桓武天皇はやはり異常だ。
皇統譜を書いているとよくわかるのだ。
桓武平氏と言っても、四系統ある。
第三皇子葛原親王、第九皇子万多親王、第十皇子賀陽親王、第十二皇子仲野親王。
このうち葛原親王系から将門と貞盛が出て、
貞盛から伊勢平氏が出て、清盛につながる。
古今集に出てくる平貞文などは仲野親王系。
平氏以外に、
第七皇子明日香親王から出た久賀氏、
さらに良岑氏がある。
良岑氏といえば遍昭以外知られてないマイナーな王族だがそれなりに子孫繁栄している。
桓武天皇の皇子から平城、嵯峨、淳和天皇が即位した。
嵯峨天皇にも皇子が多かった。
平城天皇と淳和天皇はさほどでもないが、平城天皇からは在原氏が出た。
嵯峨天皇は桓武天皇よりも極端で、皇子は多いが、仁明天皇以外の直系王族はほとんどがすぐに消えてしまっている。
ともかく桓武天皇時代の親王の数が異常に多いし、
親王以外の皇子はさらに多い。
桓武以前と桓武以後でまったく様相が異なる。
白河院時代に親王を極端に減らし、親王以外の皇子はみんな法親王にしてしまって、
皇室財産を緊縮したのとは大違いなのだ。
そもそも光仁天皇から桓武天皇に譲位した理由も謎だ。
光仁天皇の父・志貴皇子系統の皇族はいくらでもいたのに、
よりによってなぜ百済人の后の皇子が即位せねばならなかったのか。
たしかに志貴皇子は天智・天武系統の中では傍系なので、有力な后がいない。
しかし天武系は途絶えて藤原氏を后とする有力な皇子が無い中でなぜ桓武天皇が即位したのか。
おそらくだが、平安末期に平氏や源氏が擡頭してきたように、
この時代、百済人の勢力が非常に強かったのだ。
藤原氏などの名門貴族もその百済人たちの力を借りないと朝廷を操縦できない。
だから藤原百川など一部の藤原氏が桓武を擁立した。
さらに藤原冬嗣など百済人の血を引く藤原氏がその路線を継承した。
桓武天皇の時代は皇子の時代だったが、
王族の子孫が平氏となり源氏となることによって、
武士の時代となって、皇子は不要になってしまった、ということだろう。
桓武天皇の勢いは皇室には留まらずにその外の社会に波及して増幅していった。
もし桓武天皇と同じ規模で皇室が維持されていれば日本は大陸型の中央集権国家になっていただろう。
しかし皇室はたちまちにしぼんでしまい、無数の支族が枝分かれして繁栄することになった。
だから封建社会になった。