これもまた小林秀雄の受け売りなのだが、
本居宣長に「まくらの山」という桜花三百首を詠んだものがある。
晩年近く、年をとると夜寝られず目が覚めてしまうことが多く、
そういうときに詠んで書きためていたらいつのまにか百首になり、二百首になり、
とうとう三百首になったというもので、
これがしかも秋から冬の桜が咲くまでの間に、寝床の中の想像で詠まれたものだというから、何か異様なものを感じるだろう。
思うに本居宣長は読書家であり学者であるから、膨大な量の書籍の知識が頭の中にあって、
一方で歌を詠むのは生涯の習慣であったから、
脳が勝手に無意識のうちに働いて、五七五七七の定型に言葉を並べてしまう。
あるいは春の花が咲くのを待ち遠しく思う気持ちが強すぎてついつい花の歌ばかり考えてしまうのだろう。
すると宣長としてはそれを忘却してしまうのも惜しいと書き留めておく。
それがいつの間にか何百首とたまってしまい、弟子に見せるとこれは珍しい惜しいと言われる。
自分としてもまじめに詠んだわけではないので手本にされては困るがかといって後世に残さず捨ててしまうのも惜しい、
というのでできたものらしい。
たぶんこの心境は普段和歌を詠んでいる人にはすんなり理解できると思うが、
そうじゃない人にはただむやみに凡庸な歌を作っているように見えるだろうな。
当時国学を批判する儒家たちは
「すがたことばは万葉に似せているが心は通俗であり、まったくの偽物が多い。
違いを見分けられない人など居ないだろう」と言った。
これはもっともなことだ。
実朝のような人は新古今の素地の上に万葉調を取り入れたのでそれがなんとなしにうまく調和した。
ところが後世の歌人たちは、明治以降に至るまで、ただむやみに万葉のことばすがたを取り入れ、
実朝にはまだあった新古今の素養すら不純物と見なし、ただひたすら万葉を追求すればさらに純粋に目的は達せられるとした。
これはまったく失敗であって、なぜ実朝が成功したのかの分析がそもそも間違っている。
というか実朝は基本的には新古今の人だ。
宣長まではなんとかあやうい調和の中にあった国学はそれ以後過激化暴走し、
さまざまな神道系の新興宗教を生み、伝統的な漢学や仏教よりもさらに怪しげな新教義を発達させ、和歌の伝統すら破壊しようとした。
その悪影響は現代まで残っている。
上記に対する宣長の批判がまたおもしろく「心(意、あるいは儒学で言う義、大義)などはむしろまねしやすく、姿の方がまねしにくいものだ。
万葉の言葉にほんとうに似せることに比べれば心を似せるのはたやすいことだ。
これらの難易の違いもわからないような人に似てる似てないなどわかるはずがない。
試しに、私が詠んだ万葉風の歌を万葉歌の中へ、ひそかに混ぜて見せたら、決して見分けることはできまい」
と。
確かに宣長の(新古今風の)歌に関して言えばそれは真実だと思う。
宣長の歌は、基本的には新古今風であって、おそらくさりげなく勅撰集の中に混ぜてあっても、
うまく見分けられる人は居ないだろう。
さきほどあげた、「まくらの山」の中の歌と、玉葉集の春の歌を試しに混ぜてみせるから、どれがどれか当ててみれば良い。
たぶんよほどの人でも簡単には見分けはつくまい。
ただまあ上に書いたことがややヒントにはなろうか。
1. 咲く花を何の仇とて山風は世に残さじと吹きはらふらむ
2. 都には雲と見るらむわが宿の軒端に近き山のさくらを
3. さくら花さくときくより出でたちて心は山に入りにけるかな
4. をちこちの山は桜の花盛りのべはかすみにうぐひすの声
5. 春の来てかすみを見れば桜花またたちかへるこぞの思ひ出
6. 雲となり雪とふりしく山桜いづれを花の色とかも見む
宣長の万葉調の歌というのはほとんどない。
万葉仮名で書かれた「玉鉾百首」というのがあるにはあるが
> もろもろのなり出づる本は神産巣日高御産巣日の神の産霊ぞ
> 鎌倉の平の朝臣が逆わざをうべ大君の怒らせりける
というような調子であまりうまい歌とは思えない。
というかこれはわざと国学の思想を詠んだもので、宣長らしくない異様な歌だ。
小林秀雄「本居宣長」は、漠然と、源氏物語の読み方とか「もののあはれ」について論じている評論だと、
思われているようだが、
私の見る限りこれは、その占める文章量からしても「歌論書」の一種だと思う。
宣長をある種の歌人、あるいは歌学者と見て、「歌論書」だと思って読まないと意味はわかるまい。
もちろん源氏のもののあはれについてもある程度は書かれているのだが。
およその現代人にとって「歌学」ほど疎遠な学問はあるまい。
しかし、小林秀雄はその意味を完全に理解しているようにみえる。すごい。
宣長という人は、死ねば黄泉の国に行くだけだとして、
遺言や墓や葬式の心配などは「さかしらごと」として弟子に誡めていたくせに、実際には極めて詳細な遺言を残し、
仏式と自己流の二種類の墓を作らせた。
医者として、また実業家として、家も興した。
神道の墓には鳥居がつくものが多いが、宣長の墓にはそんなものはなく、そもそも宣長のころまでは、
神道形式の墓などというものはなかったのだろう。
宣長が作った墓というのは古代の庶民が作ったであろう、小規模の円墳のような土盛りの、ごく素朴なものを復元しようとしたのではなかろうか。
このように宣長というのはごく普通の江戸時代の日本人として生まれて、次第に国学へ傾いていったが、非常に不徹底で不完全な人でもあった。
過渡期の人と言っても良い。
ところが宣長から後の人たちというのはもう少し純粋に神道というものを思い詰めたのだろうと思う。
上記問題の正解だが、奇数番目が宣長で偶数は玉葉集。