casio databank 電卓付きゴールド

つい買ってしまったのだが、いろいろ問題がある。

防水ではないので、つけっぱなしで使うことに不安がある。

それでも気にせず使おうかと思うと、重いせいか、ベルトが外れやすい。爪でひっかけるだけの構造なので、そこが問題。

困りましたな。普通のチプカシ使うかな。

シーバスリーガル

ちょっと贅沢してシーバスリーガルを買って飲んでみたのだが、ジョニ黒かジャックダニエルに近い味。甘みを感じると思う。実際に甘いかどうかはしらんが。樽の匂いと味なんだろうなあ。これはさすがにハイボールで飲むのはもったいない気がするなあ。

ジョニ黒まではぎりぎりハイボールでも飲めるが、シーバスリーガルは高すぎる。私の感覚では。ハイボールだと味の違いがわからなすぎる。

ついでにアーリータイムスが安かったので買った。普通は、ジャック以外のバーボンは飲まないのだが、安いので買った。ハイボールで飲む。

エウメネス6を久しぶりにいじった

何度も書いていることだがほぼ1年ぐらい、ある新作をずーっと書いている。半信半疑、ほんとに出版されるかどうかわからないまま、たぶん出版されるだろうというつもりで書き続けている。1ヶ月くらいでだいたい書き終えたのだが、そのあともずーっと推敲したり書き換えたり削ったり書き足したりしてその推敲を最優先にしてきた。もちろん私もただの暇人ではない。のんびり執筆活動に没頭できる身分ではない。なので、kdpの作品はほとんどいじっていなかった。

しかしひさしぶりにエウメネス6をいじってみた。

いやー。どうなのかねこれは。とっちらかっているよね。わざとそういうふうに書いているからというのもあるが。これを読める人はいるのかね。書いた自分が読んでも疲れるのに他人が読んだらどうなのかね。

エウメネスは、1は、誰が読んでもだいたい読めるように書いたと思う。

2から3も、途中が少し退屈かもしれないが、読めなくはないと思う。

しかし4、5、6はどうかな。1、2、3 が読めた人のためにおまけで書いたものなので、すごく読みにくいと思う。自分としても読みやすさより、いろいろ実験したいことをしている感じのもの。

普通の小説はこんなに読みにくくないと思う。たとえば鬼平犯科帳なんかは一応全部一続きの長編ではあるが、その中にもいくつか短編があり中編があり長編があってそれらがくみあわさって続きがあっている。前や後ろの話を知らない、もしくは忘れていても、部分的に読んで読めなくはないから読みやすいというのはある。

しかしエウメネスはそうではない。しかも時系列にはなってない。全編頭の中に入っていないとわからない内容になっている。タランティーノ作品、例えばパルプ・フィクションやレザボア・ドッグスに似ている。キル・ビルは少し違う。キル・ビルも時系列にはなってないが話が割と切り分けられていて、それぞれの部分のアクションシーンをみれば楽しめるようになっている。

鬼平も登場人物は多いが、エウメネスはめちゃくちゃ多い。中には私が勝手に作った人物もいるがだいたいはみんな歴史上に実在する人物で、私としては必要があって仕方なく出していて、削れるものなら削りたいが削れなくてでてきてるから説明して読者に理解してもらわなくてはならない。

たぶん私は自分がどこまでのものを書けるか試すためにエウメネス6を書いている。それを人が読めるかどうかってことはほとんど考慮してない。そして私自身まだ全然エウメネス6を書ききれてない。自分自身に課した課題のようになっている。自分自身去年書いたものを読むと荒い。雑だ。他人はどうかしらないが私には推敲は絶対に必要。推敲をしていくことによって自分の文章を書く能力を高めることもできるように思う。うん、推敲は大事。私はもともと雑な文章を書く人間だと思う。だからそれを矯正するためにも推敲は大事。ものすごく有能な編集者がいて勝手に直してくれるのでもかまわないが、あいにく私はすべて一人で書いている。

ジーロフトでエウメネスとアルトニスが新婚生活を始める。二人とも10代で出会い、アレクサンドロスの遠征に巻き込まれて、30過ぎでやっと結婚した、という設定だ。それだけでもかなりひねくれた設定だなと自分でも思う。しかもそこにアマストリーという女の子がからんできて三角関係になっている。けっこうえぐい設定だなと自分でも思う。

アルトニスには父アルタバゾスがいて、弟のファルナバゾスがいる。アルタバゾスは海賊であり総督でもある。そういう有力者の一族の閨閥に組み込まれたエウメネス(歴史的にも実際にそういう立場の人だったはずだ)。そういう日常生活ももっと描き込みたいのだが、そういうことをしているとこの話はもっとどんどんと込み入って、ぱっつんぱっつんに膨らんで、まったく全然違う印象の作品になっていくだろう。

