訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。
四月四日、訓導にも動員令が下ったと、
祖父は「応招前記」という日記に書いている。
面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、
祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった
(もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

> きのふまで人ごととのみ思ひしに今日より我もいくさ人なり

悪くない。
明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

> 戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや

> 菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ

> 粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを

> 沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり

> 動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため

> 今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら

> メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける

> 我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ

> 皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな

> いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ

> みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。
そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

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