キャバクラで接待とか

フレンチとか懐石とか、シャレオツな喫茶店とか絶対行きたくないし、キャバクラで接待されても全然嬉しくない。ガールズバーもそう。むしろ熟女パブとかのほうが楽しめる。

私にとって一番楽しめるのはやはり立ち飲み屋だな。ふらっと入って気に入らなけりゃすぐ出られる。その対極にあるのがフレンチだな。とにかくお任せで出てくるものを待つしかない。食ったからといって別に旨いわけでもない。

座るのはかまわんが狭いのは嫌だ。せめてファミレスくらいの個人スペースが欲しい。

古今集仮名序

秋の夕暮れで言いたかったことはつまり、『古今集』「仮名序」はまず貫之が「真名序」を元に六義の部分を敷衍して和訳する形ででき、後に、源俊頼が大幅に加筆して成立したのであろうということである。

具体的に言えば、冒頭は貫之が真名序を適当に和文に訳した部分。

やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。 このうた、あめつちのひらけはじまりける時よりいできにけり。しかあれども、よにつたはれることは、ひさかたのあめにしては、したてるひめにはじまり、あらがねのつちにしては、すさのをのみことよりぞおこりける。ちはやぶるかみよには、うたのもじもさだまらず、すなほにして、ことのこゝろわきがたかりけらし。人のよとなりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。 かくてぞはなをめで、とりをうらやみ、かすみをあはれび、つゆをかなしぶこゝろことばおほく、さまざまになりにける。とほきところもいでたつあしもとよりはじまりて年月をわたり、たかき山もふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたもかくのごとくなるべし。

続いて、貫之が真名序に六義とあるのを、自分なりに勝手に解釈し歌の例を挙げた部分。

なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばゝうねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは歌のちゝはゝのやうにてぞ、てならふ人のはじめにもしける。

そもそも歌のさまむつなり。からのうたにもかくぞあるべき。 そのむくさのひとつにはそへ歌。おほさゝきのみかどをそへたてまつれるうた

なにはづにさくやこのはなふゆごもりいまははるべとさくやこのはな

といへるなるべし。ふたつにはかぞへうた

さくはなに思ひつくみのあぢきなさみにいたづきのいるもしらずて

といへるなるべし。みつにはなずらへうた

きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ

といへるなるべし。よつにはたとへうた

わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも

といへるなるべし。いつゝにはたゞことうた

いつはりのなきよなりせばいかばかり人のことのはうれしからまし

といへるなるべし。むつにはいはひうた

このとのはむべもとみけりさきくさのみつばよつばにとのづくりせり

といへるなるべし。

その後は、俊頼が付け足した部分。

いまのよの中、いろにつき人のこゝろはなになりにけるより、あだなるうたはかなきことのみいでくれば、いろごのみのいへにむもれぎの人しれぬことゝなりて、まめなるところにははなすすきほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへばかゝるべくもなむあらぬ。いにしへのよゝのみかど、春のはなのあした、あきの月のよごとにさぶらふ人々をめして、ことにつけつゝ歌をたてまつらしめたまふ。あるははなをそふとてたよりなきところにまどひ、あるは月をおもふとて、しるべなきやみにたどれるこゝろごゞろをみたまひて、さかしおろかなりとしろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さゞれいしにたとへ、つくばやまにかけてきみをねがひ、よろこびみにすぎ、たのしびこゝろにあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、まつむしのねにともをしのび、たかさごすみのえのまつもあひおひのやうにおぼえ、をとこやまのむかしをおもひいでゝ、をみなへしのひとゝきをくねるにも歌をいひてぞなぐさめける。又春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ、あるはとしごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき、くさのつゆみづのあわをみて、わがみをおどろき、あるはきのふはさかえおごりて、今日はときをうしなひよにわび、したしかりしもうとくなり、あるはまつ山のなみをかけ、野なかのしみづをくみ、あきはぎのしたばをながめ、あか月のしぎのはねがきをかぞへ、あるはくれたけのうきふしを人にいひ、よしのがはをひきてよの中をうらみきつるに、いまはふじのやまもけぶりたゝずなり、ながらのはしもつくるなりときく人は、うたにのみぞこゝろをばなぐさめける。

