万葉調批判

長くなるので分ける。「布留の中道」。

> 日本紀、万葉、八代集までを見て、末の世の風は下劣なり、歌は万葉、日本紀を出づべからずと思ひて、
後世の歌の姿・詞一切用ゐず、万葉・日本紀を実と蓋として、この中を出づることならざる歌人あり。
これは末代の衰えたるを厭ひて、古代の未だととのはざるを知らず。

詠歌大概

さらに、「布留の中道」。「詠歌大概」とは定家の歌論書。
「布留の中道」には

> 三昧に入るがごとく、心を幽かなる所に留めて、人の未だ詠まざる風情を求めよ

> 道なき所に向かひて道を求め、及ばぬ境に吟じて新しく詠ぜんと、ならぬまでに心をかくべきなり

> 旧物を新しくすることをことに得て、歌をかたみに家の業とせむとする巧みにより、奇妙を表す。
巧成就の歌は、誠に絶妙、凡庸の及ぶべきにあらねば、時の人多くこの風に靡けり。
但し、成就せざる歌においては、大半聞こえぬのみなり。
この人々の心を詠める歌の良きは少なく、旧物を転変したる歌の良きは多し。

> 彼、堪能の人さへ成就せざれば聞こえず。ましてその教えを師として学ぶ輩の歌、思ひやるべし。
十に八九は聞こえず。
たまたま聞こゆる歌は、心汚し。・・・詞汚し。・・・「てには」汚し。・・・とかく紛らはし。
美しからむ、艶ならむとのみ、思ふ心に引き込めらるるなり。

などと紹介されている。
二つのことが挙げられている。ひとつは瞑想・三昧の境地に飛ばして、
他人のまだ詠まない奇妙な詠むということ。
これ、近代芸術で言うところのダダイズム。
も一つは本歌取り。これは近代芸術ではオマージュとかコラージュなどと言う。
いずれも12世紀後半の日本では極めて新しい「ムーブメント」だったに違いない。
蘆庵は定家を極めて正確に把握していると言える。

> 元来歌は天地人同一のものにて、その人情の自然を言へば高尚の大道、鬼神も窺ふべからざるものなるを、
凡愚の造作を本とし、心を索め、奇を探り、妙を表さむとす。汚く見ゆるもことわりなり。

つまり、蘆庵は、歌は天然自然のものであって、その本然は、人はおろか鬼神にすらわからぬものなのに、
おろかな凡人の作為でもって、わざと奇妙なふうに歌おうとするから汚く見えるのも当然なのだ、
と言いたいわけだ。
従って、凡人の作為などというものから離れるべきだということになり、
ここから「ただごと歌」というものに至るというわけだろう。
この辺り、宣長ならば、歌は当然巧むものであり、
巧み方を二条派の先達やら古典やらに忠実に学んで詠めば良いのだというところだが、
明らかに考え方が違う。

蘆庵は、一番良いのは「無法無師」であるという。
つまり、なんの決まり事もなく、誰にも教わらずに詠む歌が良い歌だと。
その例として

> 天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ

> 待てと言はば いともかしこし 花山に しばしと鳴かむ 鳥の音もがな

> 飽かなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ

> 飽かねども 岩にぞ換ふる 色見えぬ 心を見せむ よしのなければ

> ひさかたの 中に生ひたる 里なれば 光をのみぞ たのむべらなる

> 裁ち縫はぬ きぬ着し人も 無きものを 何山姫の 布さらすらむ

などを挙げている。
しかし、愚鈍蒙昧な私であるから、二番目に良い方法として、昔の人の詠みおいた跡を見て詠むと言っている。

楠公讃

上田秋成の歌、三首:

