班田収受というのが基経の時代、元慶3年(879年)に行われた。実に50年ぶりだったという。これは明らかに基経主導だっただろう。元慶官田など。
元慶2年(878年)出羽国蝦夷俘囚の反乱というのは班田収受を強行しようとしたことに対する反発で、それを鎮圧したということだろう。
高子が元慶寺を元慶元年に建立しているのだが、その出費がかさんだためではなかろうか、などと考えてしまう。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とある。
高子は元慶2年にも山城国愛宕郡(京都市左京区岡崎東天王町)に東光寺を建立とあって、後に高子は東光寺僧(座主?)善祐と密通したとして皇太后位を剥奪される。
ともかくこの時期高子ちゃんは自分の子供の陽成天皇が即位して、国母となれてものすごくうれしくて、たくさん寺を建立しちゃったんですよ。夫の清和天皇は外に女を作りまくるしね。お兄ちゃんの基経は一生懸命税金を集めまくるんです。で、たぶん、高子ちゃんは善祐や遍昭のパトロンだった。もっと親密な関係であったでしょう。業平との関係もなかったとはいいきれない。
そんで、京では天使様が代替わりしたかしらないがその母親が夫を追放して遊蕩しまくって、そのため税金とりにくるとなれば、陸奥で反乱が起きるのは当たり前だわな。
最後の班田収受は延喜2年に行われたのだが、これは菅原道真が失脚し、藤原時平が実権を握った直後であるから、父基経にならって時平が強行したのではなかろうかと思われるのだが、よく分からん。もし道真が計画していたとすると、話は全然違ってくるのだが、情報が少なすぎる。
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