外飲み

一部の店に限っていくらか外飲みも続けていたのだが、もう原則として一切外飲みはしないことにしようかと思っている。もっと早くそうしてもよかったのだが、いろんな人付き合いとかしがらみとかあるとなかなかやめられない。外で人と会うのは楽しいがそれよりも自分の方で受ける精神的なストレスがまさる。人と交わることは当然ストレスとなるのだが、若いうちは打たれ強いというか、あんまり気にならないような、さまざまなこまごまとしたことが気に障るようになってしまい、それが年をとり老人になるということなのだろうと思う。

なんかちょっとしたものをどこかの飲み屋に忘れてきてしまったり、はしごしすぎて翌朝アルコールが体に残ってたり、昔はなんとも思ってなかったようなことが今ではすごく嫌でたまらない。

外飲みしなくなればもっと時間は自由になるし、使える時間も増えるし、金は減らないし、もっと早くそうするべきだったんだと思う。

髪の毛

昔は髪の毛は切るかすくかだったのだが、だんだん髪が細く柔らかくなってきたので、すくのがもったいなくなってきて、切らずに梳かして整髪剤などで固めたり、ニット帽などで潰したりしてる。

やっと普通の人がやる整髪というものがある程度できるようになってきた。

Mac

Macを自分の仕事のサポート対象にするかしないかということでは、できればしたくないと思っていたのだが、抵抗することをやめることにした。つまり、ある一定の、自己責任の範囲で、受け入れることにした。そのために自分もMacユーザーになることにした。

私はMacはずっと使ってなかった。ちょっと使ってみようかなと思ったのは2002年くらい、MacOS9の頃だったが、使い始めてとたんに嫌いになった。文字をコピペするときフォントや色やその他すべてのスタイルごとコピペしてしまうのがとても気持ち悪かった。こんなGUIは使いたくないと思った。スタイル無しで文字だけコピペする方法はあったのかもしれないが、ともかくあのUIが全く好きになれなかったし、そういうグラフィックデザインの仕事をする人にはアリっちゃアリかもしれないが自分には絶対無理だと思った。

その後windowsやlinuxもMacOS的UIを取り入れることになったんだが、ともかくMacはすべてが気に入らない。まずもってあのスティーブジョブスが気に入らないし、教祖様の取り巻き連中が気に入らないし、プロプライエタリなUnixという概念が気に入らないし、薄っぺらなキーボード、米粒が付いた餅みたいなマウスが気に入らない。

Macbookはキーボードとパッドが気に入らないしわざわざつなぐのもUSB-Cでめんどくさいし、とにかくMacbookは持ってはいたものの、これでMacユーザーになるのは不可能だと思ったので、Mac mini を買った。ところがまず、マウスとキーボードの設定でさんざんいらつかされた。しかしちゃんと設定したので今はかなり大丈夫になった。Macが嫌いというのは95%くらいは脊髄に由来していると思う。大脳皮質に関わるところはそんな多くないってことに気づいた。

MacOSはプロプライエタリなOSなのだが、ここにいろんなツールを入れて、Linuxみたいな使い方をしている人もいるらしい。確かにLinuxのGUIは未だに非常にpoorなので、MacOSのほうがまだましだという人は一定数いるのかもしれない。私ならどちらかといえばLinuxの非力なGUIを我慢して使うほうを選ぶが。それでOSはプロプライエタリなんだがそこでオープンソースのGNUとかGithubなんかを使う技はあるっちゃあるらしい。しかしその根底にあるXcodeがプロプライエタリで、クレジットカード登録してAppleIDを取得しなきゃ使えない。オープンソースかプロプライエタリかなんか気にすることないじゃないか、クレジットカード登録強制なんてどうでも良いじゃないかって思うかもしれんが、私にとってはどうでも良くはないんだなってことに今回我ながら気づいた。

Linuxは基本オープンソースでそこに多少プロプライエタリが混ざってもええよというスタンスだ。私にとっては住み心地が良い。これがFreeBSD や GNU OS みたいに何がなんでも純血オープンソースとか言われると私はたぶんそんな世界には住めないと思う。

