吉川英治全集 48「短編集(二)」講談社の中の「袴だれ保輔」
というものも読んだ.
吉川英治は良く調べたようだ.
しかし,自害したとは書いてあるが,どこにも切腹したとは書いてない.
検非違使に追いつめられ,やけくそで腹を切って腸を投げつけた,という話は,
そうすると「続古事談」だけに見られるのだろうか.
この「続古事談」というのはなかなか手に入らず困っているのだが.
「袴だれ保輔」は,昭和 26 年に書かれたものだそうだが,
いかにも当時の世相を反映していてわざとらしい.
しかしいくつかおもしろいインスピレーションを得もした.
「袴垂」というのは没落貴族を言うのだそうだ.
おそらく,平安盛期から末期にかけて,世の中がよどんでしまい,
貴族と庶民の間の階級格差はとてつもなく広がっただろう.
日本の歴史の中でも最もはなはだしかったのではないか.
この差別というのは,もしかすると,日本社会に猛烈なストレスを生んでいたかもしれない.
ところが日本ではこのころやっと鉄器というものが庶民にも普及してきたころで,
庶民はほとんど野蛮人か未開人の状態にあったものと思われる.
そうすると,ケルト人もゲルマン人も女真人でもそうだが,
彼らはきわめて無分別でかつ剽悍であるから,
きちがいに刃物とは言うが,とにかく支配者階級に対して,
めったやたらに強盗を働いたり人殺しをしたりしただろう.
そうして捕らえられたときに,
やけくそ,或いはいやがらせ,或いはせめてもの反抗の表明,
としてやった自害の様式,として,切腹は最初は始まったのではないか.
それが当時の盗賊集団で,なんかのはずみで(ここが重要),流行になって,
「役人に捕まったときは腹を切ってはらわたを投げつけてできるだけ醜く死んでやろうぜ.
てやんでい.べらぼうめ」
とかなんとかそういうことになったのではないか.
多くの後世の軍記物が創作しているように,武士の頭領らが,自ら率先して,
切腹というものを普及させた,というのはいかにも唐突であって,ありえなさそうだ.
少なくとも平家はやってないし,また,源氏も(北条氏に取って代わられるまで)
実は一度もやってなかったと思う.
むしろ酒呑童子などの反乱分子らによって発明されたと考えるのが妥当だろうと思う.
それがいつの間にか,おそらく鎌倉幕府北条氏の頃だと思うが,
下級武士全体に広まり,
さらに室町戦国時代を経てどんどん上級の武士にも広まり
(というか,もともと身分の高い武士などいないのだが),
徳川の時代に武士の正式な自害の仕方として確立されてしまった.
しかし,このときにはもはや,反逆とかいやがらせという意味合いはまったくなくなってしまい,
はらわたをさらすということも禁じられてしまった.
切腹に先行する,日本古来の,類似の民間習俗があったかどうか,というのはなんとも言えない.
しかし,切腹というのは単なる犠牲を捧げる儀式とは思えない.
かなりの精神的圧迫と異常心理が作用してないと発生しないと思う.
それはやはり平安時代の被支配階級という暗部から生まれたと考えるとつじつまが合わないだろうか.
要するに,なぜ日本にだけ切腹という異常な自殺形態が生まれたのか,
ということなのだが,当時の世相と,偶発的なきっかけ,ということで説明できないだろうか.
たとえば,日本ではやくざものが指を落としたり入れ墨をしたりという一種の自虐行為を,
仲間内の特殊な様式としてやるが,このような心理が平安期の強盗集団にもあったとして不思議ではない.
こうしてみると,武士の発生と切腹の発生とはほとんど軌を一にしているようにも思える.
つまり源平のやんごとなき辺りはともかくとして,武闘集団としての武士は,
このようにして発生した,と思われるからだ.
そこで切腹は武士の根本教義として今日まで強い影響を維持してきたのではないか.
切腹の意義の変遷はすなわち武士そのものの変遷なのである.