中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。
北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。
歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。
北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。
松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。
私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。
そうではなかったのだ。
為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。
それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。
為兼によって京極家は途絶えたが、
しばらく分家の冷泉家に伝わった。
例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。
為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。
了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。
正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。
心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。
この頃から連歌が流行しだす。
源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。
金葉集の頃だ。
しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、
長いものを作るようになった。
東常縁の弟子が宗祇。
宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。
そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。
常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。
保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、
反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。
たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、
二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、
京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。
しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。
小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。
我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。
宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。
これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。
私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。
幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。
今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。
そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。
しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。
理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。
宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。
しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、
のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、
或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。
勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。
そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、
国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。
そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、
その分岐点は明らかに定家だったのである。