人混みにはほとほとまいっているのだが、なおさら、もう二度と見たくない、今回一度きりで済ませようと思うので、宮入りは浅草寺の境内に残り、正門から行列が入ってくるところまで見届けて帰った。宮入りは19:00から20:00くらい、となっていたのに、20:30まで待たされた。たぶん、三ノ宮から入って、次に二ノ宮、最後に表参道から一ノ宮が、少しずつ時間差を付けて入るというだんだりになっているようだが、三ノ宮が5656雷おこし屋の前で何度もいったりきたりを繰り返してたせいでめちゃめちゃ遅れた(youtubeのライブでいらいらしながら見てた)。さっさとやってくれよ。


神輿は雷門と宝蔵門をくぐらなくてはならないのでそんなに大きなものは作れない。門の下に吊ってあるでかい提灯は上の方へ縮めてあった。京都の山鉾やだんじり、或いはねぶたのように、神輿や山車が際限なく肥大化する、ということは浅草ではなかったようである。また、日光東照宮にも神輿はあって、江戸では将軍家にはばかって東照宮よりも大きく華美な神輿を作るということはできなかったに違いない。神田明神の神輿もネットに落ちている写真で見る限りそんな大きなものではない。浅草と同程度のもののようだ。
徳川宗家も江戸の町中を馬鹿でかい東照大権現様の神輿を引き回す、などという暴挙に出なかったのは賢明であったが、であればこそ、江戸の神輿はこぢんまりとして地味なものにならざるを得なかった。その代わり浅草では神輿の数が氏子の人数分、爆発的に増えたということだろう。
町会の神輿も浅草神社の神輿も造り自体は同じもののようである。しかしながら、本社神輿、つまり浅草神社の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮の神輿は白い布で覆われて四面それぞれに七つの鏡がついていて、ピンク色の紐で縛ってあるという一種独特のものである。江戸の宮大工が作る神輿は東照宮の建築に良く似ているように思われる。コテコテとして、装飾と彫刻が過多。しかしながらこの浅草神社の神輿は家康入府以前の質素な古態を残しているようにも思えるのである。
東照宮は神社建築と仏教建築を無神経に混淆させた、家康とか天海とかあのへんの連中の宗教音痴というものがもろに現れた、下品と言って悪ければ悪趣味なものとしか私には思えないのだけど、浅草神社の本社神輿にはある種の神秘性というか、ゆかしさというか、浅草という町を開拓した祖先に対する畏敬の念のようなものを感じた。その原初的形態を想像してみるに、最初はああいう装飾のない、シンプルな、白い布で覆っただけの神輿に本尊(三体の権現)を収めて、神体の姿を象徴する鏡を四面に一枚ずつ貼り付けたようなものではなかったか。それをいつからか七枚に増やしたとか。
町会の神輿には馬に乗った勅使(?)は付かない。神社の神輿だけに馬が付く。1頭、または2頭だったりするようだ。
こういう馬が付くとか、なぜ鏡が七枚あんなふうに配置しているのかとか、ネットで検索してもまったく情報が出てこない。研究者はもう少しちゃんと調べて、マスコミも報道すべきなんじゃないの?
金曜日夜から町会ごとに神輿をくりだして、土曜もやって、日曜は本社神輿各町渡御、のはずではあるがやはり町会の神輿も相変わらず出ているので、とにかく三日間ずっと町会は大騒ぎしている。
いやしかし、都会には次から次へとおかしなやつ(挙動不審、独り言、多動)が現れてきて、祭りのようなものにはなおさらしゃしゃり出てきて、坐ってるとじりじり幅寄せしてくる。気持ち悪すぎる。こういう馬鹿な一般人にいちいち怒っても切りが無いから、絡んできたらシカトするのだがシカトするのが忙しすぎる。もう絶対祭りは見ない。
こういう祭りがもっと人の少ない田舎で、強制参加で村祭りのようなものであったとしたら、参加するのは苦痛であろうが、これだけ大勢人が集まるのだから、祭りが嫌いな人はわざわざ参加していないはずであり、祭りが好きな人だけ好き勝手やっている分には別に私としてはどうということもない。ただ関わりになりたくないだけだ。実際、隅田川の両岸では子供らが祭りと関係なしに野球をやったりしていた。野球は要するにユニフォームを着てみんなで騒ぐという意味では祭りと何も違わない。やたらと野球場を作ってテレビで野球中継するからみんなやっているだけのことで、私も子供の頃はみんながやっているからほかにやることもなくやっていたが、面白いものとは思えない。
田舎だと盆と正月くらいしか人が集まらないからだいたい祭りはお盆にやる。私の田舎もそうだったが、梅雨前のこの時期に祭りをやるのが暑くなくて良いのかもしれない。
マスコミがあまり熱心にニュースで流さないのは、取材がめんどくさいわりに視聴率が取れないというだけのことに違いない。
戦前まで本社には七つの神輿があり、三つは家光が下賜したというがつまり、祭りはやっても良いが幕府の統制下でやれという介入であろう。おせっかいなやつである。その三つをそれぞれレプリカを造り、六つ。さらによその町で持て余していた神輿を譲り受けて七つあった、ということらしい。