唐詩選

唐代の詩は古いものではあるが、
『唐詩選』自体は明末に誰が作ったとも知れずに成立したものである。
『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などと同じようなもんだ。
それが日本に入ってきて、訓点をつけて出版されたのは、江戸中期。
日本人が知っている漢詩というのは、そのほとんどが『唐詩選』由来であるから、
漢詩の読み下しというものの歴史は、せいぜい江戸時代までしかさかのぼれないということになる。
その日本版『唐詩選』を出版したのは荻生徂徠の弟子で服部南郭という絵師。
訓点は徂徠に基づくのかもしれん。

で、その訓点にはかなりおかしなものがあると思う。
訓点などは、後世に直すべきものは直し、常に新たに翻訳し直すべきものだと思うのだが、
どうもこの最初に徂徠によってつけられた訓点を後生大事にありがたがっているふうがある。

さて、日本人の漢詩は和臭がして、美しいが吟じ難い、などと言われる。
日本人は会話言葉としての中国語を知らないから、四声や平仄、押韻などが直感的には理解しがたい。
しかし、押韻や平仄などが厳密に守られた詩というのは案外無い、
そんな完璧主義者はあまりいないものであり、
ただそれだけで「難吟」「和臭」などと非難されるのであろうか、という疑問があった。

で、思うのだが、訓点や読み下しがけっこうでたらめなせいで、
日本人はそれに引きずられて、おかしな漢詩を作ってしまうのではなかろうか。
それを元の漢文の「二・二」とか「二・三」とか「二・二・三」というリズムで読もうとしても読めない。
「難吟」という以前に「不能吟」というぺきだ。
俳句が五七五になっておらず、和歌が五七五七七になってないようなものである。

たとえば『大鏡』にも載っている話だが、白居易が

遺愛寺鐘欹聴枕 香炉峰雪撥簾看

と歌った。「遺愛寺」「香炉峰」はそれぞれ固有名詞なので、三字一区切りが自然だが、
しかしこれは、「遺愛」「寺鐘」「欹聴枕」「香炉」「峰雪」「撥簾看」と区切って歌うことが可能。
このような例は他にもちらほらある。「峨眉山月」とか。
だが、菅原道真の

都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲

これは残念ながら、
「都府樓」「纔看」「瓦色」「観音寺」「只聴」「鐘聲」と切って吟じるしかない。
「都府」「樓纔」「看瓦色」「観音」「寺只」「聴鐘聲」とは切りがたいのだ。
かの天神様でもこんな具合であるし、日本人の誰一人としてこの詩が「和臭」である、と指摘した人はいないのではなかろうか。

他にも気になったのは、王維の「酌酒与裴迪(酒を酌みて裴迪に与ふ)」だが、

酌酒与君君自寛  酒を酌みて君に与ふ 君自ら寛うせよ
人情翻覆似波瀾  人情の翻覆 波瀾に似たり
白首相知猶按剣  白首の相知も猶ほ剣を按じ
朱門先達笑弾冠  朱門の先達 弾冠を笑ふ
草色全経細雨湿  草色は全く細雨を経て湿ほひ
花枝欲動春風寒  花枝は動かんと欲して春風寒し
世事浮雲何足問  世事 浮雲 何ぞ問ふに足らん
不如高臥且加餐  如かず 高臥して且つ餐を加へんには

「草色は全く細雨を経て湿ほひ」意味がわからん。
書き下しに従えば「草色」「全経細雨」「湿」となるが、あり得ん。
これは、「草色」「全経」「細雨湿」と切って訳すべきであり、
「草はまっすぐ伸びて細雨に潤い」などという意味ではなかろうか。

そういうことが多い、特に『唐詩選』、こんなのが定着してしまったのが、問題なのではないか。

酒を自制する詩

衆人皆酔且喫煙 衆人皆酔ひ 且つ喫煙す
我独不敢取酒杯 我独り敢へて酒杯を取らず
窃恥病躯不能悦 窃かに恥づ 病躯 悦しむ能はざるを
不得不随医師説 医師の説に随はざるを得ず