いにしへよりかくつたはれるうちにも、ならのおほむ時よりぞひろまりにける。かのおほむよや、うたのこゝろをしろしめしたりけむ。かの御時に、おほきみみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむうたのひじりなりける。これはきみも人もみをあはせたりといふなるべし。あきのゆふべたつたがはにながるゝもみぢをば、みかどの御めににしきとみたまひ、春のあしたよしの山のさくらは、人まろが心には雲かとのみなむおぼえける。又山のへのあか人といふ人ありけりと。うたにあやしうたへなりけり。人まろはあか人がかみにたゝむことかたく、あか人はひとまろがしもにたゝむことかたくなむありける。 この人々をおきて又すぐれたる人も、くれたけのよにきこえ、かたいとのより〳〵にたえずぞありける。これよりさきの歌をあつめてなむまえふしふとなづけられたりける。

こゝにいにしへのことをも歌のこゝろをもしれる人、わづかにひとりふたりなりき。しかあれどこれかれえたるところえぬところたがひになむある。 かのおほむときよりこのかた、としはもゝとせあまり、よはとつぎになむなりにける。いにしへの事をもうたをもしれる人よむ人おほからず。いまこのことをいふに、つかさくらゐたかき人をばたやすきやうなればいれず。そのほかにちかきよにその名きこえたる人は、すなはち、そうじやうへぜうは歌のさまはえたれども、まことすくなし。たとへばゑにかけるをむなを見ていたづらに心をうごかすがごとし。ありはらのなりひらは、そのこゝろあまりてことばたらず。しぼめるはなのいろなくてにほひのこれるがごとし。ふんやのやすひではことばゝたくみにてそのさまみにおはず、いはゞあき人のよきゝぬをきたらむがごとし。うぢやまのそうきせんはことばゝかすかにして、はじめをはりたしかならず。いはゞあきの月をみるに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはしてよくしらず。をのゝこまちは、いにしへのそとほりひめのりうなり。あはれなるやうにてつよからず。いはゞよきをむなのなやめるところあるにゝたり。つよからぬはをうなのうたなればなるべし。おほとものくろぬしは、そのさまいやし。いはゞたきゞおへるやまびとのはなのかげにやすめるがごとし。このほかの人々、そのなきこゆるのべにおふるかづらのはひゝろごり、はやしにしげきこのはのごとくにおほかれど、うたとのみおもひて、そのさましらぬなるべし。

かゝるにいますべらぎのあめのしたしろしめすことよつのときこゝのかへりになむなりぬる。あまねき御うつくしみのなみのかげやしまのほかまでながれ、ひろき御めぐみのかげ、つくばやまのふもとよりもしげくおはしまして、よろづのまつりごとをきこしめすいとま、もろ〳〵のことをすてたまはぬあまりに、いにしへのことをもわすれじ、ふりにしことをもおこしたまふとて、いまもみそなはし、のちのよにもつたはれとて、延喜五年四月十八日に、大内記きのとものり、御書所のあづかりきのつらゆき、さきのかひのさう官おふしかうちのみつね、右衞門のふしやうみぶのたゞみねらにおほせられて、萬葉集にいらぬふるきうた、みづからのをも、たてまつらしめたまひてなむ、 それがなかに、むめをかざすよりはじめて、ほとゝぎすをきゝ、もみぢをゝり、ゆきをみるにいたるまで、又つるかめにつけてきみをおもひ、人をもいはひ、あきはぎなつくさをみてつまをこひ、あふさか山にいたりてたむけをいのり、あるは春夏あき冬にもいらぬくさ〳〵の歌をなむ、えらばせたまひける。すべて千うたはたまき、なづけて古今和歌集といふ。

かくこのたびあつめえらばれて、山したみづのたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまはあすかゞはのせになるうらみもきこえず、さゞれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき。それまくらことば、はるのはなにほひすくなくして、むなしきなのみあきのよのながきをかこてれば、かつは人のみゝにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくゝものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらが、このよにおなじくむまれて、この事のときにあへるをなむよろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのことゝどまれるかな。たとひときうつりことさりたのしびかなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづらながくつたはり、とりのあとひさしくとゞまれらば、うたのさまをもしり、ことのこゝろをえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎていまをこひざらめかも。

