紫式部

『紫式部日記』をざっと読んでみたのだが、
ますますこの紫式部という人がわからない。

たとえば、額田王とか小野小町とか赤染右衛門とか和泉式部とか式子内親王とか。
有名な女性の歌人はたくさんいるが、みな読めばすっとわかる歌ばかりだ。
和泉式部日記にしろ、
清少納言の枕草子にしろ、
菅原孝標女の更級日記にしろ、
読めばすんなりわかる普通の文章だ。
しかし紫式部はよくわからん。
藤原定家や北畠親房にも似たようなものを感じるが、紫式部はますますわからん。
ただ、源氏物語が長編だからわかりにくいとかそういう問題ではなく、
とにかく屈折しててわからんのだ。

たとえば空蝉とか夕顔とか若紫とかヒロインがみんなやばいし源氏の口説き方もやばい。
いや口説いてすらいない。ああいうのは誘拐という。
覆面をしたまま連れ去って自分は顔を見せたが相手は名乗らない。
そのうち生き霊にたたられて死んでしまう。
ひどいストーリーだ。
正妻の葵上の扱われ方もひどい。まあそんなものだったのかもしれんが。

江戸時代のまっとうな武士が源氏物語を罪業の書だと思ったのはごく当然だと思う。
しかし、『紫式部日記』を読むと彼女も仏教によって極楽に救われたいなどと考えているようだ。
メンヘラなのか。

> 年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな

これは『紫式部日記』に出てくる、玉葉集にも採られた歌だが、
どうも精神を病んでいるような歌だ。そう思えば思うほどそう思えてくる。
「埋れ木を折り入れたる心ばせ」とはどんな性格なのだろう。
今で言う引きこもりかニートのような性格か。
源氏物語のヒロインの多くは美人であることを世間の男達に知られぬように、
ひっそりと生きている。それはたまたま紫式部がそういう性格なだけなのであって、
平安女性の一般的な生き方、処世というのが、みんながみんな、
いわゆる「深窓の令嬢」的なものだったという認識は違っているのではないか。
だって顔を見たこともないのに恋愛なんてできますか普通。
普通にサロンのようなところに出入りして男性と知り合うのではないのか。

『紫式部日記』の記述も、『源氏物語』と同じで、唐突で断片的で断定的。
彼女の周りだけなにか地軸がねじ曲がっているような感じ。
ああいうものを平安文学の典型だと思うといろんな意味で問題があると思う。
宣長は絶賛しているけれど、彼にもその気が多少あったのだろう。

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