確かに五言絶句は漢字二十文字のみで、俳句に匹敵すると言う説もあるが、
ひらがな十七文字と漢字二十文字では密度が違う。読み下してみればわかるが。
五言絶句は和歌よりもやや情報量が多く、都々逸くらいだと思う。
七言絶句にいたっては、和歌二つ分くらいはあるのではないか。

なんとなく自分には七言絶句くらいがあってるように思える。俳句や和歌より若干饒舌で説明的。

ちなみに屈原の詩「挙世皆濁我独清 衆人皆酔我独醒」を微妙に参考にしている。

しかし、google chrome は utf-8 ではないページがときどき文字化けするのが困るなあ。
直す気はないんだろうなあ。
chaika が使えないのも不便だし。
ていうか chaika が自動的に 2ch のページを開かなくなったのは不便。
google 日本語入力も、ときどきイマイチ。

結局未だに firefox + atok というのが無難。この環境って、Windows95 時代から、あまり変わってないのよね(当時はネスケだったのだが)。

まあ、ついでの話だが、私は理系進学クラスだったのだが、
当時の教科書を見ると、高校三年古典IIの漢文までやっている。
三年十組三十二番、と裏表紙に記されている。当時は一クラス、四十人とか四十五人は居たと思う。
そんで、共通一次と言っていたかセンター試験と言っていたか覚えちゃいないが、
国立大学受験は理系だと五教科十科目が当たり前、
国語とは現国・古典(古文+漢文)である。
自分が古典IIをやった記憶がまったくない。
だが、こうして自分が使った教科書が残っているということは、古文も漢文も古典IIまでやったのだろうと思う。
ちなみに、古文の助動詞の活用を暗記したのは確かに高校生の時だったはずだ。これは後々非常に役だった。

で、その高三漢文の教科書を読むと容赦ない。こんなにたくさん勉強したという覚えがないのだ。
理系だったからせいぜい漢文の授業は週一くらいだったに違いない。
こんなにたくさん学べるはずがない。
世界史だってそうだ。だいたい明治維新くらいまであたふたとやって終わりでしょう。
まったくものすごい詰め込み教育だったわけだよなあ。

それに比べりゃ今の受験勉強とかまったく楽だろうなと思う。

有料化

[パブー](http://p.booklog.jp/)に公開している小説だが、一部を残してすべて有料化した。
いや、正確にいえば、スースと超ヒモ理論に関しては、最終話だけを有料化した。
つまり、スースは[スース7](http://p.booklog.jp/book/29283)を、
超ヒモ理論は[超ヒモ理論III](http://p.booklog.jp/book/24254)を、それぞれ有料にした。
棟梁三代記とトゥエンティ・トゥエンティは全体が有料だが前半だけ試し読みとした。

まあ、ほとんどは無料でみれて、最終話を読まなくてもだいたい雰囲気はわかるわけだし、
どうしても結末が知りたい人や、お金を払ってもよいと評価してくれた人が、100円払ってくれればよい。
無料にしても有料にしても、まったく読まれないわけでもなく、ものすごく読まれるわけでもない。
ものすごく読まれて、お金がどんどん儲かるようになるには、今とはまったく別の方法論が必要になるだろう。
まるで見当つかないけどね。

今や完全無料は[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)だけかな。
これは一話完結でごく短いものなので。

無料というのは、ようするに、一種の広告費、広報支出なわけだ。このくらい無料で公開していれば十分だろう。

今のところ、一番読まれているのは[棟梁三代記](http://p.booklog.jp/book/24015)で、その次が[スース](http://p.booklog.jp/book/27144)。
だが、勢いからして、いずれスースが一番になるだろうと思う。

しかし、思うのだが、スースとか超ヒモ理論などはパブーで一から書いたものであり、
棟梁三代記も、オンラインで読んでそれほど違和感はないのだけど、
も少し長い小説をパブーで公開しようとすると、かなりよみづらい。
パブーで長編小説を読むというのはかなり難しい気がする。
やはりキンドルのような専用デバイスがないと、ある程度以上の分量の文章を読むのはきつい、と思う。

こないだ、鈴木みそがパブーに漫画を無料公開していたけど、読むのがかなりめんどう臭かった。
しかしあれが紙媒体なら、じっくり読むことができ、めんどう臭さも大してなかったように思う。
鈴木みそも、パブーのようなオンライン書籍向けに書いたわけではあるまい。
彼の漫画は、特にああいう蘊蓄系のものは、こってりしているので、紙媒体で読むくらいでちょうどよいのだと思う。

