歌論の源流

藤原清輔は藤原俊成より10歳年上であり、
清輔には歌論書『奥義抄』があり、
俊成には『古来風体抄』がある。
清輔は治承元年に死んでいるから、源平の争乱直前までしか知らなかった。
『古来風体抄』が『奥義抄』の影響を受けてなったのは間違いなかろう。
俊成は90歳まで生きており、晩年新古今集勅撰の院宣が下っているのだが、彼は後鳥羽院に自分よりも息子の定家を選者に推薦したのだろうと思われる。

定家や後鳥羽院の歌論が断片的、羅列的で、簡素明快なのに対して、
清輔や俊成の歌論の方が長大で体系的なのは不自然だと思う。
おそらくは、紀貫之の仮名序のような、ごく感覚的な文章や、
いくつかの歌に注釈を付けたようなものの集成があって、
それらは確かにもともと俊成や清輔が書いたのだろうが、
それを核として、多くが後の世に付け足された、と考える方が自然だと思う。
ただ、俊成はそうとうもうろくしていただろうから、老人の繰り言というかな、自分でくだらないことをくどくどと書いた可能性もあるわな。
ちゃんと調べてみないと。

天皇が和歌に深く関与したのは白河院が初めであり、
次には崇徳院が、その次には後鳥羽院が和歌を発展させた。
この時期に歌論が生まれ、さらに歌学へと体系化される下地ができた、と考えられる。
その生成過程は非常に興味深い。

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