国会図書館の本を物色していて、木俣修「日本秀歌 第7 増訂版」春秋社というものを見た。この木俣修という人は北原白秋の心酔者らしいのだが、桂園派についていろんな意味でいろいろひどいことを書いている。およそ明治の歌人らの歌を紹介しているのだが、旧派歌人、桂園派の歌人の歌は一人一首ずつしか挙げておらず、紹介するさえおぞましいといわんばかりだ。一番多く挙げているのは与謝野晶子。なるほどこの人は北原白秋や与謝野晶子のような歌が良い、つまり明星派の歌が好みなのであろう。彼は要するに敵であるところの旧派をけなし、味方であるところの現代短歌を擁護するにあった。
桂園派にはまず高崎正風を筆頭とする御歌所派があり、ほかには井上通泰らによる新桂園派(単に御歌所寄人ではなかっただけでほぼ御歌所派と同じと言って良い)、大八洲学会・東洋学会に属する歌人は古典派と呼ばれたという。民間にいた桂園派としては佐々木弘綱つまり佐々木信綱の父や与謝野礼厳つまり与謝野鉄幹の父などがあったという。
高崎正風が「題詠で終始した」と言っているのは明らかに事実ではない。桂園派歌人がみな春夏秋冬恋雑の歌しか詠まなかったと思っているとしたらおそらくその人は歌を何も知らないのだろう。
朝凪ぎに 沖の鰯や 寄り来らむ しほさき追ひて かもめ群れ飛ぶ
「叙景歌において、一つの事実をふまえて、他を推量するというような手法は、桂園歌風の常套であるから、一読してその固定した歌調の古さにつきあたる」とはひどい言い方だ。新派の歌にだってそんな歌はいくらでもあるだろう。おそらく木俣修という人は、写生の歌、目の前の情景をありのままに切り取った自然主義的な歌が良い、そう言いたいかもしれない。
古今集を宗とする桂園派は、古今集の美意識からほとんど一歩も外に出ることはできなかった。「風雅」という理念にしばられていた彼らは、現実の生活意識や時代感覚などとは全く没交渉であった。中世的な風雅というようなものの生きる現実的な基盤は、すでになくなっていたにもかかわらず、こうしたものの追求をこととし、その境に陶酔していたところに、旧派歌人たちの錯誤があり、短歌が他の文芸ジャンルの進展に添うことのできなかった原因が見られるのである。
これまたひどい。確かに高崎正風などは香川景樹の影響を受けて(事実は八田友則などから聞いた又聞きのたぐいだろう)古今調崇拝であったかもしれないが、香川景樹自身、必ずしも古今調に縛られていたわけではない。桂園派とは万葉調から江戸後期までのすべての古典的和歌を継承したものであって、木俣修は鎌倉、室町、江戸の和歌など何も理解できないのだと思う。
明治に入って新しい文芸ジャンルが次々に生まれてきたのであれば、そちらの新しいジャンルでせいぜい頑張れば良いのであって、和歌にまで口出しされるいわれはない。新派歌人こそ、明治以来の文明開化という理念に縛られていたにすぎないではないか。
正岡子規や伊藤左千夫ら根岸短歌会、つまりいわゆる根岸派、のちのアララギ派のことも、さほど詳しく知っているわけではないようだ。「根岸派は閉鎖的で歌壇的勢力も片隅的なものであった」というのもおかしい。アララギ派は明星派のライバル、新派の二大勢力だったわけで、相手のことを攻撃しているとみられても仕方あるまい。
伊藤佐千夫の歌を見るに、彼はほぼ完璧な大和言葉で歌を詠んでいる。これはまぎれもない和歌である。ごくまれに黒楽とか芍薬などの漢語を用いることもあるが、固有名詞だから、まあ仕方ないともいえる。根岸短歌会を立ち上げた明治30年以降の正岡子規に至っては、漢語はほぼ無制限に使っているから、伊藤佐千夫は子規よりもまだ和歌の伝統を守っていたというべきだ。
木俣修って紫綬褒章もらってるんだなあ。しかも昭和天皇の和歌指導までしている。