結局、私にとって理想の小説とはなにか、それを自分で書いてみよう、そういう実験作品みたいなものになりつつある。

私ははじめこの小説を、「王とはなにか」ということをテーマに書き始めた。私はもともと天皇とはなにかということをずっと考えていた。もっと一般化して王とはなにかということを、日本に限らず、過去にさかのぼって、世界史的に考えてみようと思った。もっとも王らしい王とはアレクサンドロスなのではないかと思い、彼を書くことにしたが、主観視点と三人称視点を両立させるために、アレクサンドロスの側近を仮の主役にすることにした。読者を仮の主役に感情移入させることによってアレクサンドロスをよく観察させて、没入感をだそうというただそれだけの設定だったのだが、長編にする時点でその仮の主役、つまりエウメネス個人のことをことこまかに書くことになった。もともと私はエウメネスにはなんの関心もなかったが、書いてみるとそれなりに書きがいのあるキャラだ。書記官、学者という設定が、私に合っている。新井白石や、大塩平八郎を主人公にするのと同じ感覚だ。

アマストリーという王女も面白い人で、彼女を描くこともまた、「王とはなにか」「王族とはなにか」というテーマに沿ったものになっていると思っている。

ともかくエウメネスを書き切るにはあと十年はかかると思う。

twitterの中毒性

twitterは、ふと思いついたことを書き留めておくにはむいている。スマホでちょっとなにか書くのにむいていて、もしその思いついたときに twitter に書いておかなければそのまま忘れてしまうだろうという強迫観念でつい書いてしまう。

思うに、ほんとうに書き残さなければならないことであれば、紙にメモでもするなりしてあとでブログに書けば済む話だ。twitterがなければならない理由はないし、後でよく考えてから書いたほうが良い文章が書けるだろうし、間違いも少ないし、いきなり世の中に公開して恥をかくこともないわけだ。

またtwitterではいろいろおもしろいこと役に立つことを書く人がいるのも事実なわけで、ついみてしまう。しかし読まなきゃよまないでもなんとかなるわけで、どうしてもひまでほかにすることがないときくらいしか読まないようにしようと思っている。

twitter で読み書きしているうちに人はだんだん精神をおかされていくのではなかろうか。収益化なんかすると余計に。まあしかし、それはブログでもユーチューブでも同じだろう。ユーチューバーも収益を上げようとしてだんだんおかしな動画を作り始めるように思える。

twitterはもうダメだ

最近のtwitterは何もかもカタにはめようとしてくる。さらにカタに自らハマってインプレッションを狙うようなやつばかりが増殖している。

プロフィール画像を変えようとしたのがすぐには変わらなくなった。撮ったばかりの写真をすぐにプロフィール画像に使おうとすると規制がかかる仕様なのかもしれんし、だいたいそういうときに使った画像は後で直したりもするのだが、とにかく何からなにまで挙動不審で得体がしれぬ。こんなものを使っていてはダメだ。知らず知らずに精神を操作されてしまう。見るのも書き込むのもやめたほうが良い。

結婚制度

上野千鶴子という人が結婚していたことについて文春が書いてそれについて飯山陽があれこれ言っているのだが、私は上野氏の主張にはさほど矛盾は感じなかった。というよりも一貫した主張をみた感じがした。

上野氏は結婚という社会制度は認めないが恋愛は認めていてずっと伴侶がいたが、その伴侶が死ぬ寸前に婚姻届けを提出して配偶者となって遺産を相続した。既存の社会制度の枠組みの中で一番手続きをスムーズに進めやすかったからそうしただけのことだろう。

上野千鶴子という人を好きか嫌いかといわれれば、どちらかと言われれば嫌いだがそれよりなにより私とは関係無いとしかいいようがない。文春に関していえばそんなことをわざわざ調べて金儲けするとは下品だなとしか思えない。

飯山陽に関していえば、そんなネトウヨみたいに上野千鶴子などのことでいちいち騒いでないで、もっとほかにもいろいろやることはあるだろ、とは思う。

飯山陽の書いた本を橋爪大三郎が褒めていて、飯山氏はその本で橋爪大三郎のことも批判しているのにそれでも橋爪氏が飯山氏の本を褒めているのはあっぱれだと言っていた。橋爪氏はかつて小室直樹の学説を批判したことがあるが、そのとき小室直樹は橋爪氏に対して怒らなかったのだという。学問とはそうしたものだから、自分を批判する飯山氏に対しても、良く批判した、勇気ある行為だ、学者というものは内輪で褒め合っていてはいかんなどとと言ったのだという。

飯山氏が嫌いな学者(?)に池ちゃんマンがいるのだが、池ちゃんマンも橋爪大三郎も東工大社会理工学研究科の教授で、江藤淳がいて、橋爪大三郎がいるところにあとから池ちゃんマンとその一派を送り込んできたのはいったいどこのどいつらなのか、そのときどんな学内政治が行われたのか、東工大の中の人たちはこの人事をどう思ってるのか、すごく気になる。

追記: 池ちゃんマンは池上彰ではなく別の人らしい。

社会理工学研究科なんてもう存在しないのか。まあいいや。

ネトウヨに賛同できないのは、たとえば夫婦別姓とか同姓とか、西洋の影響を受けて明治以降にできた制度にすぎないのに、それのせいで家族の結びつきが失われるとか、日本が日本でなくなるとか言っているところかね。薩長政権こそは結婚制度をぐちゃぐちゃにした張本人で自民党はその残滓だろ。きちんと歴史的検証をして、それが保守すべきかどうか、考えてないというか。脊髄反射的にこれは守らなきゃいけないんだって思ってるところがいやだよな。