特に「春のあしたにはなのちるをみ、あきのゆふぐれにこのはのおつるをきゝ」「としごとに、かゞみのかげにみゆるゆきとなみとをなげき」の部分は不審である。前者は曽祢好忠の長歌から来ており、後者は貫之晩年の歌から来ている。貫之が古歌を参照し列挙している箇所にこれらの歌があるのはおかしい。そもそも「秋の夕暮れ」が古今集仮名序初出で、古歌や当時の歌にまったく使われていないのはおかしい。なぜそんなことを俊頼がやったかと言えば彼は頭がおかしいからである。も少し具体的に言えば彼は白河院の歓心を買い勅撰集の選者になりたかったからである。しかし白河院は俊頼を嫌っていた。だから金葉集は三奏本まで出たが、仮名序も真名序も無いではないか。俊頼はここに白河院か堀河天皇の名を入れ、さらに自分の名も入れたかったはずだ。もしかすると金葉集の序として書いたものを流用したのかもしれない。

「秋の夕暮れ」は清少納言は「秋は夕暮れ」と言い、それを和泉式部が気に入って好んで使い、それでみんなが使うようになったのである。

五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。

秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

(あさ)()()(あき)(ゆふ)()()(むし)()がごと(した)に ものや(かな)しき

(秋の夕暮れに(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを()れば (かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき (あき)夕暮(ゆふぐ)

太宰帥(あつ)(みち)親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

()つとても かばかりこそは あらましか (おも)ひもかけぬ (あき)夕暮(ゆふぐ)

あはれなる事

あはれなる ことを()ふには (ひと)()れず もの(おも)ふときの (あき)夕暮(ゆふぐ)

八月ばかり、人のもとへ

(おと)すれば ()ふか()ふかと (をぎ)()(みみ)のみ()まる (あき)夕暮(ゆふぐ)

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

(よる)()()ぬに、(さう)()(いそ)()けて(なが)むるに

(こひ)しさも (あき)(ゆふ)べに (おと)らぬは (かすみ)棚引(たなび)(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる (はる)のあした ()のおつる (あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。

Unityにはもううんざりだ

定年退職したら Windows も Mac も使わず Linux だけで生きていきたいと思っていて、Ubuntu 23.10 が出たから upgrade してみたのだが立ち上げたとたんになんかめんどくさくなってやっぱ Windows でいいかなどと考えてしまう。

Davinci Resolve はプロジェクトファイルを完全にデータペース化してるっぽくて、個別のファイルにプロジェクトを保存したり読み込んだりするには export したり import したりしなくてはならない。めんどくさいようだがこれは賢いやり方だ。逆にUnityはアセットをすべて個別のファイルで持っていて、そのそれぞれに .meta とかいうファイルを作って、さらに一時ファイルとかキャッシュとかをやたらと作りまくって、その上機能を package とかいうものにバラバラに分けてしまっていて、それを package manager とかいうものでオンラインで管理している。一つのプロジェクトが無数の細かなファイルでできている。これは一つ一つのアセットを個別にいじれるから便利なようではあるが、OSのファイルシステムに恐ろしく負荷をかけている。ファイルシステムがスタンドアローンで閉じていればまだ良いが、これがネットワークドライブとかファイルサーバーみたいに分散しているととんでもなく負荷が高まる。さらに Unity のライセンス管理はあまりにも複雑すぎる。たとえば Unity のプロジェクトを zip で固めて展開しようとするとアホみたいに時間がかかる。なんでこんなことで私が神経をすり減らさなきゃならんのだよ。

Windows の NTFS もなんでこんなもっさりしているのか。ファイルシステムが壊れないような仕掛けがしてあるためなんだろうけど、そのせいでちょっと複雑なファイル操作しようとすると Explorer ごと落ちるし、ときどきものすごく時間がかかる。どうにかしてほしい。