逆にさらっと読める程度の漫画ならばパブーにも向いていると思う。

頑張らない

「頑張らない」とか、「頑張れ」というとよけい負担になる、などというのは確かにそのとおりだと思うのだが、
それを10代や20代の若者までいうのはどうかと思う。
30代くらいまでは、わけもわからず、周りも見えず、自分の可能性もわからないのだから、
とにかくがむしゃらに頑張るというのは、アリだと思うのだ。
そうやって突っ走るとだいたい自分がどのくらいできるかがわかる。

しかし、40過ぎると、過去の資産がたまってきて、それを要領よく使い回せば、特に頑張らなくてもなんとかなってしまうし、
また、あまり新しいことばかりあたふた試行錯誤するよりは、いわば枯れた仕事を淡々とこなした方が、
周りにとっても有益だったりする。
ふと立ち止まると、昔に比べてずっと見渡しも見晴らしもよくなっていて、
リソースとか、100%使わなくても、20%くらいでそれなりに仕事できたりする。
その上、40過ぎると無理がきかなくなる。
40というか、45過ぎたら、後は余生だと思って、過去の蓄積をうまくやりくりして、
ある意味のんべんだらりと仕事した方が、自分のためにも周りのためにもなるのではないか。
余った時間はいろいろ今までとは違うことに使えばよい。
ずっと同じことを定年まで続けるなど、むなしくないか。

逆の言い方をすれば、40代くらいまでにそのくらいの過去の蓄積がないと苦しいよなあ。
年金とか積立貯金とか不動産みたいなもんだよなあ。

素朴な疑問

國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

高校の漢文の教科書の最初に出てくる、杜甫の「春望」だが、これは普通次のように訓み、また訳す。

国破れて山河在り 国は崩壊してしまったが、山や河は変わらず、
城春にして草木深し 城内では春が訪れ草木が青く茂っている。
時に感じては花にも涙を濺ぎ 時世の悲しみを感じては花を見ても涙がこぼれおち、
別れを恨んで鳥にも心を驚かす 家族との別れをうらめしく思っては鳥の鳴き声にすら心を痛ませる。
烽火 三月に連なり 幾月が経ってものろし火は消えることはなく、
家書 万金に抵る 家族からの手紙は万金にも値する
白頭掻けば更に短く 白い頭を掻けば掻くほど髪の毛が抜け落ち、
渾て簪に勝えざらんと欲す まったくかんざしを挿せそうにもないほどだ。

「感時花濺涙」の主語は「花」なのではないか。つまり、「花が時に感じて涙を濺ぐ」。
「恨別鳥驚心」の主語は「鳥」ではないのか。つまり、「鳥が別れを恨み、心を驚かす」。

教科書にはいろいろと解説が載っているのだが、上の箇所については何も説明していない。
おそらく、きちんと説明できないからではなかろうか。

「白頭掻けば更に短く」の読みも何か変だ。
「白頭掻」「更短」のように切れるわけがない。
「掻白頭」のように動詞の後に目的語が来るべきだ。
2-3と切れることはあっても、3-2と切れることは、詩の歌い方としてあり得ない。
従って、「白頭」「掻更短」と切れるはずであり、またそのように訳すべきだ、詩なのだから。
「掻更短」は、「掻」が主語、「更」が動詞、「短」が目的語、ということはなかろうか。
「更」を漢和辞典で調べると「更に」という意味の例は少なく、ほとんどは「更める」という意味だ。
直訳すれば、「掻くことは短くする」というような意味ではなかろうか。
「簪」は単なるかんざしではなくて、冠を止めるための留め具のようなものだろう。
「冠を止めるためにかんざしを挿す」という動詞で使われている可能性もある。

それで、「白頭掻更短 渾欲不勝簪」を敢えて訳せば、
「白髪は、掻けば掻くほどに短くなり、まったく冠をかんざしで止めておけなさそうだ。」となる。

英訳を発見した。

Du Fu: A Spring Scene in Wartime (From Classical Chinese)
A Spring Scene in Wartime
By Du Fu
Translated by A.Z. Foreman

The state in pieces, hills and streams endure.
The city’s springtime: grass and vines on rock.
Touched by the times, the flowers spread their tears.
Loathing to leave, the birds bolt up in shock.
The torch of war has filled three months with fire.
One word from home is worth ten tons of gold,
I’ve scratched so much of my grayed hair away
Even my hairpin weighs too much to hold.

