藤原能信

投稿者: | 2012年8月13日

藤原頼通は道長の長男、教通は五男で頼通の同母弟。
能信は四男、頼通の異母弟。
頼宗は道長の次男。

後三条天皇は後冷泉天皇の弟だった。
頼通は養女・嫄子を天皇の中宮に入内させる。
教通も娘・生子を女御として入内させる。
頼宗も娘・延子を入内させる。
一方、能信は天皇の弟の尊仁親王(後三条天皇)の側に付く。
能信には子がなく、妻の姪・茂子を養女として尊仁親王の妃(白河天皇の実母)とする。
尊仁親王は皇太子であったが、じきに後冷泉天皇に皇子が生まれれば皇太子の変更があるだろうと、親王を後見する者は能信以外にいなかった。

後冷泉天皇が跡継ぎなく死去したので、尊仁親王が皇位継承して後三条天皇となる。
天皇と関白頼通は直接の血縁関係がない。
能信と茂子は天皇が即位する前に死んでしまう。
教通は頼通から関白を譲られるはずだったが、頼通が自分の息子の信長に関白を継がせようとしたために対抗して天皇に接近する。おそらく天皇との間の密約かなんかがあって関白職に就く。

天皇は即位時33才の壮年であり、積極的に親政を行って摂関家の勢力削減に努めた。
下級官吏の大江匡房、藤原実政らを抜擢するとともに、
村上源氏の祖・源師房、能信の養子の能長(実父は頼宗)、
源隆国(高明の孫)の子息・俊明などを登用した。
大内裏再建、荘園整理、蝦夷征伐、財政再建のための貨幣・度量衡の国家統一を次々に打ち出す。
しかし改革半ばにして40才で崩御。

こうしてみると、藤原能信という人が、
後三条天皇の改革のキーパーソンであることがわかるな。
どんな人だったのだろう。
もしかすると俊明辺りから母方の祖父・高明の間接的な影響を受けているのかもしれん。

いやー。面白すぎるな。
いままでは、道長的世界のエピローグとして、
続く白河天皇による院政期のプロローグとして、能信が描かれることはあったようだが、
私としては、中国で宋が出来て、宋から新しい政治システムが日本に導入されてきて、
古い律令政治が行き詰まって荘園だらけになって、
個人領主としての天皇家は富んでいても国家財政は破綻寸前。

それを宋に習って改革しようとしたのが後三条天皇で、
宋の中央集権的官僚制をモデルとして能信、匡房、実政、師房、能長、俊明らにばりばり仕事をさせたということになろう。
道長の王朝時代よりずっと面白い時代だと思うのだがのー。

[宋の改革](/?p=10724)参照。

白河天皇は逆にもう国家はどうとでもなれと。
天皇家が公家よりも大きな荘園を持っていればそれでよい、
公家もどんどん荘園もて、
寺社もみんなもてもて、という方針に切り替えた。
自らも出家して法皇とか称して仏教やら建築に放蕩三昧。
為政者としてはどうかと思うがまあ時代には合ってたんだろうな。
勅撰集編纂を復活させた、というより、事実上創始したのも白河天皇だしな。
法皇とかおかしなことも白河天皇が始めたようなもん。
もっとも院政が発達し、最も天皇の権威が高かったのも白河天皇のときだしな。
どう評価してよいのやらわからんが、
しかし、新井白石は後三条天皇は褒めているが、白河天皇の評価は極めて低い。
ある意味後三条天皇は雍正帝に似ており、
白河天皇は乾隆帝に似てるわな。
後白河天皇は白河天皇の劣化コピーだしな。

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