Unityがお利口さんならばUnityとBlenderだけで仕事したいくらいだが、はっきり言って Unity は使い物にならないくらいにバカだ。

Unreal Engine はとにかく重すぎて困る。Unreal Engine Lite みたいなものを作ってくれると Unity は即死するだろうにいつまで待っても作ってくれない。ユーザーインターフェイスもちょこちょこ変わるしドキュメントも追っつかないから Dev Community のスレッドを検索するしかない。最初はそういうのも楽しかったが、それが何年も毎年毎年続くとほんとに嫌になる。

そこいけば Blender はもうほとんど基本部分の仕様変更は無いから、これからは Blender だけ使っていければどんだけ楽かと思う。定年まであと7年なので、もう新しいことはこれ以上覚えたくもないし、世の中の流れについていこうとも思わない。定年後は Unreal Engine は Metasound とか一部だけ使い続けて、あとは Blender と Davinci Resolve、Musescore くらいを使って、OS は Ubuntu で、物書きには LibreOffice だけ使ってりゃいいか。しかし LibreOffice はいまだに日本語ルビ付き縦書きにはまったく不向きだし、できれば ATOK は使いたい。となるとマイクロソフトと縁を切るのは難しいかもしれない。定年後は Mac は絶対使わない。

Google もできれば使いたくはない。Gmail は捨てがたいが、Chrome ではなくできれば Firefox で済ませたい。

赤羽

ちょっとヒマができたので赤羽に行ってみたのだが、浅草で言えばホッピー通りみたいなところだった。立ち飲み屋がほとんどなく、ほぼ座り飲みの店ばかりで、ちゃんと調べていけば立ち飲みもあるんだろうけど、ここではそこまで店舗のテナント料が高くはないのかもしれない。

それを言えば浅草にも立ち飲み屋が多いわけではない。たいていは座り飲みの店だ。

昼飲みの聖地などと言われているけれども、上野、浅草あたりにも昼飲みの店はたくさんあるし、さがしさえすれば高円寺あたりにもあるわけだ。雰囲気としてはやはり浅草に似てて、あまりタバコ臭くもなく、おっさんばかりではなく、若い女二人連れなども多いところも似ている。これが上野ガード下となるとおっさんばかりで極めてタバコ臭い。

湘南新宿ラインを使えば、新宿から赤羽まで14分で着く。それに比べて新宿から浅草はなんだかんだで30分はかかるわけで、赤羽まで飲みに行くのは案外悪くない。なんなら赤羽に部屋借りて住むというのもアリかなとは思う。賃貸物件を見ると下町だけに古くて安い部屋はいくらでもあり、浅草あたりよりはずっとマシだ。

歯が痛い。

奥歯が欠けて詰め物をしてもらって以来、隙間ができてしまって、糸ようじがないと生きていけない体になってしまった。固いものを食べると前歯も奥歯もエナメル質が剥がれるのか、歯が痛む。二日くらいするとなんともなくなる。要するに固いものを急いで食べるのがよろしくないらしい。

できるだけ柔らかいものを、ゆっくりと食べるしかない。年を取ったというか、今まで良くもったというべきか。糸ようじ使うときもガシガシやると歯茎を痛めるから極力やさしく。先に歯ブラシで磨いてそれから糸ようじにしたほうが良いかもしれん。

明治という元号

明治という元号は(くじ)で決まった。後にも先にも日本の元号が籤で決められたのはこの時だけだ。贈正一位太政大臣岩倉具視の日記『岩倉公実記』によれば、具視は、選んだ字が吉か凶かなんて煩雑な議論をするのは時代遅れだしもうやめましょう、ついでに一世一元の制度にしましょうと提案した。中国ではとっくに明朝から一世一元であり、清朝もそうだった。

具視は越前国福井藩主松平春嶽に二、三の候補を選ばせて、天皇が自分で籤を引き、それが「明治」だったので新元号を「明治」に決めてしまった。ずいぶん乱暴な話だ。有職故実を何より重んじる公家の岩倉具視がそんなぞんざいなことをするとは。

