私は幼稚園生の頃から祖父に絵を習っていた。
祖父は元尋常小学校の訓導で美術を教えていた。
祖父には剣道も習ったがこれは嫌で嫌で仕方なかった。
中学くらいから内村鑑三や小室直樹を読み始めた。
祖父からの間接的な影響だったと思う。
祖父は戦時中の雑誌などを持っていたからそれを読んだりした。
内村鑑三が頼山陽に言及していたので興味を持ったが、漢詩や漢文は難しすぎてすぐには読めなかった。
頼山陽のファンになるのは四十過ぎてからだ。
大学受験のとき明治神宮にお参りして御製集を入手してからはなんとか和歌を詠もうとがんばった。詠めるようになったのは二十歳すぎてからだ。
それでまあ私は画家か歌人になりたかったのだろうけど、
絵も和歌も商業的にはまず食っていけない。
そのときたまたま俵万智の「サラダ記念日」が出たのだけど、
あんなものはいわばまぐれ当たりであって、
歌人が食えないのにはなんら変わりがない。
画家というのはグラフィックデザイナーやイラストレーターやCGクリエイターなんてのであれば食えなくもなかったのかもしれない。
歌人というのも俵万智みたいなことがあるわけだから可能性が0ではないのかもしれない。
しかし私は少しだけ数学が得意だったから理系に進み、
将来は電気技師のようなものになるつもりでいた。
しかし大学に入ってみて分かったのは私よりもずっと才能あるラジオ少年はこの世にいくらでもいるということだった。
しかし25歳くらいに他の人よりも少しだけ研究者に向いてるらしいということに気づき、バブルの絶頂期に隠者のような生活を始めた。
そんでまあ40過ぎて自分の本業の限界も見えてくると余力で絵とか和歌とかがやりたくなる。
副業でできる範囲でいいからやろうと思い始める。
或いは本業に少しでも絡む形で絵やら和歌をやろうとする。
しかしながら和歌というものはまず一般人にはわからない。
俵万智ですら和歌とはいわず短歌という。
短歌と言いたくないので和歌という人の気持ちをわかってくれる世間の人はほとんどいない。
それでまああるきっかけでもって歌物語を書いてみようと思ったわけだ。
小説ならば歌集よりはまだ人に読んで楽しんでもらえるかもしれないと。
だから私が最初に書いた小説は『将軍放浪記』なのである。
私が一種のCG屋さんであるというのはkdpの挿絵を見てもらえればなんとなくわかると思う。
歌の全然出てこない話とか挿絵メインの話とかも書いたり、
比較的純粋な歌物語である『西行秘伝』を書いたりもした(『西行秘伝』は新作ではなく[旧作](/?p=8753)のリメイクである)。
しかし、『将軍放浪記』『西行秘伝』が歌物語だと認識している人がどれくらいいるのだろう。たぶん普通の歴史小説として読まれているのだろうと思う。
歌人や画家は、小説家(とくにエンタメ系)よりはずっと世の中をはかなんでいる、
つまり売れることを諦めている。
もちろん売れた方が良い。
本業をやらなくてもすむくらい売れればいいのだが、
まあ無理だ。
多少売れたとして焼け石に水だろう。
小説を書き始めた動機の一つは日本が本気で絶不調になって私の給料も減り始めたからだ。減った分を自分のまだ活かしてない才能を切り売りして(売れるものなら)補填しても文句は言われまいと思った。
宣長も本業は医者だった。
文芸で食える人もいるだろうが(同時代人だと滝沢馬琴とか山東京伝とかか)そうでなくても全然おかしかない。実際宣長にはなりたいが馬琴になりたいとはまったく思わない。