派の普及率がほぼ100%のときだったからであり、
それでBSが地上派を淘汰するはずがない。
返り討ちにあうのがオチだ。
地デジみたいにアナログ停波するくらいの覚悟があれば移行できていたのではないか。

電車から見るとどこのビルも屋上になにやらあやしげなアンテナが立っているが、あれはみんな携帯とかWiMAXとかのアンテナなのだろう。
設備投資的に言えば全国まんべんなく電波をふらす衛星よりは、首都圏など人口稠密地帯に重点的に電波をまけるああいうアンテナの方が都合がよいのかもしれない。
同じ理由で、首都圏だけの利便を考えれば東京スカイツリーのようなものがもしかすると安くつくのかもしれん。
人口密度の低い田舎まで一様にサポートする、などというのはスポンサーには説得力が弱い。

だがどう考えても衛星をシェアして電波に分け隔てせず、とにかく電波を使いたいやつは必ず衛星を使えと、
そう国で決めてしまった方が国全体のコストは下がるだろうし、くだらない無駄な開発をしなくてすむだろう。

商店街が共同トイレを作るのか、
店ごとにトイレを持つのか、という問題に似ているのかもしれん。
管理組合が適切にマネージさえすれば共同トイレの方が良いに決まっている。
しかし世の中は決してそういう理屈では動かない。
商店街でも飲食店以外はトイレを負担する謂われがない。
同じ飲食店でもトイレがないと成り立たないくらい依存しているところ(居酒屋とか)と、
それほど必要のないところ(ラーメン屋とか)がある。
誰がどれだけ負担するかを不公平なく決めるのは難しい。
結局個別対応になりがちなのだろう。

スケープゴートとしてのゲーム

ゲームはマイナスのイメージを持つものとして比較の対照にされやすい。特に報道において。

ある子供がペパクラで遊んでいて、ふだんはゲームをやっているがたまに手を動かして遊ぶと面白いと。
なぜそこでわざわざゲームを出してくる必要があるのか。
すなおにペパクラは面白いですねではなぜいけないのか。
ふだんはプラモ作ってるけどペパクラも面白いねとかいろんなバリエーションがあり得るのに。

ゲームは、こ汚く薄暗い、うさんくさくいかがわしい、工務店だか町工場だかを改造したインベーダーハウスから生まれてきた。
小ずるい大人が子供の小遣いをかすめ取って儲けた。
今の大人たちはみなその記憶を共有している。
だからゲームは叩かれて、新風営法で規制されて、無限の可能性を秘めたアーケードゲームはそのために死んだ。
パチンコの景品が未だに公然と換金されているのに、だ。
アーケードゲームの死の代償として家庭用ゲーム機が生まれたが、それでも負の運命を担い続けている。

何か犯罪が起きるといつもゲームのせいにされる。
弁護士が加害者の責任をゲームに押しつけたいせいではないか。

ゲームばかりやっていると馬鹿になると言われる。
昔はテレビばかり見ていると馬鹿になると言ったものだが、そのころはまだマスメディアの主役が新聞や雑誌だったからだ。
今じゃテレビをネガティブなイメージに使うことがない。
テレビが最大のマスメディアになったからだ。
特撮戦隊ものばかり見ていると馬鹿になるとか、
刑事ドラマものばかり見ていると馬鹿になるとか、
昼メロとかサスペンスばかり見ていると馬鹿になるとか、
映画ばかり見ていると馬鹿になるとか、
そんなことは絶対言わない。
いつも悪者になるのはゲームだ。
本質的にゲームというメディアが他より悪いわけではない。
単にゲームが叩きやすいというだけの理由だ。

報道というものは、特にテレビの報道というものは、ものすごく偏っている。
偏向していても、互いにバランスのよい公平な状態にもっていこうという仕組みがないから、
偏れば偏るほど偏って、しまいにはひっくり返るしかなくなる。
大東亜戦争当時とどこが違うというのか。

