将軍家の結婚という本があって、私が書いた将軍家の仲人とかなり近い。
比べて読めば私がどこを創作したかわかっておもしろいだろうと思う。
脂肪と筋肉
腹に付いた脂肪が落ちると食欲も減るというのは事実だろうと思う。
つまり、脂肪が付いていればそれだけ自重が増えるから動くための筋肉が必要になる。
脂肪を落とせばそのためについていた筋肉も落ちる。
よって基礎代謝はさらに減る。
やせるのはよいが基礎代謝が減るのはよろしくない。
筋肉は重いから筋肉はなるだけ減らさないのがよい。
となるとやはり運動をするしかないのだが、
自重が少ないと運動をしてもあまり効果がないと思われる。
はつきりした形をとる為めに
[はつきりした形をとる為めに](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3749_27331.html)。
これもまた短くてわかりやすい文章である。
> 私の頭の中に何か混沌たるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。さうしてそれは又、はつきりした形をとる事それ自身の中に目的を持つてゐるのです。だからその何か混沌たるものが一度頭の中に発生したら、勢いやでも書かざるを得ません。さうするとまあ、体のいい恐迫観念に襲はれたやうなものです。
これは私にはよくわかる。
何か頭の中にたまったよくわからないものに形を与えたいので書く。
それは一種の強迫観念とも言える。
旧約聖書のヨナのような預言者や、イスラムの始祖モハメッドが啓示を語るような強迫観念、という意味だろうと思う。
> あなたがもう一歩進めて、その渾沌たるものとは何なんだと質問するなら、又私は窮さなければなりません。思想とも情緒ともつかない。――やつぱりまあ渾沌たるものだからです。唯その特色は、それがはつきりした形をとる迄は、それ自身になり切らないと云ふ点でせう。でせうではない。正にさうです。この点だけは外の精神活動に見られません。だから(少し横道にはいれば)私は、芸術が表現だと云ふ事はほんたうだと思つてゐます。
まあ、だから、芥川が表現と言っているのは、おそらく宗教的な言葉を借りれば、
預言とか啓示とか召命とか神のお告げとかいうものだろうと思う。
それをまあ、小説はストーリーが大事だとかいや表現のほうが大事などというから話が噛み合わない。
それはたぶん脳の中の現象であり、
一部の人の脳の中にはそういうものが沸いてくる。
いや、もしかすると子供の頃にはみんな沸いているのかもしれないが、
脳がキャリブレーションされて大人になると沸かなくなる。
大人になっても沸いてくるひとはたいていは変人奇人と見なされる。
だがさらにほんの一部の人はその沸いてくるものが理性とか創作というものと結びついて、
作品となるのではなかろうか。
ややこしいのは、この「表現」という言葉を、世の中のいわゆるアーティストと呼ばれる人たちは、
もっと違う意味に使っていることが多い、ということだ。
特に「内容」より「表現」を重視する人にその傾向が強い。
それは「コミュニケーション」とか「相互理解」とか「自己実現」とかよくわからない言葉で言い換えられることがある。
他人がいて、自分がいて、その間に何かが存在するらしいのだが、
それと芥川の主張とは全く異なるものだと思う。
もちろん表現は他者がいなくては成立しないのだが、
芥川にとっては他者とは今偶々目の前を通りかかった人ではない。
[後世](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/33202_12224.html)
に書いているように、
> 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆いに埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし―― 私はしかしと思ふ。しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。
芥川にとっての読者とはこのようなものだろう。
今世の中に満ちあふれている普通の小説の普通の読者ではなく、
いつの時代でもよいから、自分を真に理解してくれる読者。
そのために小説というメディアを選んだのだ。
目の前の人のために表現したければ演劇とかそういうメディアを選べば良いと思う。
小説の読者
[小説の読者](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3794_27310.html)。
これは他の芥川の文章よりもずっとわかりやすいと思う。
今の小説の読者は、
* まず小説の筋を読んでゐる
* 次に、描かかれた生活に憧憬を持つてゐる
* 次に、読者自身の生活に近いものばかり求めてゐる
ストーリーがおもしろいから読む。
ミステリーやラノベなどであろう。
次に、自分の日常から遠く離れたものを読む。
ファンタジーのことだろう。
次に、自分の日常生活に近いものを読む。
普通の現代小説、通俗小説のことだろう。
しかし芥川は自分が小説を読むには、それ以外の要素があるといい、
> では何が僕の評価を決定するかと云へば感銘の深さとでも云ふほかはない。
という。
で、
