鬼平

新しい鬼平のドラマを見てみたのだが、やたらと役者がでてきて覚えきれない。しかも一人二役ならぬ二人一役、若い頃と年取った頃で別の役者を使っており、それが主役と脇役だけじゃなく下っ端まで全部二人ずついる。

思うに鬼平は、年末の忠臣蔵みたいに、今まで何度もシリーズ化されていて、どれもそれなりに当たっているから、役者としては出たくて仕方ない。タレント事務所もタレントを売り込むために出したくて仕方ない。またファンとしては出たらみたいと思う。だからストーリーなんかそっちのけでとにかくたくさん役者が出てくる。鬼平をやるからには当てなくてはならないと気負っている。同じようなことはNHKの大河ドラマや紅白歌合戦にも言えると思う。

キャラ設定がちぐはぐな感じ。キャラ設定に役者を合わせているというより、役者に合わせてキャラをいじってる感じがする。特に違和感があるのは岸井左馬之助で、左馬之助はもっとこう、がさつでむさ苦しい中年の浪人のはずなのに、なぜか学問好きなかっこよく身ぎれいな武士になっている。久栄もなんか妙にチャラい。火野正平の彦十だけが個性的で、これはこれでさほど違和感はない。しかし他の役者はみんな没個性でみんな同じ顔に見える。

セットにはかなり金かけてて、CGにも凝ってる。

時代劇とか、特に歴史小説は登場人物が多くなりすぎて障りになるのに、逆に最初から全部役者を顔見せで出してストーリーをないがしろにしているように感じる。台詞も説明的なものが多い。これが毎週放映というのであれば最初は登場人物を小出しにしてだんだんに増やしていけば良いのだろうが、まず正月にテレビドラマで出し、五月に映画を出し、それが当たれば続編も出す、みたいな作りになっているようだ。何から何まで作りに無理がある、制作委員会の都合が強すぎるように思える。

ストーリーの方は割と原作に忠実にみえるんだけど、鬼平のストーリーはテレビドラマにはもともとすんなりなりにくい、ひねった込み入ったものが多い。もっとシンプルな、テレビドラマ用に徹した、オリジナルのストーリーを作ったほうがわかりよかっただろう。あんだけキャラ設定いじってるくせにストーリーだけ原作重視だとすれば破綻するしかなかろう。

ファッション

今の時代、ラノベもイラストもファッション化していると思う。私は行ったこともなく興味も無いので詳しくは知らないが、コミケなどでも、ひたすら自分の好きなことを同人誌に書いている人もいるが、そのときそのときの流行りを追いかけてジャンルをたびたび変える人もいて、そういう人はイナゴと呼ばれているらしい。

実際、フリーランスの作家で、生活費を稼ぐために創作活動をしている人はイナゴにならざるを得ないだろうと思う。逆に、ある程度社会的地位があるにも関わらず、イナゴのような創作活動や研究活動をしている人を見ると私は、そんな営業活動みたいなことがしたいんなら最初から民間企業で営業職でもやれば良いのに、と思う。ましかしそういう人たちはたぶん民間企業の営業職にはあまり向いてはおらず、創作研究の営業活動がなぜか得意で、承認欲求をこの上もなく満たせるからやっているのだろう。

毎年毎年、アパレルのファッションというものは意味も無く変わっていく。ズボンが太くなったり細くなったり。月の満ち欠けのように変動する。そういうものを追いかけるのは無意味だと私は思っていた。しかし文芸における流行りというものはきっと今SNSの流行などで急に顕著になったわけではなく、滝沢馬琴や上田秋成などが活躍した江戸時代頃にも既にそうだったのに違いない。

私もファッションを追いかけてみようと思って書いたことがあったのだがどれも書いても書いても全然そういうふうにならない。出版社から注文を受けて流行りそうな文章を書いているつもりが全然そうはならないので、ファッションに左右されるような作家になったらどうしようなどという心配だけはしなくて済んでいる。

私は今更新作を書こうとは思ってない。今までずいぶんたくさん書いてきたので、それを手直しするので精一杯だ。手直しするために人の書いたものを読んだり映画を参考にしたりしている。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎

