実朝の謎は深まる

図書館から、いくつか本を借りてくる。

太宰治「[右大臣実朝](http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html)」。
1943年。
なんか異様に長い小説。
実際に長いというより長く感じる小説。
戦争中になぜこんなものを鬱々と書いていたのだろうか。

小林秀雄「実朝」。
いきなり吾妻鏡。
小説は真実より深く行くことがあるからとか、なんか予定調和説支持みたいなことを、
ぶつぶつ書いている。
「予定調和ありきでいいじゃん」みたいなオーラを感じるこの人は。
いいじゃん事実は事実で。

で、佐佐木信綱が昭和四年に金塊集の定家所伝本を発見してその奥書に建暦三年という日付がはいっていると言う。
建暦三年は1213年。
実朝が死ぬのは1219年。
小林秀雄はそれまでは、
同じ年の11月23日、定家から相伝の万葉集が届いて、それから万葉調の歌の習作を詠み始めて、
約5年間の間の歌を集めたものが金塊集であると考えられてきたのだが、
佐佐木信綱の発見によって、
それらの歌は1213年以前に詠まれたということがわかった、としている。

岩波書店日本文学大系「山家集・金槐和歌集」の中の小島吉雄校注「金槐和歌集」。
1961年初版。
書かれた順番で言えば先に挙げたものよりは後に書かれていて解説も詳しい。

佐佐木信綱氏は昭和四年五月に藤原定家所伝本を発見。
定家が一部自書し、他を側近が書き写し、663首の歌を載せている。
建暦三年十二月十八日の奥書がある。
佐佐木信綱氏によって岩波書店から復刻出版された。

実朝が死んでから編纂されたと考えられる貞享四年板本というのがあり、
こちらにはわずかに64首しか追加されていない。
つまり、実朝が1192年に生まれて1213年の22才までに663首を詠んだのに、
それから5年間ではわずか64首しか詠んでないことになる。
これはおかしい。
疑問点その1。

定家から万葉集をもらったのと、万葉調の習作をたくさん含む金塊集の原稿を定家に渡したのがほぼ同時期。
これがまたおかしい。
疑問点その2。
では定家から万葉集をもらう前から実朝はある程度まとまった数の万葉集の歌に接することができたのだろうか。
当時それほど万葉集というものは入手しやすかったのか。
しかも京都から離れた鎌倉で。
思うに万葉集というものは、当時は京都の一部の歌詠みの公家の家系にしか伝わってなくて、
実朝が所望したのでわざわざ定家が万葉集を送ったと見るべきだろう。
だから、実朝はもちろん万葉集の歌を断片的には知っていたかもしれないが、
膨大な習作を詠むほどにはそのサンプルとしての絶対数が足りなかったに違いない、と思う。
たとえば万のサンプルがあってやっと百の習作が作れる。
やはり定家から万葉集をもらってから詠んだ歌が金塊集の大部分を占めていると考えるのが自然なのだが。

たとえば実朝は「けけれ」のような古代の関東方言をわざと歌に使う人である。
実朝の時代にも「こころ」を「けけれ」と言っていたのではあるまい。
万葉時代の関東方言が万葉集に残っていてそれを見たから自分の作に使ってみただけのことである。
つまり実朝の

> 玉くしげ箱根のみ海けけれあれやふた国かけて中にたゆたふ

は万葉集の

> 甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり臥せる小夜の中山

を元にしたものである。
どちらも東海道を旅している歌なので、どんぴしゃですよね。
ついでに

> 東路の小夜の中山越えていなばいとど都や遠ざかりなむ (新千載)

このように実朝はかなり多数の万葉集の歌を参照しており、その数が多ければ多いほど、
定家から万葉集の完全本をもらったあとに金塊集が成立したことの傍証にはなり得よう。

小島吉雄氏も
> この本に収載せられた歌が全部建暦三年十二月以前の作であるとする従来の通説も、
疑えば疑える余地があるわけであって、

と言っており、この通説とはつまり佐佐木信綱から小林秀雄に至る説という意味だろう。

> 厳密に言えば、この本の成立時期並びに成立事情は今のところ明確ではないということになるのであるが、
現段階では、建暦三年十二月にまとめられたという積極的な証拠もない代わりに、
これを否定すべき材料もなく、
内容的にもそれで矛盾が生じないので、
一応、建暦三年十二月までの歌をまとめたものだろうということにしているわけである。

と、かなり疑念を残した書き方をしているように思える。
他にも補注の中に

> 建保二年三月の晩、帰館してから酒杯を酌み交わして翌日実朝も二日酔いに悩んだ由の記事がある。
ただし、この歌は定家本に載っている歌である。もし定家本を建暦三年十二月以前の成立とみるならば、
この歌を建保二年の作とみることができない。
その点にいささか問題はあるが、
建保二年四月、二所詣より帰館した翌朝の趣を歌にしたのであろうというふうに考えることは、
わたくしは幾分執着するのである。

などと書いていて、小島氏も、この二所詣というのが吾妻鏡の中で日付がわかるので、
二所詣を詠んだ歌が金塊集成立年の証拠になるのではないかと、
いろいろ調べてみた形跡があるわけですよ。
なんか悔しさにじませてるよなあ。
ちなみにその補注の元の歌とは

> 旅をゆきし跡の宿守おれおれにわたくしあれや今朝はまだこぬ

のこと。

金塊とは「金」が「鎌倉」を意味し、「塊」が大臣を意味する。
金塊で鎌倉の大臣を意味する漢語表現だという。
なるほど、「まづ塊より始めよ」の「塊」ね。
これも佐佐木信綱説。

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