山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌

庖丁人味平

「こたつむり伝説」はいまなら「ひきこもり伝説」だな.なんという先見の明.木村千歌偉い.

先週も昨日も見忘れた北条時宗見たけど.喜望峰を見つけたのはバーソロミュー・ディアス 1488 年,インド航路を発見したのはバスコ・ダ・ガマ 1498 年じゃろ.なんでモンケ・ハンの時代(1250 年頃)の世界地図に,アフリカ大陸があんなはっきりと書き込まれてるんかのう.まあ確かにイスラムは当時すでにアフリカ東海岸を含むインド洋全域を航海していたが,しかしインド洋が大西洋につながっててヨーロッパまで行けるかどうかということは知らなかったはずだ.

しかしまあ庖丁人味平は傑作だよなあ.庖丁人味平は今の料理漫画の草分けなんだが,最初の包丁試しとか肉裁きとか荒磯の船の上の料理とかは,ただ手際の良さというか,奇術というか,なんかわけのわからん荒唐無稽なものだった(おそらく当時流行していたスポーツ漫画の強い影響を受けていたのだろう)が,うしお汁当たりからほんとの味勝負になり始めて,このカレー勝負は全編中でも一番「人々の記憶に強く刻み込まれた」インパクトの強いあたりだ.カレー屋を食べ歩いたり,漬け物を食べ比べたり,真の味勝負と言えるのはこのあたりからだ.しかしこの勝負は相手が香辛料に麻薬を混ぜるという反則負けで終わる.結局味と味の真っ向対決で優劣を決したのと違うのが悔やまれる.しかしこれは今日の視点で言ってのことなのだ.今はそんなんばっかりだが.そういう意味では後世の料理勝負モノとはじゃっかんニュアンス違う.うしお汁も味平の汗という不確定要素によって勝ち負けが決した.包丁貴族との戦いはどう決着したんだったっけ.

そういえば「真中華一番」の第一巻を読んだらば,時代設定は清町末期と明記してあった.宮廷調理師とかいう肩書きもあったようだ.だとすれば男子は全員弁髪しなきゃ弁髪.だとすれば女子は全員纏足しなきゃ纏足.だとすれば清朝の領土には外モンゴルが含まれてなくちゃ.ついでに刺身食うなよな中華料理でよ.まあそんなのいまさらどうでもいいか.

Happy Raiding

Happy Raiding Everybody,
Happy Tomb Raiding,
Have Fun and Happy Raiding,
などという言い方があるようだ。これらは普通手紙の最後に書かれるので、
「じゃあさようなら」というような意味だと思う.
しかし,では Happy New Year とか Happy New Century はどうなる.

ボンジョルノみなさん,私は今ローマに居ます.

綱渡りは初めての体験だったので,少し難儀しましたが,
慣れてしまえばちょろいですね.
Streets of Rome というところをさくっとクリアして,
いまは Trajan’s Market というところに居ます.
Trajan’s Market はトラヤヌス市場と訳すかもしれませんが,よくわかりません.

Dino Crisis 2,せがれいじり,Bio Hazard (初代)などを買う.

Bio Hazard は面白い.
最初のムービーが実写なのが笑える.
確かに恐怖感という意味ではなかなか良くできてる.
ヒットして二作目からは,確かに良くなるんだけど,
一発目の気合いというか生々しさはなくなっちゃうんだよね.
Dino Crisis 2 は,恐竜がたくさん出てきてうざいのだけど,
まあまあ面白い.
せがれいじりは,これはなんというのだろう.
RPG のようなものか.
人生ゲームというか,すごろくのようなものか.

パソコン版の Tomb Raider は PS 版よりきれい.

Tomb Raider はやはりパソコンでやらないとほんとのおもしろさがわからない.というのは,PS だとグラフィックが汚すぎてアイテムが落ちているのだかさえわからないことがあるからだ.PS 由来のゲーム,たとえば Dino Crisis やサルゲッチューなどは,グラフィックが汚いことを前提として作られているから,アイテムが落ちてるときはそれははっきりとここに落ちてますよ,ということがわかるようになっている.ところが Tomb Raider の場合,すべてのヒントはきわめてさりげなく,かつ,グラフィックに相当依存した方法によって示されている.PS でも努力次第?で解像度の悪さを克服できるのかも知れないが,ゲームのやりやすさとか楽しさというものがかなり劣ると言わざるを得ない.

