桂園一枝だが、わずか987首、拾遺715首、合わせて1702首、しかない。
蘆庵の六帖詠草・同拾遺に比べるといかにも少ない。
桂園一枝・同拾遺であるが、読もうと思えばあっという間に読めてしまう。
詞書も少ない。たったこれだけか、というのが第一印象。
さらにいろんな疑問が沸々と湧いてくるのだが、よくわからんことが多い。
桂園一枝は自選集とあるが、序文を読むに、これは源斐雄の署名があるのであり、
その内容を信じれば、門人の菅沼斐雄が代行して編集したものと考えるのが妥当だと思う。
100首のうち1つしか残さなかったというから、まあ要するにそうとう削ったのだろうと思う。
で、1830年に刊行しているが、このときすでに還暦を過ぎている。62才くらいか。
桂園一枝講義は、桂園一枝の中の歌を自ら注釈したもので、桂園遺稿というものに収録されているそうだ。
これは、自選歌中の自注というよりは、弟子たちに請われて解説したものを、弟子が書き残したということだろう。
拾遺は75才で死去した後に門人たちによって集められたものということだろう。
wikipedia には「景樹は「古今和歌集」の歌風を理想とし、紀貫之を歌聖と仰ぎ、それを実践するためにこの歌集を自ら撰集した」
と書かれているが、ちょっと信じられない。
確かに、景樹は古今集が良いとは言っただろうし、紀貫之は良い歌詠みだと言ったには違いないが、
「歌風を理想とする」とか、「歌聖と仰ぐ」とか、そんな大げさなことを言ったのだろうか。
そんなことを吹聴したのは景樹の弟子たちなのではないか。
wikipedia には、香川景樹を「清水谷実業の流れをくむ二条派の歌人梅月堂香川景柄の養子」と言ったり、
また、桂園派を
「堂上の公家だった清水谷実業から地下の香川家に伝えられた二条派の分流」
などと言っているのだが、
確かに景樹が養子に入った香川家は堂上清水谷家の分流の二条派だっただろうが、
景樹への影響はおそらく間接的なもので、
直接的影響は蘆庵によるものだと言えると思う。
また香川家から景樹は離縁もされている。
離縁された理由は「歌風が合わない」ということではなかったか。
離縁された景樹を取り立てたのは景樹が出仕した徳大寺家の人たちであろうし、
そのつてで堂上歌会にも引き続き出たりしたのだが、相変わらず相当な批判を受けたのに違いない。