菅茶山の和歌

菅茶山は漢詩人で、頼山陽の師として知られるが、和歌もかなり詠んでいたらしい。木村雅寿という人が書いた「筆のすさび」跋にも

書き寄せし かひこそなけれ 山川に 生ふる藻草は 玉も混じらず

などとある。この「筆のすさび」には多く歌の引用もある。またその中に「歌道評論」と題して

江戸の友人、長流契沖以下の古体をよむ人の歌をあつめて一書をなす。或人見て、「真淵以後の人、中古の歌をそしる者多し、内々は何某公の歌の中にても、きこえぬありなどどいひてそしるもあり、今其そしられし人々の歌をかくあつめ見ば、此集と執れかまさらん、もし今の集まさらずば、そしりし人々心に慚ざらめや」といひし。此言はわれ人聞きて自ら警むべき事なり。
近頃の歌といふものは、拘ること多くしておもふ事もいひがたかりしを、長流以下の人々打やぶりしは、言葉の道の大功なり、これより女文字の文もよくする人出づ、京に蒿蹊江戸に春海など其選と見えたり、蒿蹊春海みな男文字をもよくよむ人なり。春海予に逢しとき、昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべしなどかたりし、春海名山の詩をこひあつむとて、予に浅間岳の詩をつくらしむ、其後程なく身まかりしと聞きぬ、其詩いくばくかあつまりけん。
同じ時千蔭にもあひし、みな木村定良を介とす、定良俗称俊蔵といふ与力衆なり。千蔭は隠居して総髪なり、顔色容貌さしも歌人と見えたり、耳しひて息女を傍におきて彼此の言を通ず。春海は半びんにて頭大に下ほそりたる顔なり、一面旧知のごとく磊落の人なりし。
蒿蹊は近江八幡の人京に住す、小男にて剃髪す、音吐大によく談ず。

などと言っているのだが、わかるようでわからない話である。「此集」「今の集」とは何を指しているのか。「長流契沖以下の古体をよむ人」とは下河辺長流や契沖を創始者としてその流れをくむ人たちが詠む歌が古体の歌だと思ってしまうが実はそうではない。ここに最初のつまづきがある。

「江戸の友人」は茶山と交際があった知人ではあろうがしかし茶山はむしろ「或人」の批判に同情しているのである。おそらく「江戸の友人」が編んだ「今の集」が送られてきたので、同郷の学友(或人)に見せたところ、いろいろと批評をされたので、そのことを書いているのだと思う。

「此集」「今の集」とは「江戸の友人」が集めた「古体」の歌集ということで、たぶんここには下河辺長流、契沖ら「中古」の歌は含まれていない。「中古」の歌とはつまりここで「そしられし人々の歌」であり、「此の集」「今の集」とは「そしりし人々」が詠んだ歌、江戸で流行した真淵以後の、いわば、「疑似万葉」「新万葉」の歌、つまり「古体」の歌をさしているのだろう。

真淵門下の「古体」を詠む人々が「中古」の歌をそしっている。「中古」の歌と「古体」の歌を比較してみて、「古体」が「中古」にまさっていなかったとしたら、「古体」を詠む人たちは恥知らずということになる。そう言いたいのだろうと思われる。

「中古」とはつまり江戸初期の長流契沖のような歌を言い、「古体」とは江戸中期以降の万葉調を言うのだと思われるが、これは江戸時代の人の感覚であって、現代人にはわかりにくいと思う。

たとえていえば今の人が「江戸仕草」とか「恵方巻き」など昔ながらの古いしきたりのように言うことが実は最近捏造されたものであって、全然古くもなんともなく、実は新奇なものであるのに似ていると言えようか。

「近頃の歌」というのは、「拘ること多くしておもふ事もいひがたかりし」それを「長流以下の人々打やぶりし」などと言っているのを見ると、こちらはどうも、江戸時代以前の歌、もしくは江戸時代に残った堂上和歌のことを言っているらしい。つまり時系列に古い方から並べると、「近頃の歌」「中古」「古体」となる。非常に紛らわしい。江戸時代には和歌はだんだんと古代にさかのぼっていくようにみえる。古ければ古いほど新しい。逆説的ではあるがしかしそれが当時の人々の自然な感覚だったのだろう。明治以降の人にとっては新しければ新しいほど新しいに決まっている。

「古代」ではないんだよな。「古代」の「体」なんだよ。古代を模した今の世の体。

江戸時代のぬるま湯に長い間浸かり固定した身分制度の中に生まれて死んでいった人たちは、時代精神の移り変わりとか社会の変動とか未来の変革というものがまったく想像できなかったのであろう。未来は虚無であり、存在するのは過去ばかりである。江戸時代には過去を探求する道具、古文辞学というものが飛躍的に発展した。江戸時代には未来を予測するのではなく過去へ遡る歴史学が最も発達し注目された、最先端の学問であった。宣長の研究もまたその類いであった。