ドリームキャストだと,その問題はかなりの程度解決されると言える.しかし,Tomb Raider は高精細大画面でやることに意味のあるゲームだから,できれば 1600×1200 16bit くらいでやってみたいものである.

袴だれ保輔

吉川英治全集 48「短編集(二)」講談社の中の「袴だれ保輔」
というものも読んだ.
吉川英治は良く調べたようだ.
しかし,自害したとは書いてあるが,どこにも切腹したとは書いてない.
検非違使に追いつめられ,やけくそで腹を切って腸を投げつけた,という話は,
そうすると「続古事談」だけに見られるのだろうか.
この「続古事談」というのはなかなか手に入らず困っているのだが.

「袴だれ保輔」は,昭和 26 年に書かれたものだそうだが,
いかにも当時の世相を反映していてわざとらしい.
しかしいくつかおもしろいインスピレーションを得もした.
「袴垂」というのは没落貴族を言うのだそうだ.
おそらく,平安盛期から末期にかけて,世の中がよどんでしまい,
貴族と庶民の間の階級格差はとてつもなく広がっただろう.
日本の歴史の中でも最もはなはだしかったのではないか.
この差別というのは,もしかすると,日本社会に猛烈なストレスを生んでいたかもしれない.
ところが日本ではこのころやっと鉄器というものが庶民にも普及してきたころで,
庶民はほとんど野蛮人か未開人の状態にあったものと思われる.
そうすると,ケルト人もゲルマン人も女真人でもそうだが,
彼らはきわめて無分別でかつ剽悍であるから,
きちがいに刃物とは言うが,とにかく支配者階級に対して,
めったやたらに強盗を働いたり人殺しをしたりしただろう.
そうして捕らえられたときに,
やけくそ,或いはいやがらせ,或いはせめてもの反抗の表明,
としてやった自害の様式,として,切腹は最初は始まったのではないか.
それが当時の盗賊集団で,なんかのはずみで(ここが重要),流行になって,
「役人に捕まったときは腹を切ってはらわたを投げつけてできるだけ醜く死んでやろうぜ.
てやんでい.べらぼうめ」
とかなんとかそういうことになったのではないか.

多くの後世の軍記物が創作しているように,武士の頭領らが,自ら率先して,
切腹というものを普及させた,というのはいかにも唐突であって,ありえなさそうだ.
少なくとも平家はやってないし,また,源氏も(北条氏に取って代わられるまで)
実は一度もやってなかったと思う.
むしろ酒呑童子などの反乱分子らによって発明されたと考えるのが妥当だろうと思う.

それがいつの間にか,おそらく鎌倉幕府北条氏の頃だと思うが,
下級武士全体に広まり,
さらに室町戦国時代を経てどんどん上級の武士にも広まり
(というか,もともと身分の高い武士などいないのだが),
徳川の時代に武士の正式な自害の仕方として確立されてしまった.
しかし,このときにはもはや,反逆とかいやがらせという意味合いはまったくなくなってしまい,
はらわたをさらすということも禁じられてしまった.

切腹に先行する,日本古来の,類似の民間習俗があったかどうか,というのはなんとも言えない.
しかし,切腹というのは単なる犠牲を捧げる儀式とは思えない.
かなりの精神的圧迫と異常心理が作用してないと発生しないと思う.
それはやはり平安時代の被支配階級という暗部から生まれたと考えるとつじつまが合わないだろうか.
要するに,なぜ日本にだけ切腹という異常な自殺形態が生まれたのか,
ということなのだが,当時の世相と,偶発的なきっかけ,ということで説明できないだろうか.
たとえば,日本ではやくざものが指を落としたり入れ墨をしたりという一種の自虐行為を,
仲間内の特殊な様式としてやるが,このような心理が平安期の強盗集団にもあったとして不思議ではない.

こうしてみると,武士の発生と切腹の発生とはほとんど軌を一にしているようにも思える.
つまり源平のやんごとなき辺りはともかくとして,武闘集団としての武士は,
このようにして発生した,と思われるからだ.
そこで切腹は武士の根本教義として今日まで強い影響を維持してきたのではないか.
切腹の意義の変遷はすなわち武士そのものの変遷なのである.