坂本龍馬の有名な歌
> 世の中の人は何とも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る
については以前も考察した[1)](/?p=3091)[2)](/?p=6446)。
これは直接には、吉田松陰の歌
> 世の人はよしあしごともいはばいへ賤が心は神ぞ知るらむ
を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に
> 人知れぬ思ひのみこそわびしけれわが歎きをば我のみぞ知る
というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、
坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。
紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。
> 大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです
どうなのかなあ。
大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、
ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、
たとえば
> かくすればかくなるものと我もしるなほやむべきかやまとたましひ
これなんかはまったく吉田松陰の歌
> かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂
そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、
それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。
勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。
ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。
歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、
それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。
大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。
新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。
具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。
龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。
龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。