Windowsは完全にプロプライエタリなんであとはマイクロソフト様の努力次第と思ってる。もし Gabe Newell が元マイクロソフトの社員で Valueを創設して、Windowsをゲームマシンにしてくれていないかったら、私はもっとwindowsを憎んでいただろうと思う。Gabe Newellはwindowsの救い主だ。ビルゲイツはどう思ったかしらんが windows はゲーム文化を育ててくれたというただそれだけで敬意を払うに価する。Macにはそれが無い。まったく欠落している。

linux だと apt や yum があってすぐにコマンドラインでソフトのインストールや更新ができるが、それと同じようなことを MacOS でやろうとするとまず AppleID、次に xcode、次に homebrew、次に github に精通しないと何にもできないらしい。マゾか。キーボードもMac信者らはMac純正のペラペラのキーボードを唯々諾々として使い、ピカピカ光るゲーミングPCをせせら笑っているらしい。

ブログ再生

昔読んでたけど今は更新されてないブログがほかに移転してないか少し調べてたんだが、鈴木みそのブログはいつの間にか復活してた。いつから復活したのかよくわからん。実はつい最近のことなのではなかろうか。

http://www.misokichi.com/chinge/2022/07/post-311.html

要するに、https にして、最新の wordpress に更新しながらやってればいいんだが、昔の movabletype なんか使ってると攻撃受けて使えなくなってしまうんだな。ただこのサイトいまだに http でやっててかなり不安な感じはする。

ちはるの森は「ここの木」というサイトに移転していた。こちらは https に移行していた。

https://www.coconoki.com/shopbrand/chiharu/

ブログは facebook や twitter などの sns が出てきて、刹那的な承認欲求を求める連中はそちらに引き寄せられていき、ブログをほったらかした(ある意味私もそうだが)。古い wordpress や movabletype や http なんかを使っているところは攻撃されてどんどん淘汰されて、大量絶滅時代を迎えた。それがざっくり言えば 2015年くらいのことなんだろう。私もその頃、システムメンテナンスがめんどくさすぎてやめてしまった。

今、ブログランキングサイトなどは繁盛しているように見えるがどれもこれも、どこかのまとめサイトか、AIが自動生成したページみたいな、ゴミみたいな記事ばかりだ。sns も、インターネット全体がそうで、今やネットは膨大な電子のノイズに埋もれてしまいつつある。ミノフスキー粒子が立ちこめた、デブリだらけの空間になった。これはもう、google が筆頭で進めている SEO というやつのせいだ。自業自得というやつだ。

ちゃんと選別すればそれなりに面白い記事や著者はいるんだろうが、それを見極める新たな仕組みがでてこないとネットは(テレビがそうなってしまったように)使い物にならなくなるのではないか。かつて、自然発生的に webで日記を書く人が出てきて、いつしか有志が集まりリンク集のようなものが立ち上がっていった。再びそのような時代が来るのではないか。

NHK

チコちゃんに叱られるも、最初は、大人のくせに、ぼーっと生きてると5才の子供でも常識的にわかるようなことがわからず、子供に叱られて恥をかくよ、という程度のごく妥当なコンセプトの番組だったのだろうが、視聴者が見たがるためにどんどんネタを広げて行かなくてはならなくなり、到底5才の子供が知るはずもないような専門知識でチコちゃんに叱られなくてはならないというあり得ない状況に陥ってしまっている。しかもその専門知識にしても、いわゆる諸説ありで、なんでわざわざそんなことで怒られるのか意味不明なこともある。

しかしNHKの視聴者はたぶん5才の子供に叱られるのが屈辱的、というような見方をしているのではなくて、単にNHK様に叱られて、あーNHK様に叱られたあ、えへっ。もっとチコちゃんみて賢くなろう、くらいの気分で見ているのだろう。

