道元歌集
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり
おし鳥や かもめともまた 見へわかぬ 立てる波間に うき沈むかな
水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は わすれざりけり
世の中に まことの人や なかるらむ かぎりも見へぬ 大空の色
春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にのこる うたがひもなし
聞くままに また心なき 身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水
濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる
冬草も 見へぬ雪野の しらざきは おのが姿に 身をかくしけり
峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と
草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我より先に 人をわたさむ
山深み 峯にも尾にも こゑたてて けふもくれぬと 日ぐらしぞなく
都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり
夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も
梓弓 春の嵐に 咲きぬらむ 峯にも尾にも 花匂ひけり
あし引の 山鳥の尾の 長きよの やみぢへだてて くらしけるかな
心とて 人に見すべき 色ぞなき ただ露霜の むすぶのみして
心なき 草木も秋は 凋むなり 目に見たる人 愁ひざらめや
大空に 心の月を ながむるも やみにまよひて 色にめてけり
春風に 我がことの葉の ちりけるを 花の歌とや 人の見るらむ
愚かなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならむ
山のはの ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶほたるかな
花紅葉 冬の白雪 見しことも おもへば悔し 色にめてけり
朝日待つ 草葉の露の ほどなきに いそぎな立ちそ 野辺の秋風
世の中は いかにたとへむ 水鳥の はしふる露に やとる月影
また見むと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする
全体的に普通。あまり説教臭くない。
最初の歌が一番有名らしいがあまり感心しない。
目には青葉 山郭公 初松魚
を思わせる。江戸時代の俳人山口素堂の句というが、道元の影響を受けていたかいなかったか。
「色にめてけり」がよくわからん。「色に愛でけり」ではあるまい。「色に見えてけり」ではあるまいか。俊成の歌に、
たかさごの をのへのさくら みしことも おもへばかなし いろにめてけり
とある。慈円のようにつまらなくもないが、俊成や西行にははるかに及ばない。
都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり
これが少し面白い。道元より後の人だが、宗良親王に
都にも しぐれやすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ
がある。道元と宗良親王には接点がある。「将軍放浪記」に書いたとおりだが、越後、越中と放浪し越前の新田・名越氏らを頼った宗良親王が、永平寺に立ち寄ったかどうかまではわからぬが、道元の境遇を自分と重ね合わせて詠んだ歌であっただろうと思う。も少し調べてみると、道元の三十才年長で藤原範宗という人がいて、
都だに 夜寒になりぬ いかばかり 越の山人 ころもうつらむ
とあるが、道元はこの歌を本歌としたのではなかったか。
夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も
これと先の「都には」の二つは、奥越前永平寺の暮らしを偲ばせる秀歌と言ってよい。
北条時頼が道元を鎌倉に招いたのだが道元は越州に帰ってしまった。鎌倉時代からの禅宗の寺はたいてい臨済宗で、曹洞宗の寺は戦国以後のものしかないようだ。