ふーむ。やはり、花と鳥を主語で訳しているな。
最後の箇所はしかし、白髪をかきむしったので、かんざしがとまらなくなったと訳している。

いろんな意味で、伝統的な書き下し文で漢文を教えることには限界があるのではないか。

つまり、変な意訳をされてしまうと、鑑賞するだけならおもしろおかしくて良いかもしれんが、
いざ自分で漢詩を作ろうというときに、まるで勘が狂ってしまうというか、一から勉強し直さなきゃいけないと思うのだ。

カフェインとアルコール

どうしても飴をなめるのがやめられない。
思うに、以前は朝起きて夕方までずっとカフェオレかミルクティーを飲んでいて、その後は酒を飲んで寝ていた。
つまり、起きている間中カフェインかアルコールを摂取していたわけだ。
カフェインもアルコールも肝臓で代謝されるわけで、いずれも、肝臓に負担をかける。
その両方を今はやめているから、どうにも落ち着かない、それで飴とかガムを常に求めてしまうのに違いない。

やめられるかなあ、この習慣。

電車でのど飴舐めてる人をみかけたが、良い大人が飴舐めるのは、はたで見ててあまりみっとも良いものじゃあないな。
何で舐めてんのこの人とか思ってしまう。

飲み間違い

こんだけ薬があると飲み忘れたり飲み過ぎたりしてもおかしくないよなとは思ってたが、
腹の上、Tシャツの上にアーチスト錠がひとつ落ちていて焦った。飲んだ。
それから包装を確認すると、一種類だけ同じのが2つあった。ジゴキシンだ。鬱血性心不全の強心剤。おなじの二個飲んでしまった。
うーむ。
気を付けないと。

まず、パッケージを調べ、錠剤を取り出してそれを紙の上かなんかに並べて、こぼれないよう一気に口に入れて、
すかさず水で流し込むと。

代償行為

今日は動悸が不安定なこともなく、血糖値が下がりすぎてくらくらすることもなく、血圧も心拍数もまずまずで、
とにかく平穏無事な一日だった。
こんな具合で体調が安定してくれるとありがたいのだが。
飯をたくさん食うと血糖値が上がって目がぱちりと目覚めるようだ。なにしろ10kgも一気に体重落ちたのだから、
無理に食事制限するのは危険だ。
徐々に徐々に体重を落としていかないと。
家族に以前は手が暖かかったが今は冷たいなどと言われる。
心臓の動きを抑えているせいなのか。
それともそもそも血の中にアルコールがないせいか。
単に体重が減ったせいかもしれん。

どうしても飴をなめたりガムをかんだりしてしまう。
紛れもなく酒を飲めないのでその代償行為を無意識のうちに求めているのだと思う。

『極道めし』など見ると、刑務所では囚人が甘い物や酢昆布など菓子をほしがるというのが出てくる。
大の大人がなぜ菓子を食べたがるのか不思議だったが、
アルコールやカフェインの摂取を禁じられるとその代償として菓子類を食べたくなるのだろう。
菓子は刑務所でもたまに食べられるが、酒やコーヒーなどは禁止されているから、勢い菓子で発散するのではないか。
アルコールやカフェインも広い意味では薬物中毒。
甘い物もそうなのかもしれん。
これらの依存というのは、おそらく、簡単には断ち切れないのだろうなあ。

退院したあと飲み屋にもいくのだが、アルコールが入ってない飲み物は、一杯飲むと飽きてしまう。
酒の場合には、何杯も飲んでいくうちに徐々にアルコールが回っていって気分が変化する。高揚していく。
飲めば飲むほどに坂を上っていく感じ。
たぶん、その変動が楽しいのだ。
しかしアルコールフリーだと、いくら飲んでも自分の気分は一定、なんの変化もない。
だから、もう一杯、さらにもう一杯と飲もうという動機がない。