この番組の制作スタッフも、NHKの管理職連中も、この矛盾にはとっくに気づいているはずだが、視聴率が取れるからやめることができない。そのうちアインシュタインでもフォン・ノイマンでもアラン・チューリングでも、シュレディンガーでも高木貞治でもわからないようなことでチコちゃんに叱られるハメになるだろう。問題は明らかにNHKそのものというよりは、NHK様をありがたがる権威主義的マゾヒストたちなんだが、だからさっさと国営放送なんていう、社会主義的、全体主義的な放送局は廃止してしまえばいいのに、飯の種はそう簡単に自分からは無くせない。

NHKという存在自体が自己欺瞞の塊になってしまっていて、中の人もとっくにそれに気づいているのだが、周りをびっしり取り巻く視聴者様がいるから、そこから外へ抜け出すことができない。

ブラタモリにしてももともとはテレビなんか見てないで町をぶらぶら歩き回ろうというようなコンセプトだったに違いないが、いつの間にかガチガチの教育番組になってしまっている。タモリも嫌でしかたないだろうがしかしタモリほどの人でもNHKの番組に出るという魅力に抗することはできないらしい。タモリ倶楽部はスタッフの犠牲の上に相当無理して続けていたんだと思う。こうしてお上品なNHKの番組だけが生き残る世の中で良いのだろうか。

しかしあの、江戸川のせせらぎでー、という歌を流行らそうとしてたのが無くなって良かった。江戸川は大河なのにせせらぎというのは言語感覚的に、NHK的におかしいだろ。

老後

見るもの聞くもの何もかも嫌になって、ツイッター見ても嫌な気分になるし、youtube premium もいい加減見尽くして次何見ようか悩むし、人様のブログ見てもあまりのくだらなさに憂鬱になる。世の中から目を背けてたった一人で生きていけば良さそうにも思うが、それではなんで、なんのために生きているのか。生きていても死んでも同じじゃないか。

エリザベス女王みたいに90才くらいまで生きてある日誰もしらんうちに死んでいた、本人もいつ自分が死んだのか気づかなかった、みたいな死に方は良いなと思う。昭和天皇みたいに病気で苦しんだあげく死ぬのは嫌だ。

もし90まで生きるとしたらあと30年もある。けっこう長い。あっけなく死んでくれても別に良いのだが、30年間あるとしたら何して生きれば良いんだろう。

若い頃と比べて寝返りをうたなくなってきたように思う。ずーっと同じ姿勢で寝ていると体が痛くなってくるので意識して右を向いたり左を向いたりする。睡眠も浅くてずーっとぼーっとしているような気もするし、実は寝てるような気もするし、自分でもよくわからん。

歯はどんどん弱く悪くなっていく。歯は鍛えても強くはならずただどんどん弱くなる一方なのだそうだ。ガムなんかを噛んで歯や歯茎を鍛えようと思っても、なんの効果もないのだという。歯はだんだんもろく弱くなっていき、やがては割れてしまう。

老後、アホみたいにどうでも良いブログを書くのは、ボケ老人の戯言で大した害はないと思うのだが、若い頃書いたものを手直しするのは非常にまずいと思っている。もうそろそろその限界の年が近づいている。

今更ブログを再開してSEOみたいなこともやり始めたのだが、これにいったいなんの意味があるんだろうか。私はこれまでもいろんなことに手を出して飽きたらまた別のことをやってきた。どれ一つとしてまともに世間に認められたことがないと思う。しかし世の中に認められるとはなんなのだろうか。本が50万部とか100万部売れることか。ブログランキングで1位になることか。そんなこととは全然違うだろう。

昭和のおっさんが、もちろん私もその一人だが、飲み屋でテレビみながら説教じみたことを言うのはほんとに害悪だと思う。もちろんそのうちおんなじように平成のおっさんとか令和のおっさんが出てきておんなじことを言われるのだろうが、どうも私には、戦後昭和のおっさんが一番タチ悪いような気がしてならない。だいたいみんな自分を過大評価していて自分は社会に必要とされているとか若者に慕われていると思っている。若者はそういうおっさんの扱い方、おだて方に慣れているに過ぎない。おっさんは社会の厳しさをすごく薄めてワクチンにして若者に接種してあげてるんだと思っているが、若者にとっては大きなお世話だ。さっさと死ねば良いと思われているだけだ。

