アマゾンの書評

アマゾンの本で、特にキンドル本のカスタマレビューを読んでいるのだが、

全然書評になってない人がいる。ていうかほとんどすべては書評になってない。

短すぎて情報量がゼロなやつ。「おもしろかった」と言われても困る。
子供じゃないんだから。
子供にじゃあどこがおもしろかったかと聞くと「全部」と答える。
それと同じ。

本の帯の煽り文句みたいなことを書く人がいる。
たぶん著者のファンなのだろう。
それを書くことで他の人もその本を買ってくれると思ったら大間違いだ。
その本の編集者やら、他の作家が依頼されて煽り文句を書くのは仕方ない。
いずれにしても参考にはしないが、本の帯なら読むことは読むが、ただのファンが書いたものは読む時間が無駄(な場合が極めて多い)。

長々と、最高におもしろい、抱腹絶倒、などなどと極端な形容詞を並べてあって実は内容は空疎。
きっとこの本のおもしろさを言葉でなんとか表現したかったのだろうが、逆効果だ。

この[ぼぼ](http://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A1IYC1BYD4Z15Q/ref=cm_cr_dp_pdp)
という人の書評はすこしおもしろい。
まあ、著者の同業者なのだろう。
書評というのは、著者とは違う視点で著書を読み、解釈してくれることがありがたいのであり、
そういうユニークな書評がいくつか集まると、
もちろん自分が読みたい本を探すのにも役立つだろうが、
本を読み解く役にもたつわけである。
つまり、自分がざっと読んでも気づかなかったこと、考えも及ばないであろうヒントを書いてくれるのはありがたい。

いろんな人の書評を読んだ限りでは、どうも自分が読んだのよりはずっと浅いところまでしか読んでない。
さらに文章表現能力が足りないからさらに浅いところまでしか書けてない。
そんなのばっかりだ。
お金払うんだから、より深く読んだほうがお得なのに(笑)。
ファンだと言っておきながら実は何も読んでない人が多いんだろうなと思う。

社長さん

ある人に社長さんの話をきいた。
その人はもとは役所の清掃部門か何かにいた人だが、もう30年くらい前に独立して、
ペットボトルの再生工場を経営しているという。
ゴミのリサイクルに人より先に目をつけたのは偉いなどというがそれは結果論に過ぎないと思う。
同じような起業家がたくさんいて、彼はたまたま成功したからいま社長でいるだけだと思う。
あまり参考にならない話だ。

未来のことは正直わからん。
キンドルやkdpがどうなるか、どのくらい先行投資してよいものか、わからん。
少なくとも人生のすべてを賭ける気にはならない。
後で悔やむことになるか、ほっとするか、どちらであっても仕方ないことだ。

紙の本屋

久しぶりに紙の本屋さんで時間をつぶしたのだが、
アマゾンと比べると、明らかに何かが違う、本屋さんの個性というかこだわりというか営業というか、
本屋さんの売ろうという意志によって、本が陳列されているのを感じる。
本の背表紙を眺めて手にとって中身を確認できるというのがやはり紙の本屋さんの特徴であり、
アマゾンのインターフェイスは便利だとはいっても本屋さんにはかなわないところが多い。

紙の本屋さんにはしかし蔵書に限りがあり検索もできない。
紙の本屋でつい買ってしまいそうになるが買わないのはやはり選択幅の狭さによるのだと思う。
むろん紙の本自体は電子書籍よりははるかに数が多いわけだが。
紙の本の多くは私の嫌いな営業がされていてそういうのを除外すると残りはあまりない。
たとえば岩波文庫の灰色のやつとか黄色のやつとかに限定するとほんとうにちょっとしか置いてない。
たぶんそれ以外の学術系の文庫にしても新書にしても、ほんとうはもっとたくさんあるのに、書店の品揃えはその一部でしかない。
あれば買ってしまっているかもしれないのに。
まあ、イオンとかイトーヨーカドーくらいの大きさの本屋があればよいのだが、本屋にはそこまでの需要(出店するうまみ)がない。

普通の人は、本以外の、服とか食べ物とか家具を、紙の本と同じように目でみて触って買っているわけで、
それらと同じ感覚でお金を払って所有しているわけだから、
紙の本が当分の間は売れるのは当たり前だなと思う。
だが将来どうなるかはわからない。

自由業をうらやむ

私の知り合いに、日本のCGの黎明期に仕事をしてそれから電飾職人になった人がいる。
CGはすでにいろんな人がよってたかって仕事してるから、日本に一人しかいない電飾職人になったほうが食えると。
今からPICマイコンとか覚えた方がましだと。

