柳橋新誌を読んでもよくわからんことが多い。
木村荘八[柳橋考](http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/47732_34010.html)
など参考にする。
神田川がお茶の水を開削して隅田川に流れ込むようになったのは第二代将軍秀忠のときだというから、ずいぶん古い。
神田川の万世橋から隅田川の合流地点までかつては「柳原堤」と言う堤防があり、柳並木があったという、その末端にあったので、柳橋という名前になったとか。
元禄10年 (1697)、柳橋架橋。
日本橋の魚河岸は今の三越の当たり、日本橋川に沿ってあったものと思われる。
柳橋からおよそ 2km くらいか。
東日本橋の日本橋中学から南西方面にかつては薬研堀というものがあって、矢ノ倉という米倉に米を運搬するためのものだった。
「旧柳橋」というのはかつてこの、隅田川端の薬研堀に架かっていたもののようだ。ここらを米沢町とも言う。
さて、それで再び柳橋新誌を見ると、柳橋には四区があって、「柳橋表町」「柳橋裏河岸」「米沢表町」「旧柳橋河岸」。
「柳橋表町」は柳橋の東側の神田川沿いと、南詰めの辺りを言うようだ。
「裏河岸」は西側。
「米沢表町」は柳橋の東南の米沢町にあったというが、ちょうど両国橋西詰めの繁華街辺りということだろう。
「旧柳橋河岸」はそこからさらに南の薬研堀辺りにあったものと思われる。これを「米沢裏河岸」とも言う。
この四区に33件の船宿があり、互いに親戚のようであり、他に柳橋北詰めにも数軒の店があったが、疎遠だったという。
柳橋の船宿の発祥は、渡し船だったというが、両国橋は1660年頃に架かっているから、
もしそうだとすれば、ほんの江戸初期から船宿はあったということになろう。
船宿ごとに亭主がいて、その妻が女将となる。
酒家は船宿とは別に描いてある。柳橋の北と南、米沢町などに分散していたようだ。
> 柳橋の妓は芸を売るものなり。女郎にあらざるなり。而して、往々色を売るものあり。何ぞや。
深川の遺風あるをもってしかるか。
而して深川は公に売り、此は私に売る。
公なるものは常になしてなしやすく、
私なるものは変にしてなしがたし。
> 凡そ人の女郎を買うや、もってともに寝るべし。
芸者を招くや、もってその技を聞くべくして、ともに寝るべからず。
而してその寝るべからざる人と寝、そのあへて売らざるの色を売らしむ。
これを「転ばす」と言う。
興味深すぐる。