ハリソン・フォード主演の逃亡者のスピンオフで、追跡者であるトム・ジョーンズを主人公にした、という設定らしい。まんま続編。でもまあ楽しめて最後まで一気に見れた。
「最後まで一気に見れる」は私の中ではかなりの褒めことば。
ハリソン・フォード主演の逃亡者のスピンオフで、追跡者であるトム・ジョーンズを主人公にした、という設定らしい。まんま続編。でもまあ楽しめて最後まで一気に見れた。
「最後まで一気に見れる」は私の中ではかなりの褒めことば。
fallout をうまく紹介している、fallout ファンにとっても楽しめるドラマにはなっているので、一応成功しているんじゃなかろうか。主人公の Lucy MacLean 役、あとグール役もまあまあ。
fallout をまったく知らない人にとってはどうなのだろうか。ただそういう人まで巻き込んで面白がらせようという壮大な野望で作られたものではもともとないのだろう。
ぐちゃぐちゃしたスラム街の描写は良い。一気に最後まで楽しく見れたのは良いのだが、世界観というかSF考証には少し疑問が残る。特に低温核融合。なんかの起動装置を科学者の首に埋め込んでその争奪戦になるという。結局それだけの話なんだけど、その起動装置に必然性がまったく感じられない。低温核融合装置作りましたで何がいけないのか、なぜ特殊な起動装置が必要なのか、その開発者がなぜ Vault を襲わなくてはならないのか(Raiderである必然性が感じられない)、なぜ Lucy の父はあのような判断をしたのか、なんで Vault で新興宗教が流行ってるのかなどなど、すべての設定に無理があるように感じる。
なんというかもう少し、New California Republic の話で盛り上がれはいいんじゃね、とも思ったが、まあいいや。
菅原文太の木枯し紋次郎を昔見て面白いなと思って、prime video にあったのでまた見てみた。二度見たせいもあるんだが、最初の15分と最後の10分だけみればわかる、わかりやすい構成の映画だ。菅原文太の股旅物として初見でじっくり見るとそれなりに面白いと思う。最初の仁義を切るところも、昭和残侠伝に並ぶ名シーンだと思う。
島流しにあった罪人に対する扱いがひどすぎるのが少し気になった。鬼平犯科帳なんかみていると、罪人に対する扱いも、一人ひとり違っていて丁寧に描き分けられているのに対して、この作品ではただ一律に厳しく扱っていて、幕府とか任侠に対する設定が雑すぎて、戦後民主主義的偏見を感じる。罪人とか流人に対する扱いとか、江戸時代の奉行というものについてもう少し時代考証してほしい。人民はただ抑圧されていたとか虐げられていたという、ただそれだけの前提で話を作られては、納得できないし、見ていていやになる。
あと紋次郎が強すぎる。敵が何人いても一人で全部斬ってしまう。これがリアリティをそいでいる。その点やはり鬼平犯科帳は良い。強敵がいたり、ライバルがいたりしてほしい。結局紋次郎が勝つんだろという、ただ爽快感だけ求める人には良いのかもしれないが、簡単すぎてつまらない。
「あっしには関わり合いのないことでござんす」という名台詞を最後に一回だけ使わせるという演出はストイックで良い。
一宿一飯の恩義で、魚の骨を紙に包んで懐にしまっていたのは、あれはどういう意味があってのことなのだろうか。箱膳ではそうするものなのか。
渡世人が旅先でその土地を仕切る親分の元に世話になる(草鞋を脱ぐ)場合、幾つもの厳しい掟を守らねばならず、その中には「出された食事は完食する」というものもあるのです。そしてどうしても食べられない魚の骨などはああやって懐紙に包んで懐にいれることになっているのです。
博徒の食事作法。渡世人に食事を提供する側はご飯二膳の提供が作法になっており、客人は出されたものを残してはならないのも作法。おかずに魚が出た場合は、骨や尾は懐紙に包んで懐に入れ、大盛りの二膳飯を食べきれない人は一膳目の中央部分だけを食べておかわりを願い出るのが作法と言われている。
Yahoo知恵袋に書かれたものの引用。
確かに私が小学生の頃には給食は完食しなきゃならないという掟のようなものがあったが、あれも渡世の掟のようなものだったのか。
なんなんだろうか。自分にはまったく面白くなかった。ゴジラが口からなんか吐くのにいちいち背中のトゲが立っていくあの演出も、ただイライラするだけで面白くない。破壊シーンが面白いというが、は?何が、としか思えない。
