濹東綺譚はもちろん読んだことがある(濹西綺譚なんてものを書いてみたこともある)のだが、小田原まで行く用事があって途中だいぶ間があるから小田急線の中で改めて濹東綺譚を読んでみた。浅草に半年も住んでみたものだから、地名がいちいちわかるのが面白い。
活動写真の看板を一度に最
多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷
浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り杖
を池の縁
に曳
く。
とあるのは明らかに今は、東洋館、浅草ロック座なるストリップ小屋が建ち並ぶ通り(六区ブロードウェイ)のこと。
一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町
へ出たので。右の方は言問橋
左の方は入谷町
、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、
これはあきらかに、ひさご通りを通り抜けて、千束商店街の手前、言問通りまで来たところのことを言っている。
永井荷風は千束通り(千束商店街)のことを千束と言っている。実際今の浅草二丁目から五丁目の西側はかつて浅草区というものがあったときには千束町の一部であったらしい。戦後、下谷区と浅草区が合わさって台東区ができて、そのとき区割りも変わった、ということか。
さらに古くは、千束村は浅草区、下谷区、北豊島郡南千住町(大字千束)に編入されていたという。結構変遷があるものだ。もともとは千束池というものがあったあたりを全部千束と言っていたのだろう。
わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先の定らない散歩の方向は、却てこれがために決定せられた。歩いて行く中わたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
古本屋の店は、山谷堀の流が地下の暗渠に接続するあたりから、大門前日本堤橋のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方は土管、地瓦、川土、材木などの問屋が人家の間に稍広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気な小家がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などいう橋の灯がわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。
ここは少々難しい。千束商店街が尽きるまでいけば日本堤にぶつかる。土手通りを左に行けば吉原大門、見返り柳だ。山谷堀公園という遊歩道は戦後昭和になって暗渠になった、ということはそれまではまだ水が流れていたのだろう。つまり山谷堀公園が尽きるより上流が当時すでに暗渠になっていたと考えて良いだろう。
日本堤橋は吉原大門を出た真向かいにあったはずで、ここには今、桜鍋屋(創業明治三十八年、中江)や馬肉屋が残っている。その裏通りというのは土手通りに沿って、つまり、山谷堀の右岸が土手通りで、左岸が裏通りと言いたいのに違いない。
髪洗橋(紙洗橋)というのは東武ストアへ行くあたりにある。地方新橋はデニーズのあたりにある。地方橋はローソン100がある交差点、千束商店街のアーケードが尽きるあたりにある。いずれも橋の名前ではなくて、土手通りの交差点の名前として残っている。下流から順に言えば、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、となるはずだ。
要するに、かの古本屋というのは吉原大門前の桜鍋屋の並びか、その裏通りあたりにあったと考えればよかろうと思う。