気になったので主に中文ウィキペディアを参考にして調べてみたのだが、
春秋時代(西周)当初の爵位というのはこんな感じだったらしい(一部戦国が混じってるかもしれない)。
公国
: 周、宋、虢、州、虞、召、
侯国
: 魯、斉、陳、唐、蔡、衛、邢、随、杞、曾、滕、薛、紀、徐、莱、韓、魏、息、荀、酆、楊、管、応、王叔、
伯国
: 燕、秦、曹、鄭、梁、凡、茅、郕、邳、毕、祭、原、滑、単、芮、
子国
: 楚、巴、呉、越、向、須句、莒、郯、鄅、鄫、钟吾、邾、偪阳、譚、牟、雍、毛、劉、賈、
男国
: 許、宿
周には王と公がいた。
周王と周公。
周公にはたとえば周公旦がいるが彼は王ではない。
周公爵旦などという言い方はしない。
周公国、という言い方もしなかったはず。
鄭国の君主は鄭伯、などと言ったはずである。
男国が非常に少ないがあまり重要性がないので後世に記録が残ってないだけなのかもしれぬ。
商の時代には公侯伯の三爵しかなかった。周になって五爵になった。
春秋に、そう書いてあるらしい。
子国と男国にはほんとに爵位があったかも疑わしい。
特に楚などはみずからは王を称していたのだが、
朝貢貿易みたいなもんで、
たまたま楚の使節が周に訪れたとき、周が勝手に子を叙爵しただけかもしれない。
山東地方には群小の邑があり、それらは実際に男国と呼ばれていたかもしれない。
当時の国とか君主というのは要するに今の大地主みたいなもんで、
あるいは、本家があって分家がある田舎の大家族みたいなもんで、
従者や奴隷などを含めてもせいぜい一万人くらいの集団だったのではなかろうか。
公侯は百里四方、
伯は七十里四方、
子男は五十里四方の領国とあるが、
百里は4kmなんで、百里四方は16km2=1600haくらいか。
山手線の内側が69km2らしいから、ざっとその四分の一。
まさに耕地を含めた邑の広さだわな。
たとえば、今日 Principauté de Monaco をモナコ公国と訳す。
しかるに、「春秋の筆法」に従えば、単にモナコ国となり、その君主がモナコ公となる。