> この何かに動かされる読者の一群が、つまり読書階級と呼ばれるのである。或は文芸的知識階級と呼ばれるのである。かう云ふ階級は存外狭い。おそらくは、西洋よりも一層狭いだらう。僕は今、かう云ふ事実の善悪を論じてゐるのではない。唯事実として話すだけである。
としめている。
普通、芥川の文芸論と言えば、谷崎隆一郎の間で交わされた
[文芸的な、余りに文芸的な](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html)
とか
[続文芸的な、余りに文芸的な](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/190_15141.html)
などをさすのではないか。
しかしこれを読むと芥川という人はなにか難しいことを言う人だ、
さすがに芥川は難しい、
という印象になってしまわないか。
芥川の言っていることはもっと単純明快だと思う。
[小説作法十則](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/4313_33771.html)
これもけっこうこむつかしいことを言っている。
芸術その他
最近は自分で読んだ方が人に解説してもらうより話が早い(ことが多い)。
青空文庫をいろいろ拾い読みしているのだが、
芥川龍之介の[芸術その他](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/4273_6753.html)
> 内容が本で形式は末だ。――さう云ふ説が流行してゐる。が、それはほんたうらしい嘘だ。
まあ、彼がいつも言っていることだ。
ストーリーのおもしろさがまずあって文章のうまさは後だという説に、芥川はいちいち反論している。
> 芸術は表現に始つて表現に終る。
別の言い方をしてみている。
ただこの言い方はいかにもいやらしいから、
> しかし誤つた形式偏重論を奉ずるものも災だ。恐らくは誤つた内容偏重論を奉ずるものより、実際的には更に災に違ひあるまい。
などと言い訳している。
> 危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。
言いたいことはわかる。
> 芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
この[龍](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/134_15262.html)というのはいかにも「鼻」の二番煎じに思えたのだろう。読者のそのような批判をあらかじめ予想して、
> が、予に談議を致させるよりは、その方どもの話を聞かせてくれい。次は行脚あんぎゃの法師の番じゃな。
「何、その方の物語は、池いけの尾おの禅智内供ぜんちないぐとか申す鼻の長い法師の事じゃ? これはまた鼻蔵の後だけに、一段と面白かろう。では早速話してくれい。――」
などと最後に言い訳している。
別に「鼻」やら「龍」やら宇治拾遺物語を元ネタに短編を量産したってひとはとやかく言わないと思うのだが、芥川にとってそれは停滞と思え、停滞は退歩であり、退歩は死だと感じたのだう。
[売文問答](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3758_27329.html)。
[亦一説?](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3790_27349.html)。
[文学好きの家庭から](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/25_15244.html)。
[文章と言葉と](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3755_27342.html)。
少しおもしろい。
[文芸鑑賞講座](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/46227_26608.html)。
長い。
[一人の無名作家](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3787_27335.html)。
なんだかよくわからないがそういう人がいたと紹介したかったのだろう。
ゴミ屋敷
いわゆるゴミ屋敷というのがあるが、それを片付ける清掃業者もいてその話を聞いた。
自分のうちをゴミ屋敷にしたまんま死んじゃう人ってのは割と金持ちが多いらしい。
ゴミの中に万札などを差し込んでいたり、いわゆるタンス預金みたいなのが遺族も知らずに出回ったりする。
清掃業者が猫ババできないように必ず監視員が付くそうだ。
ソファの隙間などには硬貨がよく貯まっているそうである。
おもしろい話題だがこのままでは小説のネタにはならん。膨らませるにも限りがある。
なんかの素材にはなるかもしれんが。
和泉式部、相模、赤染衛門
後拾遺集で大きく採り上げられた女流歌人、和泉式部、相模、赤染衛門は、
相模だけが後拾遺集初出で、後は拾遺集初出。ただし一首ずつ。
> 性空上人のもとに、よみてつかはしける 和泉式部 雅致女式部
