設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

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