研究人生

暗号理論というものは敵の暗号を解くために必要とされたので、緊急性、重要性が高かったから第二次世界大戦の時に飛躍的に進歩した。ロケットを飛ばす技術も軍事目的で開発されてそれがアポロ計画となり、ソ連の有人人工衛星となった。原爆や水爆の開発競争もしかり。いずれも短期間に国家予算を湯水のように注ぎ込んで無理矢理実現させたのだ。

一方人工知能の研究に関しては、ニューラルネットワークやマルコフ連鎖などの基礎理論は、やはり相当早い時期に提唱されていて研究も進んでいたのだが、暗号や原爆や宇宙開発からはずいぶんと遅れてやっと最近になって実用化されつつある。なぜなのか。

一つには、人工知能を開発したからといってそれがただちに戦争に利益をもたらさなかった(何に使えば良いか誰にもわからなかった)からだろう。もう一つは計算能力が圧倒的に不足していた。初期の電子計算機は大砲の弾道計算に用いられた。もちろん軍事目的だ。ただしそれは単にニュートン力学を用いたシミュレーション程度の計算に過ぎず、今なら電卓でも計算できる。そんなちゃちな計算力しか当時はなかった。さらにはビッグデータというものが当時はなかった。

膨大な計算能力と膨大なデータの蓄積があってやっと人工知能はある程度人間に匹敵する程度の知能を備えるようになった、ということなのだろう。第二次世界大戦当時、原爆開発に匹敵するくらいの頭脳と資金を投じても、人工知能は実現しなかった。

昔、私がまだ30才かそこらだったからもう30年近く前だが、飲み屋で、月に人が行けるくらいの予算を使えば人工知能もいますぐ実現するはずだ、と言われて、返事に困ったことがあった。月旅行なんてだいたいニュートン力学くらいの簡単な数学で実現できるが、人工知能はまだどんな理論が必要かさえわかっていないからだ、ということを説明しようとして、なかなかわかってもらえなかった。

今思うに、当時私はマルコフ連鎖もニューラルネットワークも三層の深層学習も知ってはいたが、これらがものの役に立つなどとは到底思えなかったのだ。しかしながら今のプロンプト型の生成AIというのは当時すでに知られていた理論の発展形に過ぎない。基礎理論はもう30年前にはあらかたできあがっていたのだった。私の同僚にマルコフ連鎖の研究をしていたポーランド人がいた。彼は今は実業家になっているようだが、一生研究者でいたければ私もずっとマルコフ連鎖の研究をしていればよかったかもしれない。私の一年下の後輩はニューラルネットワークの研究をしていたが彼は今や相当な大物になっているようだ。私はずいぶん中途半端な人生を送ってしまった。まあしかしこれはこれで仕方ない。

Visited 5 times, 5 visit(s) today