> 君が思ふ 君にありせば 剣太刀 研ぎし心の かひぞあらまし

あなたが思うような主君であったならば、研ぎ澄ました心の甲斐もあったでしょうに。
最初の「君」は楠木正成を、次の「君」は後醍醐天皇を指す。

> 君こそは 君を知らざれ 天地の 神し知れらば 知らずとも良し

主君はあなたを知らなかった。
神が知っていたなら、知られずとも良い。
最初の「君」は後醍醐天皇で、次が楠木正成。

> ほまれある 名をばあふぎて おほかたは 君が心を 知らぬなりけり

名誉ある名前を仰いでもだいたいの人はあなたの考えを知らなかったのだ。
今の人というよりは、建武の新政の人々を批判しているように見える。

面白い歌だな。どれも、橘曙覧よりはずっとできが良い。

春の家居

> 日の光 満ちぬる春に 家ゐして 庭の木の芽の 伸びゆくを見る

> たけ高く なりゆきなむと 庭の木に 春の日差しの たのまるるかな

> 軒近き 隣のやぶも 今はなし とほくに来鳴く うぐひすを聞く

> やはらかき 庭土踏みて 生ひ出づる ちぐさもも草 根引き抜く頃

> こぞの夏 食ひ荒らされし 我が庭の 木の芽に虫を はらふ頃かな

> 昼下がり ほのくらがりの 部屋にゐて かくてひねもす あらじとは思ふ

> 高き日も やがてかたぶき ありわびて 出でても行かむ 方はあらなくに

> わが宿の いばらのとげは 痛けれど なほいつくしむ 心はいかに

連休は飲み屋が開いてないので行くところがない、まじで。

ただごと歌

小沢蘆庵の歌論「布留の中道」など読む。
紀貫之が「ただごと歌」と言ったのは、一つは古今集仮名序の

> いつつには、ただことうた、

> > いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし

> といへるなるべし。

という箇所で、花鳥風月を詠むといったものではなく、またそれを描いた屏風に添えるというものでもなく、
ありのまま思ったことをただ詠んだということだろう。本文中では、読み人知らずで、恋の歌。

または、土佐日記の中で、

> 又船君のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人も言ふこととて心やりに言へる歌、

> > ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり

> 聞く人の思へるやう「なぞただごとなる」と密かに言ふべし。
「船君の辛くひねり出して良しと思へる事を。怨じもこそし給へ」とてつつめきてやみぬ。

船君とは、貫之本人のことのようだ。
「よそかいか」とは「よそかあまりいつか」のことであり、45日と解釈すべきだろう。
「40日も50日も」と訳すのはおかしい。
全体では「春の長い日を45日も船に乗って私は日を経た」というような意味で、
たしかにある意味「当たり前」であり「平凡」「ありのまま」ではある。

さて、「布留の中道」に、当時の「ただ歌」の悪例として

> 不尽の山 同じ姿に 見ゆるかな こなたおもても あなたおもても

> 女郎花 いろいろにこそ 露もおけ 花には黄玉 葉には青玉

の二首が挙げられている。一つ目は、
駿河や甲斐など、どの方角から見ても、富士山は同じように見える」
というような意味で、二つ目は
「女郎花に置く露が、花には黄色く、葉には青い色なら面白いだろう」
というような意味。
二つ目は明らかに駄作だし、面白くもなんともない。
一つ目は微妙。ただし蘆庵が批判するには、富士山を詠むには、もっといろいろと詠みようがあろうに、
ただどちらからみても同じに見えるなどと詠むのは平凡きわまりない、歌にならない、ということのようだ。

藤原公任の拾遺集に採られた歌

> (1) 朝まだき嵐の山の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき

は大鏡では

> (2) をぐら山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき

であるが、本人がもともと詠んだ歌は

> (3) 朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢばを着ぬ人ぞなき

だったと言う。
(1) は拾遺集を集めた(と言われている)花山院が本人の意思に反して「改悪」したものだと言うのだが、
これだけ異同があると、どれがほんとうなのかわからない。
(3)の説は、袋草紙という、平安時代末期の、
保元の乱の頃(1155-1159)に成立した歌論書に書かれていることであり、
拾遺集は1006年頃の成立、
大鏡は1100年頃に成立したと言われている。
一方、公任は1041に死んでいる。
袋草紙の説が間違っているとも言い難いし、大鏡の逸話はなんとなく嘘くさい、とも言える。
袋草紙は150年も前のことを言っているのであり、当時は今に伝わってない写本や、
拾遺集編纂の事情を伝える何かの家伝書もあったのかもしれんが、
今のような科学的な古文辞学的手法があるはずもなく、かなり疑わしい。
ただ言えることは、この例を挙げた蘆庵は、(3)の方が(1)よりも良く、
「実を重くして飾りを好まざる、誠に歌人の心なるべし」とほめているのであるから、
彼が主張した「ただごと歌」により近い形なのだということだろう。
なにごとも、ひとつひねってやろうとか、「一節おもしろかるべき心」を詠みこんでやろうとか、
そういうのは邪曲な心であり、自然の道に違うと考えているようだ。

千春

[松山千春ライブ ~33年の時を越えて~](http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/43388.html)。
千春が BS2 に出てたのでちらっと見る。
もっとちゃんと見れば良かったのだが。

何しろBS2とは言え、放送されるものだから、いつものように、言いたいことも言えなかったのだろう。
トークはややおとなしかったが、やや自嘲気味なところがあった。
NHK 自身、そんなところを説明するわけもない。
一度ライブにはでかけてみなくてはと思った。

steam エラー

そういえば serious sam HD: second encounter がすでにリリースされたはずだわなと思い、
steam を起動させるとなんか look & feel がずいぶん変わっている。
しかも、
Fatal Error: Failed to load Platform Modules
などと言われて起動できない。
steam.dll を削除して再度 update をかけるとうまく行った。