平家物語を相変わらず読んでいるが、源平合戦というが、
富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いでほぼ決着が付いているんだなあと思う。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦などの戦いの方が有名だが、これらはもう平家が都落ちした後の掃討戦にすぎず、
重要性という意味では富士川と倶利伽羅峠にははるかに及ばない。
この二つの戦いによって、
保元・平治の乱であれほど優勢になった平氏の権力はまったく逆転され、
源氏に有利になった。
富士川の方は、甲斐源氏が主力であると言われているし、
倶利伽羅峠は明らかに木曽義仲の功績であって、
となると、頼朝や義経などは、大したことはやってない、という結論に達する罠。
宇治川の戦いは単に頼朝の名代というに過ぎず、
一ノ谷の義経の功績も疑問が多い。
となると実は義経は別に大したことはやってないんじゃないか、
実は虚構なのでは、という気になってくる。
源平合戦というものが、
民間に広まるにあたって、
一人の英雄を必要として、
そのために仕立てられた役者、という気もしてくる。
頼朝に至っては、単に北条氏に担がれて、
源氏の嫡子だ棟梁だと言い張ってたらみんな遠慮してくれただけなんじゃないのか。
源氏にも危機感はあっただろうから頼朝一本で団結しただけなんじゃないか。
実際頼朝の子孫なんてあっというまに使いつぶされてしまうし。
いや、義経や頼朝をおとしめたいのではなく、
富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いをもっと評価すべきなんじゃないかってこと。
歴史の骨格として、保元・平治の乱と同じ重みで押さえておくべきではないか。
ていうかね、
富士川でも倶利伽羅峠でも一ノ谷でも、平氏はそうとうな大軍であったくせに戦略が何もないよな。
どうしてこんなにもろかったのか。
たぶんだけど、集団で戦うということができなかったんだな。
保元・平治の乱といっても別に大軍どうしの戦いではなく、
小競り合いと政略で平氏がたまたま勝っただけだもんな。
源氏は関東北陸東北中部地方に渡る広い範囲に一族がちらばっていて、
その首領たちがそれぞれ戦がうまく、
それぞれ独立して戦えたのだろう。
そういった戦力が、一気に集中して平氏打倒という目標に向いたから強かったのではないか。
保元の乱といってもこれは皇族どうしの戦いで、源平はきれいに分かれて戦ったのではなかった。
しかも単に皇居周辺の局地戦にすぎない。
平治の乱は反清盛、反平氏だったから、
平氏と源氏はきれいに分かれた。
で義朝が敗れて、義朝の子供がほぼ絶滅したのだが、
しかし、頼朝と義経は残ったし、
義朝以外の源氏はほぼ無傷で全国に残っていた。
やはりこれも京都周辺だけの局地戦だし、
その後の鎌倉対京都という、全国規模の、数万数十万単位の軍勢の、何ヶ月にもわたる戦争とは、
明らかな違いがある罠。