グランド・ブダペスト・ホテルという映画に冒頭、この物語を創作したとされる作家が、「よく誤解されがちだ。「作家は常に想像力を働かせ、絶えずさまざまなエピソードを発明している。何も無い所から物語を夢想している」と。ところが事実はその逆だ。作家と見るや人々はネタを持ちかけてくる。」などと語るシーンがあって、実際そうなのだろう。いったん売れっ子作家になってしまえば編集者が次から次にネタを持ち込んでくるだろうし、ファンたちも、場合によっては何の見返りも求めずに自分のネタを作品にしてほしいと提案してくるかもしれない。さらにはそのネタはもともと私が先に考えたものだと訴えてくる人もいるかもしれない。

野村胡堂の池田大作や銭形平次はかなり読んだ(というより朗読を聞いた)ので、だんだんパターンはわかってきた。これらにはたまに長編もあるがだいたいは短編もしくは短編と中編の中間くらいの長さで、岡本綺堂や池波正太郎らと比べても一番わかりやすい(朗読で聞いているだけでも読める。逆に岡本綺堂や池波正太郎を朗読だけで読むのは難しいかもしれない)。だいたい、一番犯人らしい人物がそうではなく、一番犯人らしくない人が犯人であった、というこしらえになっていることが多い。そういう、読者の推理を誤らせるような仕掛けが随所に仕掛けてあるから、読み慣れてくるとそういう手口には引っかからないぞとこちらも身構えるようになる。

岡本綺堂は江戸時代の人にしか知り得ないような、後の時代には創作もできないようなエピソードを拾ってくるのでそこが面白いのだが、純粋に推理小説として読みたい人にはそこが逆に邪魔かもしれない。非常に懐古的で、耽美的なところがある。池波正太郎となるとかなり現代小説に近づいていて、また、推理とか江戸情緒というよりは、かなりチャンバラ、つまりテレビドラマの時代劇にもともと近い内容になっている。鬼平などは中編から長編で長いものが多い。野村胡堂の作品がおやつのようにさらっと読めて楽しめるものだとすれば鬼平はこってりしたフルコースのようなものだ。

岡本綺堂、野村胡堂、池波正太郎。この三者を比較考察している人、いそうでなかなかいない。ちゃんと読むのは大変だし、たいていの人はテレビドラマで見知っているだけなのだろう。

ホームランドを結局全部そろえようと思っているのだが、なかなか手強い。3時間くらいのblu-rayが3枚組みで4巻くらいあるから、全部で40時間くらいはあるんだろう。久しぶりにきちんと最初から見ると以前よりずっとわかり良いのはやはり最初からブロディ軍曹がテロリストだってことをわかった上で見ているからだ。ブロディが死ぬまでが本編で後は惰性みたいなもんだろうから、最初のあたりはともかくきちんと見ることにする。

マンネリの定常状態

60才近くになって、今までいろんな小説を読み映画を見てきておいて、最近は岡本綺堂や野村胡堂や池波正太郎ばかり読んでいる。いや、読むこともあるが、何かの手作業をしながら youtube や audible で聴くことも多い。おそらくこうした捕物小説というものはかつて、シャーロックホームズなどの海外の探偵物を適当に日本風にアレンジしただけの低俗なものだと思われていたのだろう。日本近代文学というものがそうした布教活動をしてきた。

さらに私たちはそれらの捕物小説をテレビドラマ化した、マンネリ化したものをさんざん見させられてきた。それでますます私は、そうした捕物小説というものをバカにして今の年までまともに読まずにきた。

しかしながらふとしたきっかけで、というのは単に私が通院している病院にさいとうたかを版の鬼平犯科帳があって、病院というところは恐ろしく退屈だから読み始めて、それからケーブルテレビのドラマも録画してみたりして、最終的に原作の小説にたどりついたというわけだ。

それでいろいろ見比べてみると、里見浩太朗主演の半七捕物帳は恐ろしくつまらない。原作の雰囲気はほとんどまったく残っておらず、まったく新しい捕物話にしてもらったほうがありがたい。

大川橋蔵主演の銭形平次も最初の1、2話は少し面白いがすぐにつまらなくなってしまう。同じことは暴れん坊将軍にも言える。ぶらり信兵衛道場破りにも同じことがいえる。

鬼平犯科帳も丹波三郎主演のやつは残念ながらあまり面白くない。中村吉右衛門のは少し面白いのもある。しかしいきなり原作には出てくるはずもないくのいちみたいな女が屋根から屋根に飛び移ったりして、原作の雰囲気とかけ離れている。