またある知り合いは、ほんとうのお金持ちを顧客にして建築業と不動産業を両方兼ねたマネージメントの仕事をしているという。
つまり、ほんとうのお金持ちは土地をもったりして運用しなきゃいけない。
自分の土地に家族の家を建てることもあればマンションを建てることもある。
そんなとき不動産屋と建築会社の両方に話を通すのは面倒だから、両方いっぺんにやってくれるエージェントがいればありがたいということ。

また、私は知らない世界だが、弁護士と税理士と司法書士と私立探偵を一度にマネージメントしてくれる営業の人なんかがいれば、
たぶんお金持ちな人には便利だろう。

そんなふうにして、会社のサラリーマンになればこれからは拘束され搾取されるだけで、
まあこれまでは給料そこそこもらえてたからそれでもいいやとなったかもしれんが、
これからは正社員になったからといってどれほどもらえるかもしれんし、
まして契約社員なんかだともうフリーランスになったほうがましかもしれん。

そうやって会社としてプールする金とか無能な社員を飼っておくために本来は自分がもらえるはずだった給料が天引きされると考えると、
これからの時代はやはりフリーランスでいける人はいったほうがよい、
少なくともその機会は常にうかがっていたほうがよいと思う。
なんか独立できるうまい話はないかと(うまい話もないのに独立するはダメ。今のポッと出のキンドル作家とか(笑))。

ていうかフリーランスでうまくやっている人がうらやましい。
自由業というのは昔の「社会主義」社会ではカタギな仕事じゃないとか見られていたかもしれんが、
今の「新自由主義」社会では誰にも迷惑かけず自分で食っていくまともな人、といえないか。

新古今集

11月に入ってまだ一冊も売れてない。
私はまあ、本の印税というものは、カラオケの印税みたいなもんで(?)、
いっぺん登録しておけばじわじわ年金みたいにお金が儲かるもんだと思っていたのだが、
そういう人もいるのかもしれんが、私の場合全然ダメで、
そりゃそうだ、まだ売り出して半年のペーペーなのだから(昔新人賞に応募したりパブーで公開していたストックはあった)。

それでだいたい分かったことは、新作を常に投入しなきゃならないということだ。
一年に二冊では少ないくらいで、
もっとハイペースで出していく。
そのたびに無料キャンペーンかなんかやる。
そうすると目立つ。
旧作もついでにうれる。
ファンも徐々に獲得できる。
そうして10年くらいがんばってみないと結果はでない。
それが営業というものだろう。

最近は新作を出すと驚いたことに最初の5冊くらいはすぐに売れる。
ありがたいことにすでに何人か私のファンがいるらしい。

3月くらいから10月までkdpで本を出版して1万円とちょっとくらい売れた。
確定申告しなきゃならんな、大した額ではないが。
全部必要経費で落とせる程度ではあるが。
そういうことも学んでいかねばならん。

そんでまあ老い先も短いのだが、
エウメネスが一番売れていて、残り全部合わせてその半分以下くらいだと思う。
では私は古代ギリシャの小説を書くべきなのだろうか。
とりあえずエウメネスの続編か姉妹編を書くべきなのだろうか。
それはまあそれとして、
たぶん私が他人に対して比較優位なのは和歌だと思う。

和歌はやっている人が極めて少ない。
大野晋も丸谷才一も亡くなってしまったし、
あとは、京極派の研究をやっている岩佐美代子という人くらいしか思いつかない。
いや、他にもいるのかもしれないが、
ともかくあまりいない。
私が今本業でやっているようなことはいろんな人が世界中でやっていることであり、比較優位とは言いがたい。

人生が無限にあればやりたいことすべてをやれば良いかもしれんが、
良い仕事をただすれば良いというのではなくて、
優先順位をつけて、
その中で重要度は高い割に競争相手が少ない仕事をすべきだと思う。
エウメネスはまあ2番目くらいに置いておく。

本業の方は一応つきたい仕事に就いたわけでしかしなってみると全然物足りないわけで、
しかも自分くらいのやつはざらにいる。
となると、本業の範囲でできることはもちろんがんばるとして、
それ以外の分野、特に子供の頃から好きだったこと(趣味)で何か仕事をしてみたいと思うわけだ。
しかし、本業をやめて趣味だけで生きていく金もなければ自信も無い。

