天皇の系図を見ていると、どうも、応神・仁徳あたりでようやく難波に進出しており、
それまでは九州あたりにいたのではないかと思えてくる。
景行天皇の熊襲征伐、神功皇后の三韓征伐、継体天皇の時代の磐井の乱、
天智天皇の頃の白村江の戦いなど、大きな戦はみな九州か韓半島で起きている。
神武天皇のいわゆる神武東遷という事績は、あったのかもしれないが、
当時大和は一番東の端の辺境であり、神武は陸奥を征伐した源義家のようなものではなかっただろうか。
日本外史の徳川氏の系譜などみていると、
神武から開化までの一本調子で空虚な系譜によく似ている。
徳川氏は自分のルーツを源義家までたどりたかったからああいう無理な系譜ができたのである。
古代なんらかの歴史的できごとはあったのだが、それにルーツを求めようとしてあのような系譜になった。
応神天皇から武烈天皇までの頃、
拠点が難波から大和川をさかのぼって初瀨までのラインに置かれたことがわかる。
応神天皇陵、仁徳天皇陵などは、この時期に断続的に行われた大和川開鑿の土木工事の副産物だ。
しかし継体天皇より後、再び日本の中心と言える場所は揺れ動き始める。
少なくとも初瀨ではなくなる。
神武が橿原で即位したとすることによっていろいろ問題が起きてくる。
ここが日本の中心になったのは天武から後ではなかろうか。
今のロシアもそうだ。
もともとロシアはキエフから来て、キエフは東ローマからきた。
しかしロシアが自らのルーツをモスクワ大公国にたどろうとすることによって、
いろんなゆがみが生じるのだ。
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