[『山月記』の会話記号](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11901836130.html)。
確かに中島敦は句読点やカギ括弧の使い方にかなりのゆらぎがある人で、
私としてはそれに好感を持っている。
言語として意味が通るかぎり作家は出版社や新聞社の慣習や、文部省の指導要領などから自由に、
文章を書くべきである。
作家は型にはめられるべきではなく、また自ら型にはまるべきではない。
> 「おはよう」と言った。
と
> 「おはよう。」と言った。
には若干のニュアンスの違いがある。
それを誤記だと決めつけられるのは困る。
この例ではわかりにくいかもしれないが、私はカギ括弧の終わりの「。」は原則省かない主義であり、
しかし、「。」を意図的にはぶく場合もあるのだ。
記法が統一してないとか誤記だとか言われても困る(もちろんうっかり間違うこともある)。
間接話法だからカギ括弧はいらず、直接話法だからつけなくてはならない、とかそんなことはどうでもよろしい。
> 次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人食い虎が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。
カギ括弧を付けたほうが落ち着きがよいのはわかる。
特に「通れない。」で一旦切れているから、全体をカギ括弧でくくったほうが会話の切れ目がわかって親切だ、
という理屈がわからぬでもない。
せめて「通れない、」にしてくれというのも、理屈はわかる。
しかしだ。もし私がいちいちそういうことまで編集者に口出しされたら、そのうちぶち切れるかもしれん。
中には有用な、傾聴に値する、自分では気付かなかった、ありがたく従わせてもらうような指摘もあるだろう。
しかし最終的に、自分の書きたいように書いて発表できなければ意味はない。
小説というものは、往々にしてわざとわからぬように書くものである。
わかるように書くのであればシナリオのト書きのように書くのがよい。
だれが話したかわかるからだが、
しかし、
よく読めば誰の発言かがわかるのが小説というものだ。
よく読んでも誰の発言だかわからないこともあるが、それはその他大勢の脇役が不規則発言をしたと考えてもらいたい。
わからないのにはそれぞれそれなりの意味がある。
たとえば私の書いたものの例でいうと、「エウドキア」の冒頭、
> ある穏やかに晴れた朝、エウドキアは庭先の丸石に腰を下ろし、目の前に広がる故郷の海の砂浜でブルトゥスが波にじゃれているのをぼんやりとながめていた。
としたが、これは何度も何度も書き換えてこの形に落ち着いたのであり、
私としてはこう書かざるを得なかった。
ここではエウドキアが何者かはわからぬ。
もちろん「エウドキア」というタイトルの話だから主人公だということはわかる。
副題やあらすじもつけているからエウドキアが将来ローマの皇帝になることも読者は知っていよう。
だが、ブルトゥスが何者かはわからぬ。
波にじゃれているのだから子供か飼い犬か何かだろうとは予測がつくが、
実際ブルトゥスが何かというのは、ずっと後になってみないとわからない「仕掛け」になっているのだ。
多くのものはこの段階ではぼんやりと、ラフに描かれていて、
次第に細密に描きこまれていくのだ。
それが小説というものだろう。
私の場合は特に、歴史小説の冒頭は、
現代小説のように書くようにしている。
しばらく読んでいくうちに歴史的な小道具を出してきて、
現代ではありえない、過去の、ある場所の出来事であることがわかるようにしている。
なぜかというにあたまっから過去の歴史の話であると思って読んでほしくないからだ。
今自分の身の上におこったことのように感じてほしい。
つまり当時の空気の中に読者を連れ込み没入させたいからだ。
また作者自らも当時の空気の中に浸ってみたいのだ。
源氏物語のように句読点もカギ括弧もなかった時代の文章に、
適当に句読点やカギ括弧やふりがなを付けるのは良いだろう。
しかし近代の小説をいちいちいじくり回すのはやめたほうが良いのじゃないか。
我々が普段目にしている夏目漱石の小説も、おそらく、
新聞に連載されるときに新聞社の都合で手直しされ、
教科書に掲載されるときに出版社の都合で手直しされたものであって、
夏目漱石そのままの文章では無い。
そうやってだれかの不作為の意図によって文章は改編され均質化されていく。
決して良いことではない。
昔の人が書いた油絵を俺ならこう描くと手直ししているようなものであって、
絵画では決して許されないことだ。
文章だから心理的にも技術的にも割と簡単にできてしまう。