それで古今和歌集を調べて一冊書いてみて次に新古今集を見てみると、
古今集は非常に危なっかしくてナイーブなのだが、
新古今集はすっかり成熟して安定していて安心して読んでいられるのが心地よい。
古今集は、いろいろ謎解きするのが楽しいのだが、
新古今集は完全に観客席に深々と腰掛けて、後鳥羽院の演出を楽しめばよい。
古今集の場合は、つい自分も舞台に上がっていろいろいじくり回したくなってしまうのだが、
新古今集に関してはそれはほとんどない。
遠くから眺めていてぼそぼそ批評をつぶやくくらいだろう。

古今集はつまらん埋め草や屏風歌も多いし単なるだじゃれ以上でかつ当時の人の内輪受けみたいなのが多い。
ああいうのが新古今にはまったくない。
すべては後鳥羽院によって緻密に構築されている。
丸谷才一が後鳥羽院や新古今が好きなのはそんな絶対安心感のようなものによるのに違いない
(そして多くの人はそこから派生した小倉百人一首を無批判に楽しむのだ)。
彼は、本居宣長や香川景樹や細川幽斎の歌の中から秀歌を拾い出すようなことはしない。
室町時代より後だからだ。
むしろ彼は江戸狂歌の蜀山人を好むのだが、
蜀山人の歌には良いものもあるが全体に粗雑で私には鑑賞に堪えない。

新古今集という名前も非常におもしろい。
それまで既存の和歌集に「新」をつけた例はなかったのではないか。
後鳥羽院の万能感が反映された題名。

というわけで新古今集でもこんどはいじろうかと思っているのだが。

もし和歌の研究者が今の百倍くらいいたら、私がこないだ書いたようなことくらいとっくに指摘されていて、
わざわざ私は本を書くこともないか、
或いはもっと先を調べるのに手間取っただろうと思う。
他にも疑えば疑えることがたくさんあるわけで、今本屋に新書で並んでいるような程度しかまだ研究されてないのなら、
私に書けることはまだまだいくらでもある気がしてくる。

普通の人には古今集のほうが新古今より簡単に見えると思う。
新古今はそうとうにひねってあるからだ。
しかし、慣れてくると古今集は古さ故の難解さがあり、
逆に新古今は出典さえ調べれば割と簡単にわかる、見た目だけの難しさだということがわかる。
逆に先行研究や資料がそろっているぶんつまらないともいえるかもしれない。

青空文庫的有料キンドル本

青空文庫とは限らず、
著作権切れの本を、無料でキンドルで読むにはという話は割とみるが、
有料でも良いからキンドル本で買いたい、という話はあまりまだないようだ。

与謝野晶子訳の源氏物語は買った。
青空文庫だと「桐壺」「箒木」みんなばらばらなのを一冊にまとめて100円。
まあ買っても良いかな。
昔電話帳みたいなの高い金出して買ったが家が狭いので捨てたくちなんで、まあいいかな。

レ・ミゼラブル。まあこれもちまちま青空文庫で読んでもいいんだが、
キンドル本で一冊にまとまって47円。
まあ買ってもいいんじゃないのかという気がする。

赤と黒とかパルムの僧院とか。スタンダールは好きだから、100円なら買っても良いと思うが、
まだ著作権切れてなさそうだな。

永井荷風全集とか菊池寛全集が100円なら買ってもよい。

50円とか100円なら買って良いというものは割とある。

頼山陽全集なら1000円以上でも買うんだがなあ。
まあどこもださないだろうなあ。
当分。
『司書夢譚』でも書いたんだが、『儒林外史』とか『紅楼夢』とかあの辺の中国の長編小説の和訳が出てくれると助かるのだが。
何しろかさばるし重いし。
そうだなあ。1000円でも買ってもいいかもしれんね。
まあどこも出さないだろうなあ。

勅撰21代集全集とかあれば、まあ、2000円出してもいい。
絶対出ないがね。

今回の『古今和歌集の真相』だが、ダウンロード数では今までで一番になった。
落としている人はおそらくいつもの無料キャンペーンで取り合えず落としとく人だと思うが、
それ以外に、どうも一般の教育者が読んでるのではないかという気配がある。小中高の教員とか。
アマゾンのおすすめリストとか見てると。
でまあ断言できるが、小中高校の教員は私の小説をおもしろいとは絶対思わないだろうと思う。
古今和歌集の評論なので仕事のネタとして一応読んでみようかと思ったのだろう。

古今和歌集の研究者はキンドルの無料キャンペーンなどそもそも読んでないと思うし、
そんな研究者は日本に数人しかいないだろう。
大学生はたくさんいるかもしれんがやはりそういう国文系の学生はキンドルは読んでないと思う
(いや中にはいてもおかしくはないんだけど一般的傾向として)。

