「わたしは度たびこう言われている。―「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未だ嘗て愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。」と芥川龍之介は言い放ち、渡部昇一はこれについて「芥川龍之介にはずいぶんと嫌われたものですな。芥川の言葉は若い文学青年の心をとらえるけれども、古希も過ぎ、喜寿も過ぎた者が見ると、何と生意気なことを言っていることか(笑)。いま読んでみると、やはり芥川は若い。全然わかってません、」などと評している(谷沢永一、 渡部昇一『平成徒然談義』)。共著者の谷沢永一は、もう少し冷静に芥川龍之介を理解しようと試みている。『徒然草』には教訓的な話が多く、物語性が強いので芥川がカチンと来たのではないか、自分なら説話物を元にもっとうまく書いてみせる、せっかくの材料を兼好は生のまま放り出している、などと言っている。
徒然草が名高いのは芥川も認めている。中学(今日における高校の文系、もしくは大学の教養課程程度、と読み替えてもよかろう)の教科書に使われていてそれなりの効用があることも認めている。「名高い」のが「殆ど不可解」とは(世間の評判はともかく)文芸作品として高い評価を受けていることが理解できない、という意味合いで言っているのだと思う。
芥川はだから、一種のメジャー嗜好を嫌っているだけだと思う。メジャーなものだけを持ち上げてマイナーなものには価値がないというような考え方が嫌いなのだ。既に有名になったものをさらに褒めても仕方ない。むしろ無名だが価値あるものを掘り起こして世に知らしめる方が徳が高い、と考えているように思えるのだ(もちろん私もそう思う)。
試みに京都書房『新訂 国語図説 三訂版』という学習参考書を見てみると、『枕草子』に二ページ、『徒然草』に三ページを費やしているのに対して、近松門左衛門、井原西鶴、上田秋成、本居宣長らはそれぞれ一ページ、『折たく柴の記』新井白石や『花月草紙』を書いた松平定信はそれぞれ四百字程度、『西山公随筆』を書いた水戸光圀、『なるべし』を書いた荻生徂徠、『独語』を書いた太宰春台などは一字も言及されていない。ちなみに樋口一葉は二ページ、森鴎外は三ページ、夏目漱石には六ページを割いている。小中高および大学生にとって試験に出るか出ないかということは最重要な指標であり、試験に出ないことはイコール存在しないことに等しい。
私も少年ジャンプみたいな小説を書いてくれと言われたことがある。大河ドラマの原作になるような、そのまま映画化されるような、おもしろおかしい話を書いてくれと言われたことがある。それで書いてみようと思ったがどうしても書けない。そういうメジャーなものを書こうとするときには、自分が書きたいことを抑えて、自分が書きたくないところを膨らませて書かなくてはならない。それが精神的に苦しい。苦しくても仕事と割り切って書けば良いのだが、今まで何度も試してみたが一度もできたことがない。ある映画の批評をもっと褒めておもしろおかしく書いてくれと言われたことがある。やはり苦しい。苦しまずに書ける人は世の中にいくらでもいるのだろう。自分が書きたいものというよりは人が読みたいと思っているもの、書けば金になるものを、精神的苦痛を伴わず、むしろ職業的快感とする人がいくらでもいる。そうした人たちがライターをしているのだと思う。
そうでないライターは幸いにも世の中が読みたい知りたいと思っていることと自分が書きたいことが一致しているのである。
僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に生
えた何本かの艸
の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。
これは「続文芸的な、余りに文芸的な」に出てくる文章だが、私もまったく同じことを考えたことがある。アインシュタインの相対性理論にせよ、彼が思いつかなくとも、彼よりか半年か一年、せいぜい十年以内に同じことを言う人は現れたに違いない。
渡部昇一は「平成徒然談義」という本を書くにあたり、徒然草を思い切り持ち上げなくてはならなかった。なぜかというに自分の書いた本が売れて評判になるほうが良いに決まっているからだ。そのために彼は芥川を批判し、徒然草以外の随筆(たとえば枕草子)を貶め、或いは徒然草以外の中世日本文芸史を無価値なものとみなそうとした(徒然草を褒めたきゃ勝手にやれば良いのにそれ以外のものを相対的に貶めなくては気が済まないとすればそれはサドだ)。そういうことに特別躊躇なくできる人だったのだろう。芥川龍之介の周りにいた人たちもそうした人たちだった。菊池寛とか中村武羅夫とか。出版業界には基本的にはそうした人たちしかいない(基本的には)。そういう状況ではメジャーなものはよりメジャーになり、マイナーなものはよりマイナーになるしかない。