銭形平次だが、やはり平次が盆栽をいじっているところへ八五郎がてえへんだと言って駆け込んでくるところから始めてほしい。しかしながら平次と八五郎のくだらない無駄話を延々と前振りにすると1話30分だか1時間のドラマの枠にはとうてい入らないのだろう。

今のドラマだと半七や銭形平次の原作の雰囲気に一番近いのは相棒だろうと思う。派手な立ち回りやチャンバラはなくて淡々と謎解きをする。

それでもともとああいうものは低俗な大衆小説を低俗なドラマに仕立てたものだとみなされてきたのだと思うが、今読み直してみると、少なくとも原作の小説は、今となっては到底書けないような江戸時代の情緒や雰囲気が描かれていて、昔はこういうものはいくらでもあったのかもしれないが、現代では非常に貴重な読み物だということがわかる。

明治や戦後、江戸時代のものはなんでも懐古主義で無価値なものとみなされていた時代には極めて軽く見られていたが、今となっては非常に貴重なものだ。

もし江戸時代の風俗を調べようと思うと、当時の黄表紙や読み本なんかを見なくてはならずとんでもないてまひまがかかる。それよりかは岡本綺堂の半七などを読むのがずっと手っ取り早い。

刑事コロンボは69話で打ち切りになったのだが、最初はすごく緻密で面白かったのにだんだんつまらなくなった。終わりの頃のコロンボは相棒よりもつまらない。マンネリがいかに恐ろしいかということの典型的な実例だ。

しかし日本のテレビドラマだとそれでも打ち切りにはならず、単に俳優をすげ替えただけのさらにつまらなくなった続編を作り続ける。しかしそうしたものにもなんらかの需要もしくはよんどころない事情があってテレビ放映されるのだろうが、おかげで私などはテレビドラマなぞは見る価値の無いものだという固定観念(固定諦念というべきか)が完全にできあがってしまった。

ドラゴンボールもマンネリになって打ち切られたのだろうし、その反省から、ワンピースは最初からマンネリ化することを想定したうえで、プロットが作られ作者が選ばれ、マンネリ化した状態を維持する前提で話を引き延ばす戦略に出ているのだと思う。弁当をコンビニで並べるように保管や流通を工夫するのではなく、最初からコンビニに並べるための弁当作りをするようなものだ。

はっきりいって今の少年ジャンプは私にはまったくおもしろくないのだが、あれだけ売れているということは需要があるのだろう。つまり笑点やさざえさんのようにマンネリ化した定常状態というものにある一定の需要があるからこそ作られている。はっきりいってまったく付き合いたくない世界だ。せめて007シリーズくらい努力してくれれば私も見続けるかもしれないが。

ついでだが、私はスティーブンソンの『宝島』はよく出来た海賊物だと思っている。当時のカリブ海あたりの風俗がそのまま記されているように感じる。ワンピースのようなまがいものが日本人に受けるのは仕方ないかと思っていたが、西洋でもワンピースが流行っているというのがまったく理解できない。私にとってスティーブンソンの『宝島』は岡本綺堂の半七であり、ワンピースは里見浩太朗主演の半七のようなものだ。

出版社や放送局にとって一番おいしいのはそういうまがいものをありがたがる視聴者であって、そういうマンネリ化して冷め切ったコンテンツをただだらだらと提供することが、一番楽に金儲けできることなのだからどうしてもそれが世の中の定常状態とならざるを得ない。それを非常に不幸なことだと思っているのはごく一部の少数派なのだろう。

さらについでだが、私にはNHKの大河ドラマがつまらなくてどうしようもないのだが、人はみな、しかもある程度歴史や文芸に詳しい人までが、大河ドラマを熱心に見ている。不思議で仕方ないのだが、マンネリとか定常状態をありがたがる一種の群衆心理と関係があるのだろう。人は社会的な生き物なのでみんな盆やクリスマスや正月を人と同じようなやり方で過ごしたがるし、人が死ねば葬式に行きたがるし、人が結婚すれば結婚式に行きたがる。大河ドラマに紅白歌合戦にNHK。そういう人間心理を利用したメディアなのだ。いやメディアとはもともとそういうものなのだろう。

