小川剛生「武士はなぜ歌を詠むか」を読むと、太田道灌の歌はほとんど後世の偽作だと書いてあり、悲しくなる。太田道灌と後土御門天皇の問答歌なども、「関八州古戦録」という江戸時代に書かれた軍記物に載っている話で、太田道灌の時代から300年も後なわけで、どうもあやしい。山口志郎「武人万葉集」など読むと非常に多くの歌が集録されているのだが、きちんと本人の作であるかという考証なしにいろんなものが採られているようで、結局、じゃあ当時の武士はほんとはどんな歌を詠んでいたのだろうかということがまるでわからない。ではそれらの歌がまずいかというとそういうわけでもなく、ちょうど万葉集や古今集の読人知らずの歌が面白いものが多いように、名も知れぬ人が秀歌を詠んで歴史に残すにはだれか有名人の詠んだ歌だということにして、軍記物などに潜りこませるより仕方なかったのだろう。だから、太田道灌に仮託した読人知らず、実朝に仮託した、あるいは坂本龍馬に仮託した読人知らず、などという歌がどんどん出てくるのだ。ただじっくり考えてみると当時本人が詠んだにしてはきっちりしすぎているとか、きれいにまとまりすぎているとか、いやに説明的だったりして、どうも疑わしいということが知れる。
たとえば吾妻鏡に出てくる静御前の歌と実朝の辞世の歌は、どちらにも非常に雰囲気が似ている。比較的有名な歌の、本歌取りの作法を無視した強引な本歌取りといい、説明的あるいは予定調和的というか。こういう歴史的事件をわかりやすく説明したような歌は、たいてい偽作。
ところで「武士はなぜ歌を詠むか」に出てくる宗尊親王の歌はなかなか面白い。後嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府将軍、10才から25才まで。そのうち15才から25才まで歌を詠んだというから実朝と年齢的には大差ない。
世をはかる 人もあらばと もののふの つば抜かしたる 太刀もかしこし
これは、「太刀」を詠んだとても珍しい歌で、前半「世をはかる人もあらばと」は良くわからんが、後半は武士の鍔を抜いた抜き身の太刀が畏れ多いとでもいう意味。万葉集の頃は武器や武人や戦争を詠んだ歌はいくらもあったが、王朝の和歌にはほとんどまったく出てこず(古今集仮名序「たけきもののふ」うんぬんの例はある。また「もののふの」は単なる枕詞として使われる例も多い)、おそらく頼朝実朝もそういう歌は残しておらず、もしかすると、この宗尊親王あたりからだんだんに作られるようになったのではないか。江戸時代になると「もののふ」やら「ますらを」がどんどん詠まれるようになるので、どちらかといえば近世臭さのある言葉ではある。
ひさかたの あまつ日かげの なかぞらに かたぶかぬ身と いつ思ひけむ
今は身は よそに聞くこそ あはれなれ むかしはあるじ 鎌倉の里
いかがせむ あはれこころの なほき木に まがれる枝を 人のもとむる
しづみゆく 今こそおもへ 昔せし わがかねごとは はかなかりけり
おきつ風 吹きしく浦の しほ煙 立ち上らぬや 我が身なるらむ
あづまにて 暮れぬる年を しるせれば いつつのふたつ 過ぎにけるかな
この里の すみうしとには なけれども なれし都ぞ さすが恋しき
なにかうだうだ文句を言っている感じではある。それはそうと足利尊氏もたくさん和歌を詠んでいるらしいのだが、「和歌の浦」とか「敷島の道」とか和歌そのものずばりを詠み込んでいる歌がいくつかあって、ぎょっとする。
これのみや 身の思ひ出と なりぬらむ 名をかけそめし 和歌の浦波
なにごとも 思はぬうちに しきしまの 道ぞこの世の 望みなりける
つまり和歌が好きですと和歌に詠んでいる。後世の、たとえば明治天皇の歌なら珍しくもないが古歌にはあまりみかけない。岩波古語辞典など見る限りでは「敷島の道」という言い回しは千載和歌集の序辺りから始まったもののようだ。歌に詠み込むのはもしかすると高氏辺りが初めてなのかもしれん。
太田道灌はちょうど応仁の乱の頃の人だが、この頃までは一応勅撰和歌集というものがあり、宮廷歌人というものが居て、武家の歌とは別に公家の歌というものがあって、そういう宮廷の歌の方がまだ支配的だった。武士が詠む歌も公家風で、武器やら武人を詠む歌というのはあくまでも「実験的」に詠まれていただけで、その源流は鎌倉幕府の将軍家と御家人辺りにある。武家に和歌が流行したのはやはり鎌倉幕府の直接敵な影響であり、またそれを踏襲した足利幕府によるものであろう。やがて宮廷と並行して武士たちが自分たちの領国で勝手に歌会などを開くようになる。その最も初期の例が太田道灌で、また最も典型的な例は秀吉の歌会なのだろう。江戸時代になると完全に武士の世となり、また万葉集の研究なども始まって、公然と武士の歌が武士によって詠まれるようになった、ということではないか。家康が天下人になった後、今川氏真と対面したとき平忠度を批判して、武士は和歌などに執着せず、兵法を学ぶべきだったのだ、そうすれば平家は関東でも北陸でもあれほど負けなかっただろう、と言ったという伝説があるそうだが(故老諸談)、こういう発想をしたのはおそらく家康一代切りであり (そもそも、木曾義仲はともかくとして頼朝は平忠度に負けず劣らず和歌を嗜んでいたのだから)、武士は実は昔からずっと和歌を愛好していたのではなかろうか。少なくとも、頼朝三代が北条氏に滅ぼされたのは和歌などの公家文化に傾倒して関東武士団の神経を逆なでしたからだ、などというのは、まあ、現代人の空想に過ぎないだろう。
ところでこの「武士はなぜ歌を詠むか」は平成20年7月初版で割合に新しい本だ。こういう新しい研究が次々にされているのだなあ。学問は、日進月歩だ。題名からして実朝の話もありそうだが華麗にスルー。主に宗尊親王と足利尊氏と太田道灌の話からなる。思うに実朝は一人で勝手に歌を詠んでいて武士を集めて歌会を開いたりとかそういう活動をしていないので、著者の興味を引かなかったのだろう。