> 暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥に照せ山のはの月
> 大江為基あづまへまかりくだりけるに、あふぎをつかはすとて 赤染衛門
> 惜むともなきものゆゑにしかすがの渡ときけばただならぬかな
和泉式部は大江雅致の娘、
赤染衛門は大江匡衡の妻、
相模は大江公資の妻であって、みな大江氏つながりなのが興味深い。
大江氏は学者の家柄だから歌が詠めておかしくない。
相模は拾遺集に採られるには若すぎる。
和泉式部なら30歳くらいまでに詠んだ歌。
赤染衛門が一番年寄り。
初出はともかくとしてこれら三人を勅撰集に抜擢したのは藤原通俊に他ならない。
もしかするとすでに当時和泉式部らは有名な歌人ではあったかもしれない。
しかし、主流派とはみなされてなかった。どちらかと言えば色物扱いだったのだろうと思うよ。
通俊と大江氏になにかつながりがあるのだろうか。
まったくわからない。
難後拾遺を読んでみたいが、どうやら群書類従に写本しかないらしい。
まあ、読めないな。
もっと修行を積まないと。
字下げ
字下げや四百字原稿用紙というのは群書類従に由来するのだとどこかで見た気がするのだが、
いずれにしても、字下げやマス目の原稿用紙というのは、
今の時代には何の意味もないことだ。
さっさとやめればいいと思う。
米
最近勤務地が変わったわけだが、
神田のようなところに勤めれば毎日昼飯を食べ歩けて便利だなと思っていたが、
いざそうなってみると外食は飽きる。
食べれば食べるほど急速に飽きていく。
コンビニ弁当にもすぐ飽きた。
味付けが濃すぎる、というより狙いすぎてる、というかあざとすぎるんだよな、たぶん。
味覚障害になる、とまでは言わないが、何か、誰か裏に策士がいて踊らされている感じがして不快になる。
家から弁当を作ってもっていって食べた方がましだと思うようになった。
不思議な心境の変化だ。
ところが安い米だと冷えるとまずくて食えないし、
温め直しても大してうまくない。
これまでイオンとかネットスーパーの一番安い米を買っていたが、
これからは一番高い米を買おうかと思う。
米を節約していても仕方ない。
今日のニュースに減反をやめて、補助金もやめるという。
喜ばしいことである。
カリフォルニア米で日本の高級な米よりもうまい米が出てくれば脅威かもしれんが、
日本人が高くてもうまい米を食べ続ける限り、
国内のまともな稲作農家は安泰であり、
逆に補助金もらわんと米作れないような農家は廃業するのだろう。
ていうか、アメリカでも日本と同じ品質のコシヒカリなどのブランド米を作ろうとすれば、
日本と同じようなやり方で育てなくてはならないはずで、
それでは手間と金がかかりすぎて、アメリカの大規模農家的にはうまみが少ないのではなかろうか。
関税なんてもんはさっさと自由化すべきだ。
農業に多少の淘汰圧がかかることは品質向上にも有効だ。
TPPも重要五品目を聖域とするのをやめようと言っているのだが、
当然そうすべきだ。
自民党がそうした大胆な政策をとれるのはすばらしい。
農林族になりたがる議員が少なくなったから、というが、
要は将来性のない部分からは自然と政治家も役人も離れていき、
一部の既得権者だけが残っても無力だから、
いずれは見捨てられるということなのだろう。
政治というのは性急に変えようとしても変わらないが、
長期的には時勢が解決してくれるわけだ。
アマゾンの書評
アマゾンの本で、特にキンドル本のカスタマレビューを読んでいるのだが、
全然書評になってない人がいる。ていうかほとんどすべては書評になってない。
短すぎて情報量がゼロなやつ。「おもしろかった」と言われても困る。
子供じゃないんだから。
子供にじゃあどこがおもしろかったかと聞くと「全部」と答える。
それと同じ。
本の帯の煽り文句みたいなことを書く人がいる。
たぶん著者のファンなのだろう。
それを書くことで他の人もその本を買ってくれると思ったら大間違いだ。
その本の編集者やら、他の作家が依頼されて煽り文句を書くのは仕方ない。
いずれにしても参考にはしないが、本の帯なら読むことは読むが、ただのファンが書いたものは読む時間が無駄(な場合が極めて多い)。
長々と、最高におもしろい、抱腹絶倒、などなどと極端な形容詞を並べてあって実は内容は空疎。
きっとこの本のおもしろさを言葉でなんとか表現したかったのだろうが、逆効果だ。
この[ぼぼ](http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=cm_cr_dp_pdp)
という人の書評はすこしおもしろい。
まあ、著者の同業者なのだろう。
書評というのは、著者とは違う視点で著書を読み、解釈してくれることがありがたいのであり、
そういうユニークな書評がいくつか集まると、
もちろん自分が読みたい本を探すのにも役立つだろうが、
本を読み解く役にもたつわけである。
つまり、自分がざっと読んでも気づかなかったこと、考えも及ばないであろうヒントを書いてくれるのはありがたい。
いろんな人の書評を読んだ限りでは、どうも自分が読んだのよりはずっと浅いところまでしか読んでない。
さらに文章表現能力が足りないからさらに浅いところまでしか書けてない。
そんなのばっかりだ。
お金払うんだから、より深く読んだほうがお得なのに(笑)。
ファンだと言っておきながら実は何も読んでない人が多いんだろうなと思う。