youtube

私がyoutubeを使い始めたのはもう11年ほど前のことで、家にあった8mmのフィルムをVHSにダビングしてあったものを、miniDVにさらにダビングして、それをデジタル化したものをmp4かなんかにして、それはもうだいぶ前のことで、たぶん 1998年とかそれくらいにその作業をしたんだけど、それを 11年ばかり前に youtubeに公開したのが始まりなんだが、それよりか前にその動画は自分のウェブサイトかなんかで公開してたんだよね。

今はもうテレビに出てるタレントなんかもみんなyoutubeで収益化とかやってて、私がやってるチャンネルは2つあるんだが、どちらも登録者は700人くらい。

真面目にやればもう少し増えるかもしれない。要するに、再生時間を稼げるような動画をせっせと毎日作ればいいんだろ。できなくはないと思うが、やるとしても定年退職後のことかな。動画編集は自分で普通にできるしできる範囲でやれば良いと思っている。儲けたいというよりは、定年後何もすることがなくて退屈しないように。ユーチューブも今と昔ではずいぶんと変わったよなあ。そこいくと wordpress は基本的にはなんも変わってないかもしれんな。

最終〆切

今書いている本は去年の今頃に話が出て、1か月くらいで書いたものをさらに1年くらい推敲してきたもので、ほんとに出版してくれるのかどうか半信半疑ながらも、紙の本で出せなきゃ KDP で出せばいいやというくらいの気楽な気持ちで、ともかく自分がどこまでモノを書けるのかという限界を見極めようというようなつもりで、文章の密度と完成度を高めてきた。

これは要するに、虚構の歌人藤原定家や、読めば読むほどわからなくなる本居宣長の延長線上にあるものなのだが、今回は単著実名で出す初めての本となる。もちろんそんなに出したきゃ自費出版でもなんでもよかったわけだが、今後また本を書く機会があるかどうかはともかくとして59年の人生を締めくくる内容になっている、私という人間がこの世に残していく記念碑となる本になると思っている。

おそらくどんなに遅れても年内には出るだろう。そろそろ脱稿しないとメンタルがもたない。というか今日がその最終〆切のつもりなのだが。31字の和歌を詠むのと同じ気合で20万字の文章を書くのは物理的に、分量的に不可能だ。しかし推敲に1年かければそれに近いことはできる。できるけれども精神的負担はものすごくでかい。今はもうしばらく休みたい。しかし生きるということ自体メンタルがもたなくなってきている。仕事もそうだし持病もそうだし、年を取ると飯を食うにも酒を飲むにしても、何もかも面白くなくなる。書くと言うことも今回やりつくした感があって、しばらくやりたくない気分だ。

いまさら何か新しいことに手を出してあれこれ試行錯誤しても、人生あと20年で終わるんかと思えば、腰を据えてやる気にもならんし、今までやってきたことを整理するだけであと20年くらいはあっという間に過ぎるのではないかと思っている。

読めば読むほどわからなくなる本居宣長で書きたかったことはほぼ書いたと思う。宣長の本ではないので、宣長についてまだ全然まとめておきたいことはあるんだけど、宣長単独の本なんて誰も読まない(というか理解できない)ってことはわかりきっているんで、書きたいことは書いたからいいやと思っている。今回樋口一葉についてもかなり書いたんだが、これまた、じゃあ樋口一葉で一冊書くかといわれると、とにかく今は疲れていて、当分考えたくもないというか、本を書くためにあれこれ読んだり、これ以上勉強するのがおっくうになってる。とにかく本を書くのに疲れた。

バブル

まだまだ上がるアメリカ株という記事を以前に書いたのだが、雇用統計も悪く失業者は増え、貧乏人はどんどん借金漬けになって行き、物価も高止まりして上がることはあっても下がることはないのだが、株価は相変わらず上がっている。

つまり株を買うような連中は別に何にも困ってなくて逆にますます収入があって、余った金を投資しなきゃならないからさらに株を買う、という循環になっているのではないか。ここで慌ててブレーキをかけて金融引き締めしたり利下げしたりすると景気が冷え込む。そうした政府の政策のせいでリセッションが起こる。逆に、貧乏人を犠牲にしてますます借金漬けにして景気を過熱させれば、最悪でもソフトランディングで済む、とアメリカ政府は考えているのではなかろうか。経験則で言えばそういう結論にならざるを得ないだろう。