雪風と震電。嫌いじゃないはずなのになんかおもしろくない。既視感のせいかもしれない。こだわりのツボが違うのかも。メカに対して求めているものが自分となんか違う。うまく説明できないが。永遠のゼロとか海賊と呼ばれた男なんかをちらっとみてつまんね、と思ってやめた感じと同じ。同じ監督だからそうなのだろうが、ともかく監督と波長が全然シンクロしない。この監督が面白いと思うものを私がことごとく面白いと感じないせいだと思う。
俳優が面白くない。一人として面白いと思えなかった。ものすごく無個性に見えた。演技が下手だと言いたいのではない。たぶんうまいのだろう。しかし役を演じているだけの、ただの記号のようだった。全員が脇役というか、ゴジラですらそうで、淡々とストーリーが進んでいくだけに見えた。
日本でも、世界的にも割と評価高かったこの映画が、自分としては全然面白く感じないのが不思議で仕方ない。もしかしたらゴジラとかガメラとか怪獣映画に対して不感症になっているのかもれない。世の中でウルトラマンとか仮面ライダーなんかが流行ればはやるほど自分の中では嫌いになっていく。マイナーなものを面白いと思い、みなが好きなメジャーな作品を嫌うという傾向はある。メジャーになっていけばいくほど特有の臭気を放つようになる。これだけの手間ひまと人と金をかけたのでこういうものができました、と言われている気がする。意外性が無い。インプレゾンビ的な、世の中に媚びているような作品になっていくような気がするのである。
じゃあおまえは監督が好き勝手に作ったマイナー映画が好きなのかといわれても困る。たぶん嫌いだ。
タランティーノ監督はわりとすきだ。レザヴォアドッグとかパルプフィクションとか、最初はなんとも思わなかったが何度かみているうちに好きになっていく。たぶんシナリオが凝ってるからだろう。見るたびになにかの気付きがある。で、ゴジラ-1 のストーリーはシンプルすぎる。なんかひねりあったかな。最後に船がいっぱい集まってきてゴジラを引き上げて、戦闘機が特攻するの。あれ、面白いか?永遠のゼロと海賊と呼ばれた男の組み合わせだよな?
たぶん私は、コロンボとかホームランドとか、目を離した隙にストーリーが負えなくなるくらい展開が読めない話が好きなんだと思う。展開がある程度読めたとたんにつまらないと感じるんだと思う。凝った戦闘シーンとかたぶん飛ばしたいタイプで、そんなのCGとかAIで自動生成できるだろとしか思えない。ハリーポッターとかスターウォーズもそう。レースシーンのSFXとか何の興味もないしハラハラドキドキしない。
Deep Red (サスペリア2) とかSource Code (ミッション8ミニッツ)も好きだな。やっぱ、作品そのものとか、作品のコンセプトが好きとかじゃないんだよ。特に特定のシリーズものだからとか、あるジャンルだから好きとかじゃないんだよ。なんかしら新しいものがみたいだけなんだな。今までなかった要素が少しでもあればよい。今までどこかでみたような要素をうまくまとめた作品は退屈なだけ。ストーリーと役者の演技、そして監督の演出が好きなんだと思う。というか、面白いと思うことが監督と一緒じゃないと面白いと思えないんだと思う。共感がない。単に娯楽作品として楽しめるように作られている作品だから楽しめるんじゃないんだよ。そういうものをみたいんじゃないんだ。
ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。
スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。
レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。
スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。
タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。
以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。
タルコフスキー、特にソラリスについて、過去に何度も書いている。タルコフスキーのソラリス、ソラリス総括というのも書いている。
