白河天皇

後三条天皇が崩御し白河天皇が即位したのが1073年、
1075年には勅撰集編纂の命が藤原通俊に下り、
同じ年、殿上歌合、また続いて内裏歌合などが続いて催される。
1073年以前には公式の歌合が行われた形跡がない。

思うに、後三条天皇は和歌にはほとんど関心が無かったのに違いない。

その息子である白河天皇が、なぜ長い間途絶していた勅撰集を復活させ、
しかも在位中に後拾遺集と金葉集、二つも出した。
なぜか。
おそらくは最愛の中宮藤原賢子(1082年死去)の影響だろう。
賢子の実父は源顕房、内裏歌合を主宰したり、後拾遺集に十四首も選ばれたりしているから、
ほぼ間違いないだろう。源顕房は村上源氏の祖で後三条帝に抜擢された非藤原氏の能吏の一人である師房の子である。大江匡房も勅撰集にたくさん取られている。

後拾遺集や金葉集に取られている白河院の歌をみると、
平明な中に独特の着眼があって、まずまずの出来である。
おそらく本人も和歌は好きだったのだろう。

さしてゆく-みちもわすれて-かりかねの-きこゆるかたに-こころをそやる

かひもなき-ここちこそすれ-さをしかの-たつこゑもせぬ-はきのにしきは

やとことに-おなしのへをや-うつすらむ-おもかはりせぬ-をみなへしかな

もみちはの-あめとふるなる-このまより-あやなくつきの-かけそもりくる

おほゐかは-ふるきなかれを-たつねきて-あらしのやまの-もみちをそみる

あふさかの-なをもたのまし-こひすれは-せきのしみつに-そてもぬれけり

よろつよの-あきをもしらて-すききたる-はかへぬたにの-いはねまつかな

かせふけは-やなきのいとの-かたよりに-なひくにつけて-すくるはるかな

はるかすみ-たちかへるへき-そらそなき-はなのにほひに-こころとまりて

おしなへて-こすゑあをはに-なりぬれは-まつのみとりも-わかれさりけり

ほとときす-まつにかかりて-あかすかな-ふちのはなとや-ひとはみるらむ

いけみつに-こよひのつきを-うつしもて-こころのままに-わかものとみる

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