世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕を残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。
「新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれる」とはつまり「芋粥」のことだ。「芋粥」であれば、自分で書かなくてもいつかは誰かが同じようなものを書くだろう、一方、正宗白鳥の「死者生者」という作品は彼を待たなくては書かれなかった。「死者生者」はいまだに不評判だが「芋粥」は幸いなことに人の記憶に残った。そのくらいのことを芥川は言いたいらしい。
芥川には出版業界に対する暗澹たる不満があった。世の中で評判なものをことさら愛読する、ということはしたくない、ということを芥川は言いたかったのではないか。
「死者生者」は国会図書館デジタルコレクションで読めるので読んでみたが、何が面白いのか良くわからん話であった。
そういえば私も「芋粥」のように中世の物語を現代文で脚色してカクヨムに載せていたことがあった。「偽検非違使判官、僧都を欺く事」というもので、せっかくなのでここに引用しておく。
これもさほど遠くはない昔の話だが、奈良の興福寺に説法の上手と名高い、隆禅律師と号する僧都がいた。京都で按察大納言藤原|隆季《たかすえ》が催した法事に導師を勤めて、施主の隆季からたくさんのお布施をいただいて、庫裏《くり》に泊まっていると、外から門を叩く者がある。節穴からのぞいて見ると、そこには一人の尼が立っていた。
「お坊様。突然失礼いたします。私は大和の国から来ました。今日は亡き夫の命日で、墓参の帰りなのですが、途中気分が悪くなり、休んでおりましたら遅くなり、もう日が暮れてまいりました。とうてい家に帰りつくことができそうにありません。申し訳ありませんが、一晩こちらに泊めていただけませんでしょうか。」
ははあなるほど。亡くした夫の菩提を弔うために若くして仏門に入り、夫の命日に一人で墓参りに行った、その帰りであるか。
隆禅は尼をつくづくと眺めた。まだ若い。やっと三十路を過ぎたほどであろうか。夫を失ってまだ間もない、独り身の後家なのであろう。
隆禅は尼の顔が美しく、声がきれいなのにボーっとしてしまった。
「それは難儀なさいましたな。拙僧がそなたの夫の冥福を祈り、念仏を唱えてあげましょう。
おなかもさぞすいておろう。夕餉を召し上がるか。私たちと一緒に囲炉裏をお囲みなさい。夜着や布団もお貸ししましょう。」
そうして隆禅は親切に、尼に食事を与え、彼女を庫裏に泊めてやることにした。暫くして、また門を叩く者があった。
「検非違使庁からの使いである。」と言う。
「先ほどここに尼が一人来たであろう。あの女は多くの盗みの容疑者として訴えられている者なのだ。決して逃がしてはならない。後ほどまた来る。」と言って帰った。
「尼よ、おまえは盗人なのか。私を騙して、物を取ろうとしたのか。いま検非違使庁から使いの者が来たぞ。申し開きしてみよ。」
隆禅は女を問いただしたが、しかし女は頑として、一言も口をきこうとしない。
そこで隆禅は尼を縄で縛りあげて、捕吏が到着するのを待った。夜が更けて、また戸を叩く者がある。検非違使判官と名乗った。
「この尼を連行しようというのだろう」と思って、中に入れて、僧自ら対面した。
「この女に間違いありますまいか。」
ところがこの判官と名乗る者、いきなり僧の腕を捕らえて、刀を抜き僧の脇にさし当てて言う。
「動くな。いいか、ここにじっとしていろ。下手な真似をすれば即座にこの刀でおまえを刺し殺す。坊中の者どもも、決して声を上げたり、物音を立てるな。
おい坊さん、おまえ、今日たんまり檀家からお布施をもらっただろう。どこにある。」
「ここです。」
「蔵の鍵も寄越せ。」
「はい。」
男は尼を縛った縄を刀で断ち切り、塗籠《ぬりごめ》や蔵を引き開けて、資財・雑物などを運び取って、馬十頭に背負わせて、隆禅を馬に乗せて、東山の粟田口へ連れていった。
尼は僧に言った。
「お坊さん、命だけは助けてやるよ。でもこのことを検非違使庁に訴え出れば、三日のうちにおまえを殺しに戻って来るぞ。わかったか。今ここで神仏に誓え、決して訴えぬとな。」
「誓います。」
尼と偽判官は、隆禅を道に残したまま、馬を伴って悠々と逢坂の関を東へ越えていった。