花神

長々と入院していた。
ヒマだったので、ボランティア室というところに置いてあった司馬遼太郎の『花神』という小説を読んだ。
例によっていろいろと問題の多い小説だと思う。

たとえば『燃えよ剣』には主人公の土方歳三のヒロイン役が出てくるが、これがフィクションであっても特に問題はない。
しかし、大村益次郎とシーボルトの娘、楠本イネとが恋愛関係にあった、とするのはかなり誤解を招く設定だろう。

また例によって司馬遼太郎は「大政奉還」は坂本龍馬の「独創」であるとしているのだが、
坂本龍馬がそんなだいそれたことを自分で思いつくはずがない。
これこそ今の日本人の多くがとらわれている司馬遼太郎の「虚構」、いわゆる「司馬史観」の第一だ。
司馬遼太郎のファンはとかく歴史をうがって見ることが好きなようだが、司馬史観を頭から信用しているように見えるのは滑稽だ。

大政奉還論の根拠となる「船中八策」だが、これは伝説に過ぎない。
史料的に言えば軍記物程度の信頼性しかなかろう。

坂本龍馬は、薩会同盟における薩摩側のエージェントが高崎正風であったのと同じ程度の意味で、
薩長同盟における薩摩側のエージェントに過ぎなかったと思う。
レオナルド・ダ・ビンチが、いろんな発明家や科学者たちのテクニカル・イラストレータに過ぎなかったように。

薩長同盟というのは、犬猿の仲であった薩摩と長州の間を、第三者の土佐の坂本龍馬が取り持った、と解釈されることが多いようだが、
状況証拠的には薩摩が幕府や会津をだまし、かつて痛撃を与えた長州を懐柔しつつ自分の側に巻き込んだ、薩摩が主導した同盟である。
その中心人物は西郷隆盛だっただろうし、公家の側では岩倉具視だっただろう。
大政奉還論とは薩摩が幕府の味方のふりをしながら幕府の力をそぎ、譲歩させるための虚構の空論だっただろう。
薩摩と長州は表向き大政奉還に反対だったようなふりをしていただけだ。

薩摩は会津と同盟を組んで長州を駆逐した後だったから、幕府も会津も、鳥羽伏見の戦いが始まる直前まで、
薩摩を信頼し、味方だと思っていた。
薩会同盟は表向きまだ有効であり、その同盟は公武合体論に基づいていた。薩摩は軍事力を会津や幕軍同様、おおっぴらに行使したし、
軍艦や武器を公然と調達していた。
その裏ではすでに薩長同盟が動いていた。
大阪の冬の陣で家康がまず大阪城の外堀を埋めたように、薩摩はまず徳川氏に大政奉還させただけであり、
当初から武力革命を目指していたのは明らかだろう。

つまり、坂本龍馬が独り大政奉還論を声高に叫んでいたのは事実であったかもしれないが、彼の独創というよりは、
彼をエージェントとして利用していた薩摩が、彼に宣伝させていたのだろう。
要するに彼は一種の薩摩の捨て駒であり、薩長や幕府の怒りを一身に受け、暗殺されてしまったのではないか。
龍馬が暗殺されたことによって無血革命の主導者を喪失し、薩長による武力革命に拍車をかけた、という考え方は、たぶん間違っている。

薩摩はかつて長州の敵だったがそれは長州が単独で突出しようとしたのを阻止したのに過ぎず、
薩摩はもともと長州と目指すところは同じだった。
たまたまそれで薩会同盟というものが成立したから、薩摩は佐幕派だと見なされたわけだが、
それもまたカモフラージュの一種にすぎなかったのだろう。
従ってそのエージェントであった高崎正風が、後々明治政府の要職に就けるはずもない。

しかしこの『花神』というのはよく調べて書いてある。
彰義隊についても高崎正風についても。
しかし、彼が正風に興味を示したのはたまたま正風が薩摩のエージェントとして動いたことや、
中川の宮とも親しかったということがあったからであり、
正風に対する私の関心の持ち方とは全然異質だ。

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