国民全体の福祉とか考えちゃいない。日々の生活にも困る路上生活者があふれてもかまわない。格差社会になっても構わない。それよりか、ともかく景気を冷やすのが一番悪手である。すがすがしいまでにそう開き直っているようにみえる。アメリカって結局、一部の軍事産業か国際企業ががーっと儲けて、貧民はそのおこぼれで生きていく、という社会なんだろう。

景気を冷やさないためには治安が悪化しようとかまわずどんどん移民を受け入れ、貧乏人に借金させなきゃならない。なに、アメリカの一部がスラム化しても全体として健全ならそれでいい。もちろん金持ちも借金しまくって、キャリートレードで利ザヤを稼げばそれで良い。経済を回すには借金しかない。アメリカ人はみんなそう思ってるフシがある。明らかにバブルなんだが、これまでいろんなバブルを経験して、日本のバブルも観察して、中国のバブルも観察して、それで自分たちだけはうまく立ち回れると思っているのではなかろうか。

つまりアメリカはついにバブルをつぶさないコツをつかんだのかもしれない。それは、いくら失業者が増えようと、景気が落ち込まない限りにおいては、貧乏人にはどんどん借金をさせ、破産させ、会社は倒産させる。そうすれば金持ちは安心してどんどん借金して株や不動産を買って、運用するから社会は回っていく。日本みたいに総量規制なんかして急ブレーキを踏むからいけない。ブレーキは絶対踏んではいけない。それが国家経営の極意なのだ。

自民党

自民党が派閥解消して総裁選をやり、パーティー券を売るのもやめるという。これはもはや自民党とは言えないのではないか。自民党はもともと連立政権が一つの政党になったもので、政党内政党、つまり派閥を持つことを前提として成り立っている政党だったはずだ。麻生が派閥を肯定したのは当然だ。しかし岸田は派閥をぶっ壊して逃げた。

派閥無しでガチンコで総裁を選んで総理大臣を出したとして、その総裁のもとに自民党がまとまるという保証はあるのか。

政党政治というものはもともと派閥政治である。派閥を否定するのであれば、自民党は普通の政党の集合体になるしかないのではないか。

私は今みたいな寄り合い所帯が長期独裁政権を続けるよりは、派閥ごとに政党を組み、場合によってそれらのいくつかが連立政権を立てる、というやり方のほうが良いと思う。岸田はそこまでの考えがあって今回の挙に出たのだろうか。

自民党は長く続きすぎてあまりにもつまらなくなった。ネトウヨ政党はちょっと面白いだけでまるでまとまりがなく、政党をどうやって運営していくかということがまったく手についてない。そろそろまともな政党が出てきてほしいものだが、どうなることか。

たけくらべ

樋口一葉のたけくらべとか幸田露伴と森鴎外がたけくらべを批評した「三人冗語」などを読んでいるのだが、確かにたけくらべは面白いといえば面白いのだが、最近はこういう、いわゆるジュヴナイルな小説というものはいくらでもあるので、当時どのくらい珍しくて新鮮な衝撃だったかというのがわからない。

話はおそらくは逆で、樋口一葉のたけくらべから、筒井康隆のジュヴナイル小説やら少女漫画などが生まれてきて、感覚がマヒしてしまっていて、それで今たけくらべを見ても何も目新しさを感じないのだと思う。あとやはり文体が古すぎるのも現代人にピンとこない要因だ。

樋口一葉研究の第一人者と言われる塩田良平の解説なども読んだのだが、なんだか異様に決めつけが多いように思う。半井桃水と一葉の関係とか、なんとかかんとか。

ピッチアクセント

ゆうだい先生の「ピッチアクセント」の動画を見たのだが、日本語にはもともとアクセントとかイントネーションというものがなかったのだが、なぜか平安時代の京都にいきなりピッチアクセントというものが生まれて、それが日本各地に広まっていったのだという。

思うに、平安時代かあるいは奈良時代の後期に、中国語の四声というものが、漢字の音読みとともに日本に渡ってきたのではなかろうか。最初の頃は漢字の四声も含めて律儀に発音していて、それがじんわり大和言葉の発音にも影響を与えて、つまり、漢語と大和言葉を混ぜて話しているうちに全体にアクセントというものができてしまったのではないか。

アクセントのあるしゃべり方をしていたのはおそらく日本人ではなく、百済人などの渡来人だったのではないか。そのうちに漢字の四声は忘れられ、日本語のピッチアクセントだけが残った、というのはどうだろうか。