アジアとエジプト

投稿者: | 2014年9月17日

ブログのリンクをツイッターにはろうかどうか悩んでいる。
宣伝にはなると思うが、
このブログはおもいついたことをそのまま書きためておくところで、
永遠に未完成の書きかけなのだ。
後から書き直すかもしれない。

そんなことを言えばKDPで出版したものも後でわりと書き直すほうなのだが、
どうもブログを宣伝するのは気が引ける。

[アドンとエデン](/?p=7762)などというものを昔書いていてすっかり忘れていた。
なぜ今更思い出したかといえば、JetPackというwordpressの統計プラグインのおかげである。

アラビア語ではエデンをアドンという。
ヘブライ語で主をアドナイという。アドナイはアドンの複数形。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアメンホテプ四世による、
エジプトのアトン信仰にさかのぼることができる。
フェニキア人の神にアドニスがいる。
これらはみな同じであると仮定するとどういうことになるか。

エジプトにとって東とはほぼ間違いなくアジア(狭義にはメソポタミア)のことである。
つまり、エジプトにおける一神教とはメソポタミアから輸入された舶来の宗教であったといえる。

思うにエジプト新王国はアジアの征服王朝ヒクソスから独立して生まれたものだ。
エジプト古来の文化や宗教が復活し、アジアとエジプトという対立概念が生まれた。
外圧によってエジプトがエジプトを自覚したと言ってもよいかもしれぬ。
アトン信仰はヒクソスの時代にすでにエジプトにもたらされていたかもしれぬ。
いきなりエジプトに来たのではないかもしれぬ。

つまり、エデンとかアトンというのは、もともとは、
エジプトの神に対する、メソポタミアの神、のことを言っていたのではなかろうか。
エデンというのは、メソポタミアでは単に平原を表す普通名詞である。
エジプト人はメソポタミアのことをエデンと呼んでいたかもしれない。
エデンの神のことを、だんだん略して単にエデンとかアドンと呼んだかもしれない。

エジプト新王国はしだいにアジアのミタンニ王国と同盟するようになった。
さかんに王族どうしで婚姻するようになった。
これが王家と神官たちの宗教的対立を産んだだろう。
エジプト国粋主義の神官たちと、
アジア由来の神を信仰する王族。

ミタンニ王国は実はヒクソスの末裔であるかもしれない。
エジプトはいったんヒクソスの支配を脱したのではなくて、
ヒクソスによる支配はある程度残存していたのではないか。
第15王朝から第18王朝まで、
王朝の交代という不連続な変化が起きたのではなく、
エジプト固有勢力とアジア勢力の連続的な均衡が続いていたのではなかろうか。
少なくとも当時、よりエジプト的な部族や人民、よりアジア的な部族や人民が、
エジプトに混じり合って住んでいた。
アジア的な部族とはつまり「エジプトへ下ったイスラエルの子ら」である。

> イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。

エジプト新王国はまさにそのような状況だっただろう。

アジアとエジプトの対立が極端な、最終的な形で現れたのがアメンホテプ四世による宗教改革であった。
エジプト古来の神と、アジア由来の神の対立によって先鋭化したものが一神教であったはずだ。
この時期、きわめてリアルな彫像が作られたのも、アジアの影響だったはずだ。
いきなりエジプト人の中からああいうものが出てきたと考えるほうが不自然で、どこかから輸入されたアートだと考えるべき。
リアルと言えばギリシャ彫刻だが、その由来も案外同じかもしれぬ。
このエジプト第18王朝はエジプト保守勢力によって途絶えた。
そのとき王族がエジプトを脱出したのが出エジプト記の記述に相当する。
おそらく、旧約聖書に記されている多くの古代の事績はまずアジアからエジプトにもたらされ、
エジプトから迫害されて、
ユダヤの地に残存したのだろう。

フロイトも指摘しているように、
割礼はアフリカで広く見られる風習であって、
アジア的なものではない。
アトン信仰がエジプトの宗教となった結果、
土着の割礼という風習を何かのきっかけで採り入れたと考えるべきだろう。

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