正岡子規から野口寧斎へ

ちょっと面白かったので引用する。

拝啓、老兄、近時御臥褥の由、文人第一の不幸、御心中御察し申し上げ候。僕曾て老兄を評するの言、其後、老兄の作を見て、後悔少なからず候。老兄の技倆に付いては到底僕等門外漢の測り得る所にては之無く候。此事数年気になり候へども、正誤の機を得ず。若し此のままにてみまかり候はば。後世の執著ともなり申すべくと、一言懺悔致し置き候。猶御静養なさるべく候。

明治34年冬

子規遺稿 再版

野口寧斎、野口弌、または野口一太郎。伊東静雄と同郷なのだが、もう少し引用しておく。

詩の我が国に行はるるや久し。我が国人の詩に於けるは能く之を消化して自己の栄養に供するが故に、文字は支那に借りながらも、己が思想を吐露するに十分なることは、我が国語を以て歌ふに異ならず。故に国体の上よりして之を論ずれば、国語を以て己が志を歌ふべきことは人々に異論有るべき筈無けれども、詩が已に我が国の詩と化成したる今日に在りては、之を発達せしめて支那をも圧倒せんこと、亦快哉の事にあらずや。

聞く所によれば、仏教大乗の奥義は印度にも在らず、支那にも在らずして、我が国に存せりといふ。教へは其の発生の地をも凌ぎて、天晴れと仰がれ居るに、詩は独り其の本家本元に駕して上るを得ずといふ道理なければ、他年に至りて支那人をして詩を学ばんと欲せば、宜しく日本に赴くべしと言はしむるもの有らんと、ただ少年諸子のこれを勉むるに在るのみ。

少年詩話

すごいな。寧斎君すごいこと言ってる。日本が漢詩の本家本元になって「支那人をして詩を学ばんと欲せば、宜しく日本に赴くべしと言は」せたいらしい。それを日本の子供に勧めている。

子規が寧斎を批判している文章というものを検索してみたのだが、たとえば

槐南寧斎の如き人情人事に偏する者、恐らくは良工苦心の処を知らざるべし

槐南は森槐南。寧斎は槐南の一番弟子と言われたらしい。おそらくこれに対して寧斎から不平があったのだろう、

寧斎主人、吾を難じて「青崖湖村といふことの不倫なるは槐南寧斎といふの不倫なるに等しく」云々と言へり。已に等しくといふ以上は二人宛の一団が好対なることを証せり。只々、槐南と寧斎とを並ぶることに就きてこそ不平あるらめ。若し師弟の関係あるが為に並列すべからずとならば徂徠南郭などとも言はれぬ訳なり。若し力量異なるが為に並列すべからずとならば更に改めて青崖と槐南とを対し、湖村と寧斎を対せんか、湖村恐らくは之を恥ぢん。寧斎も亦之を恥ぢん。然らば更に改めて青崖と寧斎とを対し湖村と槐南とを対せんか。青崖恐らくは之を恥ぢん。湖村も亦之を恥ぢん。他の二君亦之を喜ばざるべし。然らば則ち奈何すべき。三人を二人づつ組み合わせたるコムビネーションは此の三様の外に出でざるを奈何せん。寧斎主人の言、終に解すべからず。

青崖は国分青崖。湖村は桂湖村。いずれも漢詩人。南郭は服部南郭。徂徠は荻生徂徠。

子規の反論は何を言いたいのかよくわからん。まあ、いつものことだが。

文人の不幸なるもの、寧斎第一、余第二と思ひしは二三年前の事なり。今はいづれが第一なるか知らず。

これは子規が結核、寧斎がハンセン氏病という持病で苦しんでいることを言っているのだろう。

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