カスタマーレビューと星

ブログ整理ついでに昔書いた小説の一覧を作ったりしてカスタマーレビューなど見てみると、『江ノ島合戦』などは散々なありさまで、『潜入捜査官マリナ』とか『妻が僕を選んだ理由』なども星は1から5までばらけているというかランダムに分布しているようにも見える。

『江ノ島合戦』は江ノ島という名がついてるから、戦国時代に江ノ島辺りでわーわー戦争があったんじゃろうというつもりで読むとそんなふうな内容になってない。非常につまらないので、腹が立って1を付けているんじゃなかろうか。史実の江ノ島合戦というのは、太田道灌が少年の頃に初陣で戦ったというそれだけのもので、そんなに大きな戦いでもなかったし、記録も残ってない。だからあることないこと話を膨らませて派手なチャンバラをやらせればそりゃ読者受けは良いかもしれないが、あいにく私はそういう小説が書けない。

戦史的に言えば、足利将軍家の本家義教が分家の鎌倉公方を滅ぼし、その分家を復興しようとして息子が鎌倉に入って、最初の一悶着を起こした、それが江ノ島合戦。その火種は後に享徳の乱を引き起こし、さらに長尾景春の乱をおこしたわけで、この一連の戦いにすべて勝利した太田道灌が、主君上杉に暗殺され、これが後北条氏の勃興を誘発するのだから、太田道灌という人を知るにはまずその起点となる重要な出来事ではある。

でも、小説を読む人は、少なくともその大多数は、そんな小難しいことなんてどうでもよく、ただ読んで面白けりゃいいのに違いない。もともと小難しそうなタイトルの小説にはそもそも星がほとんどついてない。多くの人が読んでああ面白いと評判になるような小説も多少は書かねばならん、小説を読んでもらうためには話題にならなきゃならんとは思っていても、なかなかそういうものは書けない。また、たとえ書いたとしてもどうせ読まれやしないだろうなともう諦めている。ここのブログをせいぜい整理して、読まれるかどうかはともかく、私ですらどんな小説をどんな形で書いたかもう忘れかけているから、私の作品が一度にざっと見渡せるようにはしておきたい。

ガーミン

sony に ipod が致命傷を与えたように、カシオに対してまず Apple Watch が、続いてガーミンという謎の会社が脅威になりつつある。
ガーミンは中華のパチものかと思ってたらアメリカの割とまともな会社らしい。
なるほど smart watch がソーラー発電で、日に当てさえすりゃ付けっぱなしでも動き続けるわけか。
理屈ではそうかもしれんが、自衛隊員もガーミンを最近は買っていると聞いてちょっと驚いた。ほんとだろうか。
ずっと心拍を計測し続けてくれてしかも電池が切れないというような時計が出てくれれば私も買っても良いと思うのだが。

ていうかカシオはそういう分野で新製品を出してくれないのだろうか。

googleも匙を投げた

近頃はwebで何か調べ物しようと思っても出てくるのは誰が書いたかもわからんようなアフィリエイト目的のまとめサイトばかりで、どれを読んでも似たり寄ったりで、結局役に立つことはわからない。
さらに AI が適当に書いたまとめサイトも出てきてこれもなんの役にも立たず当てにもならない。
web検索は死んだと思うし、googleももうこの状況には匙を投げたのではなかろうか。

googleという会社の将来性もあやしいもんだ。最近はもう、何をやれば良いのかわかんなくなってきてるんじゃないか。
検索エンジン最適化、SEO とかなんとか言って、要するにいかに google をだますか、それにいかに google が対処するかって戦い、実に不毛だ。そこに最近出てきた AI。馬鹿馬鹿しくてやってらんないよね。