宮中で行われる占いとしては大嘗祭で行われる(ぼく)(じょう)が有名だ。亀の甲羅を()いて占うのだが、これも天皇が自ら行うものではなく、神祇官(卜部(うらべ))が占って天皇に上奏するだけだ。天皇自ら獣骨や亀甲を火に炙り吉凶を占う。あり得ない。卑弥呼じゃあるまいし。記録が残っていない古墳時代とか飛鳥時代ならともかく、全くあり得ない。

なぜ岩倉具視と松平春嶽が二人で決めたのか。春嶽は佐幕派だが、具視は倒幕側だったはず。この二人の間でなんらかの取引が行われたのだろうか。普通そう疑うだろう。

改元の詔に列挙された臣下の名を見てみよう。

筆頭は「正二位内大臣 臣源朝臣」となっている。ちょっとわかりにくいがこの人は徳川慶喜だ。

慶応三年十二月八日、徳川第十五代将軍慶喜の上奏を受けて大政返上を天皇が許可。これを受けて翌日天皇は王政復古の大号令を発する。この時点で慶喜は将軍職を辞すが、いまだ「徳川内府」、つまり内大臣と呼ばれている。

王政復古の同日、小御所会議が開かれる。ここでは内覧、摂政関白、守護等の職を廃止するとは言っているが、太政官を廃止するとは言ってない。それはそうで、岩倉具視にとって敵は幕府そのものというよりは、幕府の武威を笠に着て、宮家や公家を支配してきた摂家、そして摂家支配の根拠となっていた「禁中並公家諸法度」だったからだ。具視が倒幕に(くみ)した理由はそこだ。具視が属する中・下流公家階級にとって倒幕とは倒摂家に他ならなかった。摂家、つまり摂政関白は常に佐幕派で、幕府老中と緊密に連携していた。

薩長は慶喜に即時領地を返納し内大臣を辞めろ、と主張する。

内大臣慶喜もいずれは「辞官納地」するだろうと春嶽は言う。しかしそれは律令制そのものが西洋式の議会制君主政に倣った新制度に置き換り、維新政府が樹立された後に、徳川家以下全ての諸侯が同時に官位官職を辞し、領地を返納する、という意味だ。徳川家としてはそれまで官位官職、そして封地を保持する必要がある。しかし薩長は徳川家だけ先に、ただちに辞官納地するよう主張する。なぜなら徳川は「朝敵」だからだ、と言いたいのだ。 勤王の志(あつ)い慶喜は言うだろう、「天皇に委任された大政は喜んで返上する。しかし朝敵になるのは絶対に嫌だ、」と。徳川は朝敵ではないから徳川だけ先に辞官納地はしない。そのため正二位徳川内大臣慶喜が筆頭で改元の詔を発布する。薩長が同意するはずがない。絶対なんだかんだと揉める。だからこの詔はできるだけ速やかに出す必要があり、天皇に籤を引かせてえいやっと改元した。こうして具視と春嶽は共謀して、慶喜がいまなお内大臣であり、太政官筆頭である証拠を残した。改元の詔勅という紛れもない公文書によって。うさんくさい討幕の密勅などこれで吹き飛んでしまった。

前島密

最初は切手と言わないで郵便印紙と名づけようかと思ったが、その頃は印紙などという文字は一般の人には新規であって、郵便という名すら既にわかりにくい上に、また印紙という新奇な名を加えた日には、所業創始のために不利益であると思って、多くの人の耳慣れている「切手」という名にしたのです。

もっとも、本省中には切手という名は余り俗で鰹節屋か何かのようだという非難もありましたが、私は賃銭という文字と好一対ではないかと答えたので、まず大笑いで済んだのです。その後、郵便賃を税と改称した時、切手を印紙と改めようかと思ったが、事に害のない以上は既に一般に知れ渡った事を変更するにも及ばないと思って、依然、切手の名を用いる事にしました。

私は郵便為替という名称は穏やかでないと思ったが、郵便切手と同じように最も当時の人の耳に慣れているのを適用したのだ。しかし「為換」の字がむしろ妥当であると言った人もあったが、「換」の字も俗眼にはやはり新奇の感があるだろうと思ったから俗向きのよい「替」の字を襲用したのです。

郵便創業談 : 郵便の父前島密遺稿集
著者 前島密
出版者 逓信協会

前島密年譜