DVDを借りてタルコフスキー版のソラリスを見たのは冨田勲の『宇宙幻想』を聴いて知ったからだ。初めてみたのがいつ頃だったかよくわからない。1998年、私が33才の時に『僕の村は戦場だった』と『アンドレイ・ルブリョフ』を見ている。『僕の村は戦場だった』はわかりやすい、トラウマになる映画だが、『アンドレイ・ルブリョフ』は確かにつまらない。確かロシアの農村で熱気球に乗る冒険家みたいなのが出てくる話で、もっと先まで見れば面白いのかもしれないが、いまだに見れてない。『鏡』はちょっと頭だけ見てやめてしまった。『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』などは見たことが無いと思う。今後見るかどうかもわからない。
ローラとバイオリンは、わかりやすいけど、なんかどうでも良い作品だったような気がする。
タルコフスキー版ソラリス冒頭の「バートン報告」。以前私はこれを「台詞棒読みの謎シーン」などと評しているのだけど、改めて見直すとそれほど悪い構成ではない。ただ、原作の「バートン報告」というものはああいうバートン本人の口述を録画したというものではなくて、長大で精細な報告書なのであり、それをクリスがソラリスステーションの中で読むという筋書きになっているはずだ。映画という媒体の都合上、映像で表現するためにああなってしまうのは仕方ないのかなと思う。だがあれをあの台詞だけで説明するのにはもともと無理がある。
クリスがソラリスへ旅立つ前日、クリスの父母の家に息子クリスが泊まりにくる。父母の死に目に会えるかどうかもわからない長いミッションであるらしい。池の上にしぼんだ風船が木の枝に引っかかっているのはここに子供が住んでいるということを暗示している。その子はクリスとハリーの間に生まれた娘であるらしいが、そんなことは一切説明されないし、原作にも無いことだ。母ハリーが死んだあと、父クリスが祖父母に娘を預けて田舎で育てられた、と解釈しようと思えばできる。その娘はバートンが連れてきた息子としばらく遊んでいるが、クリスがバートンを怒らせてしまい、バートンは息子を連れて帰ってしまう。その後バートンと息子が乗ったタクシーが延々と東京の首都高速を走る有名なシーンがあって、何か特別な意味があるかと注意してみてみたがよくわからん。でもタルコフスキーの映画ではただひたすら白樺林の中でくるくる回っている主観視点の映像などあるから、こういう目の回るようなシーンが好きなのかもしれない。首都高シーンの後に再びクリスの父母が住む田舎のシーンに移るから、文明と自然の対比を言いたかったのかもしれない。この田舎のシーンが非常にくどいのは最後のオチがまたこの田舎に戻ってくるから、伏線として念入りに描写したのに違いないし、昔はこういう長回しのシーンが許容されていたということもあるかもしれない。ともかくも現代から見れば不可解なほどに長い意味不明なシーンがたくさんある。
タルコフスキーとしてはソ連にああいう立体交差の高速道路があればそれを撮ったに違いないが当時も、今のロシアにもそんなものはあろうはずがない。タルコフスキーとしてはアメリカのインターステートみたいなものを撮りたかったのではないか。しかしソ連の映画監督がアメリカに撮影に行くこともできなかったろうし、また、標識が英語で書かれているのも都合が悪かっただろうから、しかたなく東京で撮影したのかもしれない。
カラーと白黒のシーンがランダムに混ぜられているように思える。モノクロにすることに何か意味(回想とか想像とか)があるのかと思って見てみたが、よくわからん。当時は映画がモノクロからカラーに移行するときに当たっていて、地の部分をモノクロで、特に派手に演出したいところだけをカラーにしたのかもしれない。
クリスがバートンから直接話を聞くという設定も、クリスがバートンに無理解なのも、映像でストーリー説明するにはこうするしかなかったような気もする。最後のオチも、原作のあっけない終わり方では映画にならないから、タルコフスキーが苦心して付け足したものかもしれない。
ソラリスステーションに到着したばかりのクリスがなんだかよくわからない東欧風かアメリカ風なのかわからない普段着を着ていて、革のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというのは奇妙だ。基地の内部も今の目で見るとあまりにも宇宙船ぽくない。というのは私たちがキューブリックの2001年宇宙の旅を見た後だからそう思うのかもしれない。