例えば半七捕物帳だと、湯島聖堂で素読吟味というものがあり、武家の子弟にも将軍に謁見を許されたお目見え以上の旗本とそれ以下の御家人の間で喧嘩がある、というようなことが下敷きになっている。こんなことは岡本綺堂の頃にはまだ常識に属することであったかもしれないが、野村胡堂の頃までくるともう恐ろしく古い時代のおとぎ話みたいになってしまっていただろう。で私にはそうした下敷きの部分が面白くて仕方ないのだが、それは私が60まで年をとったせいに違いなく、普通の人にはまったくもって余計な前振りに過ぎないのだろうと思う。スティーブンソンの『宝島』に出てくる黒丸という印象的な小道具も、私には非常に興味深いが、ワンピースの読者らにとってはどうでも良いことなのだろう。

クリエイターも運営側もある一定の条件で二次創作を認めている、というケースは増えている。生成AIによる学習に使っても良いよという場合もある。ところが二次創作は著作権侵害だから駄目だと第三者がクレームをつけるケースがあるという。その第三者というのはたとえば教員などの教育者などかもしれない。自分が行う教育にどうしても二次創作という要素を混ぜたくないのかもしれない。

私はかつて某小説投稿サイトに、日本の古典を翻訳して掲載したことがあった。鎌倉時代の文章を現代語訳したというだけのことだ。なんのクレームもこなかった。

ところが100年以上前の英語の文献を和訳して掲載したら運営側からクレームが来て削除された。パブリックドメインという概念がわかっていないし、調べようともしない。

ほかにも、ウィキペディアやアメリカ政府等がパブリックドメイン画像を公開していたりするがそれも投稿禁止にしているサイトがある。そういう頭のおかしいサイトには近寄らないようにしている。

運営に法務というものがない。法務部を作る財政的余裕がない。下手に法務に手を出して厄介ごとに巻き込まれたくない。また運営側も著作権ということがよくわかってないし、分かった人がたとえ一人ふたりいたとしても全体としては著作権にかかわりそうなややこしく金にならないことはばっさり切り捨てようということだろう。運営はともかく現場で著作権管理している連中はそもそも著作権がよくわかってないので、フィーリングでこれは著作権侵害だと判断してしまうのだろうし、それをわざわざ上に報告もしない。

さらに言えば著作権をよく調べもせずにクレームをいれてくる第三者というのが相当いるのだと思う。世の中の多くの人は法律的に正しいかどうかなんてことはどうでもよくて、自分のお気持ち的に正しいかどうかで動いている。パレスチナとイスラエル、ロシアとウクライナにしてもそうだ。熊の射殺にせよそうだ。

そういう連中に対処するのがめんどくさいので、二次創作もパブリックドメインも生成AIも全部いっしょくたにして全部禁止にしてしまう、という運営側の態度は、不快ではあるが、理解できなくもない、少なくとも私がとやかく文句を言っても仕方ないと最近少し思い始めた。要するに人類はバカなのだ。文句を言うのは自分にとっても時間の無駄だし精神の浪費だし世の中はどうせちっともよくなりはしないのだ。

コンビニが勝手に入れてくるウェットティッシュが大量に余ってしかも良い感じに乾燥してきているので、キッチンペーパー代わりに使っている。

レジ袋は要るか要らないかしつこく聞いてくるくせに、ウェットティッシュは頼みもしないのに断りもなく入れてくる。それはつまりコンビニ側が、「うちはちゃんとウェットティッシュを配っています。汚い手でうちのものを食べておなかを壊してもそれは客側の責任です」と言いたいからだろう。何もかもがコンビニ側の都合でできている。

キッチンペーパーなどという贅沢なものはできるだけ使いたくないのだが、鉄のフライパンで目玉焼きを焼くときにはどうしても必要になる。焼くときに必要というよりも焼いた後に油をひいて手入れするのにどうしてもキッチンペーパーで最後に拭かなくてはならない。おかけでウェットティッシュの使い道がみつかってよかった。

かつて一億総白痴化ということが言われたけれども、これはテレビのせいで人が白痴になるのではない。人はもともと白痴なので、テレビを見るのである。

テレビ番組を作るほうも良い番組を作っていては儲からないし給料ももらえないので仕方なく人が見たがるものを作るのだ。人間の行動を冷静に観察すればそういう結論にならざるを得ない。

誰か悪意のある人間が大衆を扇動し、洗脳しようとしているのではく、人は人にだまされて初めて精神の平安を得られる存在なのである。すべてが自分のせいで、人のせいにできない状況に置かれれば人は不安で仕方なくなる。自己責任で自分の判断で生きていくことにはとうてい耐えられないのだ。