どうもキンドルはストライクゾーンが狭くて困る。
未だに紙の本しか読まない人が多すぎる。
時代が変わるのにもう少し待たないといけない。
[紙の本は死ぬ](http://cpplover.blogspot.jp/2013/10/blog-post_24.html)
とか言われているうちはまだ死んでない。
死ぬのはおそらく十年くらい先だ。
今の紙の教科書もいずれはタブレットに置き換わる。
小学校では、そろばんや書道をやるように、古典的メソッドをなぞるという意味で、紙の教科書を使い続けるだろうが、
それ以外はもういちいち紙とかやってらんなくなる。

大学では未だに黒板にチョーク、ホワイトボードにマーカーという授業をする人がいる。
昔はOHPシートでやってた。
ダメとは言わない。徒手空拳でも授業ができるというフェイルセーフな意味では良いのかもしれん。
むしろ階段教室で黒板とチョークだけで授業ができるというスキルは、大学教員としてもってなきゃいけないのかもしれん。
eラーニング(笑)とか言ってるやつはろくなのいないしなあ。
私も小学生の頃「機器室」というところで授業を受けたが、今も機械に振り回されて本質を見失ってる授業もおおいし。
それよか階段教室黒板チョーク授業のほうがまだましなことが多いのかもしれん。

私が狙っているところと、キンドルのストライクゾーンは、
残念ながら重なってない。
だから、キンドルのストライクゾーンを基準にすると外れたボール球を投げることになる。
ものすごい暴投でキャッチャーが取れないくらいの。
潜在的読者がなんかの機会に目に触れるかもしれないから投げている。今のところは。仕方なく。
自分と同じ趣味の人、同好の士を探したいだけなんだよね、結局は。
アマゾンもマーケティングやってるわけで、ストライクゾーンは広げたいと考えているのに違いないが、
とにかく今年2013年には、このストライクゾーンしか用意できなかったわけよな。
将来どうなるかはまだわからんわけ。
まだ日本でkdp始まって1年弱なわけで。

私は高校生の頃から丸谷才一の愛読者だった。『日本語のために』とか読んでた。
歴史的仮名遣いにあこがれがあったりもした。
丸谷才一は最初小説書いてて、それから評論とかやり始めて、エッセイとかずっと書いてて、
去年87歳でとうとう死んだのだが、
思うに、
87歳まで長生きしてエッセイのようなものは書けるのかもしれんが、
心血注いだ作品というのはやはり60歳くらいまでに書き終えてないといけない気がする。
司馬遼太郎も年取ってから雑文と講演ばかりやるようになったが、あまりよろしくない。
自分の中では子供の頃読んだ『項羽と劉邦』あたりが好きだったなあ。
今読むと大したことないんだが、そりゃある意味仕方ないこと。
『燃えよ剣』の前半部分は評価するんだが。

私がいま小説を書きたいと思い書いているのは40過ぎてやっと書ける気がしてきたからだが、
しかし小説を書くのに適した年齢というのはそんなに残ってない、後10年くらいしかないと思う。
とすると、余計な雑文を書いているヒマはない。
専業で書くわけにはいかんから、どんなに多くても20冊くらいだろうと思う。
そんなに多くない。

メモ

President Online

* [藤井太洋「電子書籍」のつくり方 デジタル時代の重要人物に訊く「実践マーケティング戦略」第1回 ](http://president.jp/articles/-/10758)
* [藤井太洋「電子書籍」のフェアな売り方 デジタル時代の重要人物に訊く「実践マーケティング戦略」第2回 ](http://president.jp/articles/-/10761)
* [藤井太洋「電子書籍」の広め方 デジタル時代の重要人物に訊く「実践マーケティング戦略」第3回 ](http://president.jp/articles/-/10763)

* [ダイレクト文藝マガジン 002号「藤井太洋インタビュー / KDPノウハウ本メッタ斬り!」](http://www.amazon.co.jp/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E6%96%87%E8%97%9D%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3-002%E5%8F%B7%E3%80%8C%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%A4%AA%E6%B4%8B%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC-KDP%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%82%A6%E6%9C%AC%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BF%E6%96%AC%E3%82%8A%EF%BC%81%E3%80%8D-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E8%BC%94-ebook/dp/B00B62NV66/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1382667039&sr=1-3&keywords=%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%A4%AA%E6%B4%8B)