などとあれこれ考えてみるにアレは何か奇をてらったとか、余計な解釈をしたというよりも、レムのゴリゴリのSFを割と無難にタルコフスキーが映画にまとめた作品だった、と言っても良いのかもしれないなと思った。
あの映画の恐ろしさというのは、やはりハリーの登場シーンで、目を覚ますといきなりハリーが椅子に座っていて、手に持った櫛で顔をなでる。それから立ち上がり寝起きのハリーにキスする。バートンが見た幻覚を馬鹿にしていたハリーが、自らその幻覚を見るはめになった驚きと恐怖が良く表されていると思う。もちろんその後にもショッキングなシーンはいくらもあるのだが、ひっぱってひっぱってあそこでいきなりハリーを出したのはやはりインパクトを最優先した効果的な演出で、それはソダーバーグ版ソラリスとは全然違っている。ソダーバーグ版ではクリスと妻レイア(ハリーから改名)の映像が冒頭から延々と繰り返される。
wikipedia惑星ソラリスには
上記の、東宝から発売された『名作・ソビエト映画』吹替版VHSは、(中略)地球シーンが無いことなど、実は「映画版」と「小説」が乖離している部分がかなりカットされており、タルコフスキーの世界観を度外視するならば、奇しくもレムによる原作に近い仕上がりになっていると言える。
などと書かれているが、誰が書いたかしれないが、ずいぶん余計な感想だなと思う。レムとタルコフスキーが喧嘩した話なども、そりゃそれくらいの意見の相違はあったろうなとしか思えない。レムは、映像だけでストーリーを説明しなくてはならない、ちゃんと起承転結をつけて客を楽しませなくてはならない映画という媒体に対しておそらくまったく何の理解もなかったと思うし、レムの言う通りにやればそもそも映画化は不可能だっただろうと、タルコフスキーに同情したりもする。
ところで クリス・ケルヴィンはロシア語では Крис Кельвин (Kris Kelvin) と書くらしいのだが、Kris も Kelvin もロシア人の名前らしくない。彼はイギリス人という設定だったのだろうか。Sartorius はドイツ人ぽい。スナウトもなんとなく英語っぽい感じだ。Hariという名もなんだか変だ。レムは無国籍な、聞き慣れない名を使いたかったのだろうか。Henri Burton に至っては明らかにイギリス人の名だ。Gibarian もイギリス人かドイツ人の名前っぽい。
それからついでだが『宇宙幻想』は冨田勲が46才のときに作った作品だが、今からみると2001年宇宙の旅に始まり惑星ソラリスに終わる、途中にLPレコードに収まりきれるだけ曲を安直に詰め込んだ宇宙SFもののアラカルトに見える。だが当時、あんなふうにフルオーケストラの曲をそれっぽく、正弦波と三角波と矩形波とノコギリ波とノイズしか出せないアナログモジュラーシンセサイザーとデジタルシーケンサーだけで演奏したというのはおそろしくすごいことである。今ならDAWがあれば誰でもあれくらいのものは作れてしまうのだが。
『惑星』『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』はSF三部作と呼ばれているらしい。『惑星』が一番名高いらしいが私はどちらかといえば『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』のほうが好きだった。『バミューダ・トライアングル』を知らなければプロコフィエフを聴くなんてこともなかっただろう。
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結局、最後にはアラビアのロレンスとかベン・ハーとか十戒なんかを出してきて、まったく役に立たないってことがわかっただけだった。ちなみに copilot はもう少し馬鹿だった。
Disney+のShogunが流行ったことで、ディズニーは、NHK大河ドラマを真似ればアメリカでも流行って儲かるということがわかってしまった。これからディズニーはどんどん大河ドラマをパクってくる。ディズニーはNHKとは違って日本史に閉じたドラマは作るまい。東アジア史をやり、西アジア史をやり、ヨーロッパ史をやり、アメリカ史をやり、そして世界史のドラマを作るだろう。日本史しかやりたがらない大河ドラマは絶対に勝てない。