それゆえ江戸後期の人々は、最近になって新しく確立され見えるようになった古い過去ほど新しく見えるという錯覚に陥ったのであろう。逆に明治の人は過去を無価値なものと切り捨て、未来や海外を見通して将来を予測することが必須の課題であった。両者は全然違う時代だったのだ。

そうしてみると茶山は、国学が興った後の下河辺長流、契沖、伴蒿蹊、村田春海、加藤千蔭らの歌が良く、同じ江戸時代でも真淵やその模倣者の歌は(新しすぎて)よくないと言っているらしい、ということになる。実際、村田春海、加藤千蔭は真淵の弟子ではあるが、彼らの歌は真淵とは似てもにつかない。茶山自身が詠んだ歌をいくつか見てみると春海千蔭の歌に良く似ている。要するに江戸後期に文人たちが詠んだ平々凡々たる歌だ。

明治以降の人は現代口語を使った歌のことを新しい歌と言う。しかしながら江戸後期の人たちは古い万葉の言葉を使った歌を新しい歌、今風の珍奇な歌だと思っていた。この感覚は現代人にはなかなかわかるまい。江戸時代にはまだ現代口語など影も形もなかった。標準語、現代口語なるものは明治政府や明治の文人らが共同制作した人工言語なのだから。

春海千蔭は師が編み出した「古体」の歌を捨てて「中古」に回帰したが、同時に真淵の流れをくんで「古体」を愛好した歌人らが江戸にはいて、春海千蔭とは同門ながら対峙していたように思われる。春海千蔭は真淵よりもむしろ宣長と親和性が高かった。万葉調の流行は江戸で起きたものであり、京都で万葉調の歌を詠む人はいなかった(香川景樹や本居宣長が万葉調の歌をまったく詠まなかったわけではないが)。

ということをこの文章から読解できる人がどれくらいいるのだろうか。私はこんなふうに解釈したけれど、他の人にはそうは読めないかもしれぬ。実に朦朧とした文章だ。歌人の風貌と歌の善し悪しと何の関係があるのか。

富士川英郎『菅茶山と頼山陽』には

旅衣 たちな急ぎそ 老いが身は またあふことも 末知らぬ世に

旅にあれば 家のみ思ひ 帰りては また行かばやと 思ふ大和路

などの歌が見えて、端正によく出来た歌だと思うが、おそらくこの時代の武家や公家の子弟は子供の頃に和歌や漢詩を仕込まれて、それで人並みの和歌が詠めるようになる、と言っただけのことで(茶山は一流の文人らしく人並み以上に詠めたようではあるが)、何か特別個性的なというか、何か巧んで、凝った詠みかたをしているようには見えない。幕末の伊達宗広や中島歌子などの歌と通じるところがあるように思う。そう、飽くまでも教養人の嗜みとして、当時のハイソサエティの慣習の範疇で詠んでいる、とでも言おうか。当時の人は別に字を書くのが好きで書道をやり、お茶を飲むのが好きだから茶道をやったわけではあるまい。歌道もまたそうした教養科目の一つだからやったまでで、そこに個性や創意工夫を追求しているのではあるまい。よく出来ているのだが、褒めようと思って良いところを探し始めるとぼんやりとぼやけてしまい良さが見つけられなくなる。うまくまとまりすぎているというか、秀才的というか。

こういった歌をいったいどこから見つけてきたのだろうか。頼山陽の母、梅颸の歌も多く引用されているから、そちら関係の史料にあるのかもしれない。或いは広島の県立図書館あたりに行けばそうした郷土資料がざらにあるのかもしれないが。

富士川英郎という人は戦前に岡山で高校教師になったとあるからやはりその頃に菅茶山や頼山陽に親しんだのだろう。こういう東洋文庫に本を書くような東洋学者というものは今はいったいどこにいるのだろうか。もうほとんど絶滅してしまったのだろうか。最近では荻生徂徠全詩というものが東洋文庫から出たが、ほとんど新刊も出なくなってしまっているように思う。

梅颸の歌も調べてみると面白いのかもしれないが、今はもうあまり手を広げる気もないのである。ところで頼梅颸という呼び名はどうであろうか。江戸時代の公家や武家は夫婦別姓であったはずだから、飯岡梅颸と呼ぶべきではなかろうか。細川ガラシャなどという呼び名をみると、いやそれは明治以降の呼び名で、本来は明智玉子だろうと思ってしまう。明治は現代まである程度連続しているからみんな明治を擁護したがるが、明治政府はいろいろおかしな(日本の伝統を破壊する)ことをした。

村田春海が「昔の歌よみ人は多半儒生なり、古今集の撰者の官職にても見るべし」などと言っていた、というのも変な話である。古今集の撰者がみな(半ば)儒学者だったなどと言っているのだが、そんなことを言えば江戸時代の武士もみんな儒者であろう。

Visited 53 times, 1 visit(s) today

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です