思うに、佐渡島に流された後に順徳院に生まれた皇子、あるいはその子孫を「宮家」
というのはなんかおかしな感じである。
誰がそんなことを言い始めたのだろうか。
佐渡島にいたはずの、順徳院の子孫は臣籍降下したかどうか不明である。
かといって親王宣下されたわけではない。
だから何世代のちになっても「王」であり、皇子であり皇女である。
だからそれは宮家である、という理屈であるとすれば、
それを言い出した人はそうとうな山師だ。
まったく同じことは後南朝でも起きた。
後南朝を「宮家」と言いたがるのも同じような連中だろう。
南北朝時代に、北朝において、後醍醐天皇系統ではない大覚寺統の末裔、
例えば亀山天皇や後二条天皇の血統を、
北朝の天皇や上皇が自分の猶子とすることで保護することがあった。
これは南朝に対抗するために違いない。
特に後二条天皇の血胤は、ただ大覚寺統であるというだけで、
持明院統と特別に対立しているわけではない。
かかる血筋をいわば、分家として保護するのはわかる気がするのである。
また大覚寺統縁故の者たちは後醍醐天皇が吉野に逃げた後の、
京都における大覚寺統を復興しようともくろんだであろう。
彼らには亀山院の遺産を相続する名分がある。
伏見宮家は北朝から分かれたが、
本家に対する分家の位置にあり続けた。まさに今で言う宮家である。
これが対等な立場の皇統ならば持明院統と大覚寺統の二の舞になったところだ。
閑院宮家は、新井白石らの提議によって、皇統が絶えないようにと意図的に作られた宮家である。
これは徳川御三家や御三卿などから発想したものだろう。
閑院宮家が無ければ皇統は伏見宮家まで移るしかなかった。
ところが明治になってやたらと伏見宮家から分家が出来て、宮様はみな軍人にさせられてしまい、
戦後伏見宮系統の宮家はすべて皇籍離脱させられてしまった。
本家筋にあたる閑院宮家は男子がおらず女子ばかりで現在大変な状態にある。
せめて江戸時代の、後水尾天皇以後の宮家が残っていれば良いのにと思うのだが、
全滅してしまっている。
白河天皇以後、江戸時代までは、余った皇子はみな法親王にしてしまった。
むしろ、伏見宮家が断絶して、本家筋から養子に行くなどしていたほうが、
まだ血は近かったのに違いない。
思うに、閑院宮家が男系で皇位継承ができたとしても、
伏見宮家系統の皇族復活は、できるだけ早めにやっておくべきだ。
これから百年くらいは、閑院宮家には男子が非常に少ない状態が続く。
その間、「未来の天皇」を出すかもしれない家系を、
百年以上にわたって皇統から切り離しておくのはよろしくない。
すべてを復帰させる必要はないとしても、一部は戻したほうがよい。
ハプスブルク家だってブルボン家だってサヴォア家だって今も王家は続いていて、
いつ王国が復活するかわからないわけだが、
余りにも長い間庶民と混じって生きていくのは良くないのではないか。
明治に入ってこんなに宮家が乱立したのは皇統が薩長のおもちゃにされているのだ。
一橋慶喜や薩会同盟の薩摩のエージェントらが、
中川宮などの法親王を還俗させて宮家にしたのが発端だ。
それまで親王以外の余った皇子は王ではなくて法親王になっていたのにみんな親王か王になり、
宮家を創設するようになったから大混乱だ。
江戸時代の皇統も、特に伏見宮家などはかなり徳川に便利に使われている感じだ。
それは室町期でも同じだ。
皇子や宮家が異様に多いときはその取り巻きが盛んに皇統を利用している結果だと思う。