本居宣長

[本居宣長の結婚離婚結婚](http://mahagi0309.web.infoseek.co.jp/photo/oono06406.html)
など読むと宣長の知られざる一面を見る思いがする。
大野晋氏が発見したことで小林秀雄も知らなかっただろう。
だとしても、宣長の恋の歌を読んでもそんな気配はほとんど感じられないのが不思議、
というか宣長らしい。

小林秀雄の宣長論は、他の著述(実朝とか)と同じだが、面白いことも書いてあるが、
どうでも良いようなこともだらだらたくさん書いてあり、章立てのタイトルもなく、
ひとことで言えば読みにくいのだが、書いてあることが難解かというとそうでもなく、
ときどきすごく鋭いことが書いてある。

本居宣長はまず10代に歌詠みとしての文芸活動から始め、次第に歌学や国学などもやり始めたのであり、
歌は死ぬまで詠んだ。
小林秀雄が指摘するまでもなく宣長のすべての著作研究活動の根幹に宣長自身の歌詠みがあったのは間違いない。
また歌もさほどまずくない。
本居宣長の歌をまずいと言ってしまうとかなりたくさんの人が歌人としての資格を失ってしまうと思う。
だから、本居宣長を歌人と言っても良いと思うのだが、ほとんどすべての人は、
頭っから歌人としての宣長を否定している。
その最大の理由は、賀茂真淵以来、子規・茂吉に連なる万葉調礼讃主義者たちによって徹底的に否定されてきたからだろう。

ある人は言う。
創作活動と研究活動が不可分であるとする宣長の主張はアナクロであり、
それらがほぼ完全に分離している近代的立場からすればおかしいと。
確かにすべての人が和歌を詠むべきだという宣長の主張はやや行き過ぎてはいるが、
しかし、ここで宣長の言い分を否定しようとするのは、
習作程度の歌も詠まず歌論をうんぬんしようとする今日の学者たちに都合の良い考え方であり、
要するに学者たちは宣長を歌人ではなく純粋な学者としてとらえたいのだろう。

小林秀雄は「歌人・宣長」を完全に否定しようとはしないかなり珍しい論者の一人だと思う。
かなり同情的にかつ宣長の歌人としての活動を詳細に紹介している。

宣長は、万葉集研究者の賀茂真淵の弟子となったが、相変わらず新古今風の歌ばかり詠むので、
賀茂真淵を激怒させてほとんど破門されるまでになっている。
また宣長は頓阿の「草庵集」の注釈書を書いたがこれもまた真淵に詰問されている。
頓阿というのはだいたい定家の百年くらい後に出た人で、
私も平家物語に出てくる文覚上人を調べていて、
頓阿が「井蛙抄」という歌論書の中で西行と文覚の関係について書いていたのを読んだことがあるのだが、
要するに井蛙抄というのは定家の本歌取りの方法などを解説したりという、ごく新古今的な本で、
草庵集に出てくる本人の歌というのもだいたいそんな具合のものだっただろう。
ちなみに[wikipediaの井蛙抄](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E8%9B%99%E6%8A%84)は私が起筆したのである。

ここで小林秀雄の指摘は実に鋭い:

> 言うまでもなく、宣長は、頓阿を大歌人だと考えていたわけではない。「中興の祖」として、さわがれてはいるが、
「新古今のころにくらぶれば、同日の談にあらず、おとれる事はるか也」。

> 歌道の「おとろえたる中にて、すぐれたる」頓阿の歌は、おとろえたる現歌壇にとって、
一番手近な、有効な詠歌の手本になる筈だ。

なるほど。ここで小林秀雄は、新古今時代に劣る頓阿の、さらに劣る程度の歌人として、
宣長を暗にとらえていることがわかる。

実際、明治の歌人たちは時代も風俗も違う万葉時代の歌を復活させようとして大失敗している。
斎藤茂吉などがその典型だ。
まさに

> 今の人は、口には、いにしへいにしへと、たけだけしくよばはりながら、古への定まりをえわきまへざるゆゑに、
古へは定まれることはなかりしものと思ふ也

である。

> 詠歌の手本として、「新古今」は危険であるし、「万葉」は「世ものぼりて、末の世の人の耳に遠くして、心に感ずること少なし」、
「上古の歌のさまを見、言葉のよっておこるところを考へなどする、歌学のためには良きものにて、詠み歌のためにはさのみ用なし」

となる。
まったく実用に即した考え方だ。
万人が歌を詠むべきだと主張しつつ、一方で歌学と詠歌をきちんと分けてとらえているわけだ。
ふつう、歌を論じる人は、いきなり新古今を論じたり、万葉集を論じたり、
或いは小倉百人一首を論じたりするわけだが、
しかし当時と今は風俗が違うから、それを参考に歌を詠もうとしてもたちまち詰まってしまう。
誰も、紀貫之の歌は知っていても紀貫之の歌は詠めない。当たり前のことだが。
実際に歌を詠もうとするとそれとまったく別の方法論が必要となるが、
学者たちはしかしそこから先に進もうとはしない。
或いは理屈だけでむちゃくちゃな歌を詠んで恥をかくはめになる。

歌を詠む手本となるのはいきなり万葉や古今や新古今なのではなくて、自分からたかだか百年程度前の歌人が詠んだ歌がちょうど良い具合なのだ。
ただし明治の歌人たちが無理矢理詠んだ万葉調の歌などはまったく参考にはならないし、
幕末の志士たちの歌も、あまり筋がよろしいとは言い難い。
明治や江戸時代の比較的良質な、連綿とした和歌の伝統に則りつつ、近世の風俗も取り入れたような歌人の歌が自分が実際に歌を詠むときに役に立つ。
となると明治天皇、孝明天皇、吉田松陰、本居宣長らの歌がそういう目的にもっとも適していると言えないか。
そういうことを、読み解く意図を持って読めばちゃんと書いている小林秀雄はやはりすごい。

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