うーん。
だいたい普通のこと言ってるだけかな。

班田収授

班田収受というのが基経の時代、元慶3年(879年)に行われた。実に50年ぶりだったという。これは明らかに基経主導だっただろう。元慶官田など。

元慶2年(878年)出羽国蝦夷俘囚の反乱というのは班田収受を強行しようとしたことに対する反発で、それを鎮圧したということだろう。

高子が元慶寺を元慶元年に建立しているのだが、その出費がかさんだためではなかろうか、などと考えてしまう。藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とある。

高子は元慶2年にも山城国愛宕郡(京都市左京区岡崎東天王町)に東光寺を建立とあって、後に高子は東光寺僧(座主?)善祐と密通したとして皇太后位を剥奪される。

ともかくこの時期高子ちゃんは自分の子供の陽成天皇が即位して、国母となれてものすごくうれしくて、たくさん寺を建立しちゃったんですよ。夫の清和天皇は外に女を作りまくるしね。お兄ちゃんの基経は一生懸命税金を集めまくるんです。で、たぶん、高子ちゃんは善祐や遍昭のパトロンだった。もっと親密な関係であったでしょう。業平との関係もなかったとはいいきれない。

そんで、京では天使様が代替わりしたかしらないがその母親が夫を追放して遊蕩しまくって、そのため税金とりにくるとなれば、陸奥で反乱が起きるのは当たり前だわな。

最後の班田収受は延喜2年に行われたのだが、これは菅原道真が失脚し、藤原時平が実権を握った直後であるから、父基経にならって時平が強行したのではなかろうかと思われるのだが、よく分からん。もし道真が計画していたとすると、話は全然違ってくるのだが、情報が少なすぎる。

堀辰雄

『[風立ちぬ](http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html)』
を読んで、
なんだこりゃと思ったから
『[菜穗子](http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4805_14353.html)』
『[あひびき](http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/55418_49022.html)』
『[ルウベンスの僞畫](http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/55426_49029.html)』
などをざっと読んでみたのだが、

特に『あひびき』という題は二葉亭四迷を思わせるが、ごく短編なので、すぐに読むことができるだろうから、
読んでみると良いと思う。ちょうど、『風立ちぬ』の「序曲」くらいの長さで、
彼はまあ、詩のように短い特徴的な文体の短編、もしくはそれに日記のようなものを付加した私小説のごときもの、
を書く人だったことがわかる。
いずれも軽井沢の避暑地で女の子とどうしたこうしたというような話であって、なんともたわいない。
大正の金持ちの文学少年の書くものだ。

> 「やあ、薔薇が咲いてゐらあ……」と、いくぶん上ずつた聲で云つた。

> 「あら、あれは薔薇ぢやありませんわ」少女の聲はまだいくらか少年よりも落着いてゐる。「あれは蛇苺よ。あなたは花さへ見れば何でも薔薇だと思ふ人ね……」

> 「さうかなあ……」

少女の台詞は明らかに美化されているように思われる。

三島由紀夫が堀辰雄を好きだったらしいのも、
三島由紀夫が伊東静雄を好きだったのと一緒に考え合わせると、
こういう西洋趣味、大正趣味なところが好きだったというわけだと考えればだいたいあたっていると思う。

悪くはないが、一生懸命読むようなものかな。
今更こんな文体を参考にしても仕方ないし。
ずいぶん気取ってる。

99円

で、KDPセレクトの90日中に5日間の無料キャンペーンなんだが、
新刊でちょろっと配布されて、
二回目からはほとんど意味がない。
私としては99円で売ろうが250円で売ろうが、買う人はあんま気にしてないだろうし、
250円だと印税70%だが、99円だと35%になるんで、
99円にすると250円にするよか6倍売らないと同じもうけにならんということになる。

だけどなんか、99円とか100円とかのが主流な気がするし、
有料で何部売れたかというのは割と重要な気もするんで、
一度全部99円にしてみようと思う。
それにはKDPセレクトが切れるのを待つ必要がある。

※追記 KDPセレクトが切れるのを待つ必要はない。

ともかく1000部とか2000部とかコンスタントに売れんことには意味ない。
35%で99円で1000部だと3万円くらいしか儲からないんだが、まあいいや。
儲けがーとか言ってる段階じゃないしな。

99円に設定しておいて、細く長く売れ続けるのも一つの戦略かもしれんと思う。
いろいろ試してみるのはいずれにしてもよいこと。
250円+KDPセレクトでまず無料キャンペーンやったらしばらくして99円にすりゃいいのかもしれん。

自分で買おうというときも250円だと何か心理的抵抗があるように思える。
じゃあ、99円なら気楽に買うかというとそれも違う気がするが、
日常生活では、大した額ではないのに不思議なものだ。