子規と景樹

改めて歌よみに与ふる書を読んでみると、子規が景樹を褒めていて驚いた。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。

「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。古今がすきなのも貫之だけじゃない。当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。

景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。

しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。

それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。良くなることだってあり得る。そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。古今を手本にして学べと言っているだけだろう。そうするとだいたい後の世の歌も詠める。宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。

あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき

これは、今思いついた歌。

景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太(りょうた)に比するが適当と思われ候。
蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣き有之候。ここの処よくよく闊眼を開いて御判別あるべく候。

蓼太とは大島蓼太という人のことらしいが、よくわからない。景樹のどの歌が良くどの歌が悪いということを具体的に例を挙げてもらわないと、子規の真意を掴みかねる。景樹は確かに狂歌まがいの歌や俳諧歌をたくさん詠んでいる。そういうのは駄目だがまじめに詠んだのは良いと言いたいのか。わかるようにきちんと指摘してくれないと卑怯だ。だいたい景樹というのは幕末近くまで生きていたのだから、
江戸の終わりまで歌詠みの名人というのはいたのであり、そのこと自体、和歌が江戸末期まで生きていた証拠であり、その弟子が無様だからといって、和歌全体が駄目な理由にはなるまい。

真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。

実際、真淵の歌はあまり雄々しいものはなく、どちらかと言えば古今調に見える。良寛の方がはっきりと万葉調がわかる。それはやはり時代が下って万葉調に馴れたからだろう。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。

漫吟集にある歌だが、そもそもどうでも良い歌だ。なぜ子規がわざわざこの歌を攻撃しなくてはならないのか。この歌が駄目だとしてなぜ和歌が駄目だということになるのか。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。

私もこの歌は駄作だと思う。だからどうだというのか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、
これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめになされては如何や。

言いたいことはわかるが、何を批判したいのだろうか。一言で言えることを三十一文字に引き延ばすことがいけないといってしまうと、秀歌の多くがそれにひっかかる。「難波津に咲くやこの花」などからしてそうだ。「春になって花が咲いた」というだけなのだから。やはり、何がいいたいのかわからない。俳句ならば文字数を惜しむということはあるだろうが、いや、俳句だからこそそういう発想が出てくるのであり、和歌の場合、そこに囚われずにもっとさまざまな技巧のこらし方があり得る。たとえばわざと文字数を浪費するとか、わざと無駄な言い回しを使うとか。長ければ長いだけ情報を詰め込むこともできればわざと冗長にすることもできる。子規が実朝の歌と言われる歌

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

を、助詞や助動詞が少なく名詞が多く、動詞も現在形で短く、

かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

などと言ってほめているが、これこそまさに俳句的発想であって、和歌というものは名詞が多ければ良いというものではない。子規はそのへんがまるで理解できてないのではないか。

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