大河ドラマが扱うネタにしても、鬼滅の刃みたいなアニメのほうが面白いとなればますます大河ドラマの存在価値は失われる。タレント事務所と制作委員会とNHKに阿(おもね)ったドラマ制作はもう終わりだ。実に良い気味だ。これはNHKだけの責任ではない。旧態依然、伝統芸能と化した大河ドラマを飽くまでも延命させようとしてきたファンの責任でもある。
ブラックリスト見た。面白いんだが、何かが物足りない。homelandやvivantとは違って、エピソードがぶつ切りで、敵役は次から次に移り変わっていく。24 -twenty-four- 形式か。メインのキャラクターには何か裏設定があってそれをラストまで引っ張っていくという戦略なのだろうが、これって全部見る必要ある?と思ってしまう。
脚本はよく練られていて、これまで作られてきたFBIものCIAもの、いわゆる政治サスペンスものの王道を行っていて、俳優もみな魅力的なんだが、なんというのかなあ、悪い意味で幕の内弁当的というか。homelandだとここのエピソードはともかくとして全体のストーリーというものがあったし、キャラクター設定は破綻寸前のようにみえて一応の統一感を保っている。そういう危なっかしいところ、優等生的な作品ではないところ、ある種実験的なところに魅力があった。ブラックリストにはそのどれもがない。だから意外性が無い。ああ面白かったな、でもなんとなく既視感がある、で終わってしまう。でもまあテレビドラマなんてものはそれで良いわけで、成功した作品と言って良いのだろう。当たるかはずれるか一か八かの作品なんて商業的には作ってられない。
ある意味最近の少年ジャンプの作品なんてみんなそんなものではないのか。私もドラゴンボールあたりまではみていた。ドラゴンボールも途中で飽きて見るのをやめた。ワンピースも連載初回から見てしばらく見ていたが、途中で飽きて見るのをやめた。作り込まれれば作り込まれるほど意外性はなくなっていって、見る気がしなくなる。テレビ番組もみなそうだ。
Netflix でいうと Surviver というのがある。これも最初はプロットの面白さで見ていたが途中で飽きた。これ、最後まで見る必要ある?ただ惰性で続けて引っ張ってるだけだよな、と思えてきた。Lupin もそうだ。面白い着想だが、全部見る必要ない気がした。
おそらく homeland は、この先どういう展開になるか、もしかしてドラマ自体が破綻して終わるのではないか、というような心配を見ている側にさせる。しかし blacklist は、テレビドラマの水戸黄門を見ているように、どうせ一件落着するんだろうと安心して見ていられるから、メタな意味で面白くないのではなかろうか。
ククルスドアンの島を見たのだが、最近の日本アニメってすごいんだな、というのが感想だった。モビルスーツはCGでかっちょよく動くし、キャラクターは正真正銘安彦良和の絵がなめからに動く。ストーリーもさすが富野由悠季、まったく破綻がない。セイラさんの口調がなんだか気持ち悪いのがなんとなく歴史修正主義みたいだがまあいいか。技術が向上し、お金も人もかければこのくらいは作れるんだな、という印象はあるが、意外性は少なかった。そりゃしょうがないよね。ドラえもんもクレヨンしんちゃんもそのほかいろんな日本アニメはみんなそうなのだ。長谷川町子原作のサザエさんは長年テレビでアニメ放送されているうちにすっかり毒気を抜かれてしまった。同じことがガンダムでも進行中なわけだ。ガンダムもまたどこかで見たことある日本アニメの一つになってしまった。
正直な話私はそうした類いの作品を見たいわけではないのだが、このククルスドアンはあまりにもよくできていたから最後まで一気に見てしまった。しかし何度も繰り返し見るタイプのものではないかもな。
改めてこの最新ガンダム作品を見てみるとアムロなんかがいちいち「アムロ中尉」などと呼ばれているのが気になる。昔からこんなにいちいち階級で呼んでいたのだろうか。さらに日本が作る戦争ものには共通のウェットさがある。義理と人情。浪花節。同じ感覚をvivantにも感じたし、タランティーノも日本映画(仁義なき戦いのことか)に影響されてレザボアドッグスを作った、などという人もいる。このククルスドアンでも特有の暑苦しさを感じた。日本料理に必ず醤油が使われているような。特色でもあるが呪縛でもあると思うんだ。もっとすかっと作れないんだろうか。