ゲーム産業は、なぜこんなに弱いのか。
卑屈すぎやしないか。
結局日本のゲームが海外のゲーム産業に抜き去られたのも同じ理由ではないのか。
何かがどうしようもなく弱い。
ホリエモンやムネオが有罪になったのと同じ理由じゃないのか。

ゲームをやる人間と、ゲームをやらない人間の住んでる世界があまりにも遠いからだろうか。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。

プロイセン王国

[プロイセン](File:Prussiamap.gif)。
[プロイセンの領土拡張2](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap2.gif)。
[プロイセンの領土拡張3](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap3.gif)。
[ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国](http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Brandenburg-preussen-1701-1806.png)。
[ライン川](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rhein-Karte.png)。

昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。
東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。
プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、
プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。

神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、
ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。
ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、
ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、
フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。
プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。
一躍大国となる。
1862年にはビスマルクが宰相となる。
イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。
イタリアに続けという気持ちはあっただろう。

1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。
つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。
ビスマルクすげえ。

[プロイセン部族](http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Prussians)。

[Königreich Preußen](http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nigreich_Preu%C3%9Fen)。

宋の改革

安史の乱が755年、
王仙芝・黄巣の乱が874年、
907年唐滅亡。
53年間の五胡十六国時代を経て、
960年には趙匡胤による宋王朝の成立。

唐が貴族主義的血縁的であったのに対して、宋は士大夫による中央集権的な、皇帝と官僚組織によって統治される国家だった。

一方で日本は1068年に後三条天皇即位。
おそらく貴族主義の唐が滅んで官僚主義の宋になり、
世界最強の帝国となったのを見て、
日本もまた藤原氏が滅んでいよいよ天皇中心の中央集権的官僚主義の時代になるのに違いない、
と思ったに違いない。
或いは貴族の首長であるところの天皇家が、藤原氏らとともに衰えて、
大乱の後に武士の王朝に交代するかもしれない、と危惧もしたかもしれない。

後三条天皇による上からの改革は白河天皇・鳥羽天皇の時代には
(院政によって一見天皇家の勢力が極大に達したに見えつつ)著しく後退し、
ますます貴族や武士や寺社の力が伸張した。
後白河天皇と崇徳上皇が帝位を争った保元の乱では、もはや大混乱となる。
公家も武家も天皇家も自分が営む荘園に寄生することによって生きながらえている。
国家の体をなしていない。
これはまさに唐の末期から五胡十六国に類似する。すなわち一種の無政府状態・国を豪族が割拠する状態であり、
当然それら貴族や豪族の間で覇権が争われることとなり、趙匡胤という一人の勝者に収束した、というわけだ。

後白河法皇による長すぎる院生時代には、
悪左府こと藤原頼長、信西(藤原通憲)、西光(藤原師光)といったリフォーマーたちが続出した。
しかし彼らは常に武士勢力によって粛清され、
結局日本は長い長い封建時代へ突入する。
中央集権的な政府ができるのには明治時代を待たねばならなかった。

頼長、信西、西光らは宋の政治を真似て、時代に逆らったまったく無駄な努力をした。
実にかわいそうな人たちだ。
もし王朝の交代があったら日本にも中央集権国家が生まれたかもしれない。
しかし天皇家も公家も残りそれとは別に武家というものが生まれた。
その三者が共存することによって生じた内部応力が中央集権的合理的政体の誕生を妨げた。
そして地方分権的な社会が七百年も続いたというわけだ。
保元の乱から承久の乱まで続く武士への権力委譲の時代、
南北朝、
戦国時代となんども戦乱の世が再現したのに、一度も中央集権国家に至らなかったのは、
やはりそのなんというかアモルファスな安定状態に収束してしまうからではなかろうか。

案外ヨーロッパで封建社会が長く続いたのも同じ理由かもしれない。
神聖ローマ皇帝とローマ法王と地方領主の三すくみ状態によって中央集権的な国家が生まれてくるのが阻害されたのかもしれん。
今のヨーロッパを見てもよくわからんが、かつてのヨーロッパは百以上の諸国の集合体だったのである。
なぜこんなにとっちらかっていたのだろうか。
同じことは日本にも言える。