宣長の初期の歌論書「あしわけをぶね(排蘆小舟)」だが、検索して見ると、一番古いのは人麿
みなといりの葦わけを舟さはりおほみわが思ふ人にあはぬころかな
拾遺集に収録。つまりはまあ、本来は葦がたくさん生えた入り江に入った小舟が、葦を分けながらなかなか前に進めない、或いは目的の港にたどり着けない、というもどかしさを言うもののようだ。歌の意味としては「差し障りがあって思う人に会えないこの頃だな」という程度。
その後、あしわけをぶねが入る歌はずっと下って、後嵯峨院
道あれと難波のことも思へども葦分け小舟すゑぞ通らぬ
これはまあ普通に和歌の道がなかなか進まないということだろう。為藤
澄む月のかげさしそへて入り江漕ぐ葦分け小舟秋風ぞ吹く
同じ江の葦分け小舟押し返しさのみはいかが憂きにこがれむ
漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめさはりたにせぬ
ここらはまあ、普通に叙景の小道具として使われている感じで、為世など、
他にも何例かあるが、草庵集(頓阿)
漕ぎ出づる葦分け小舟などかまたなごりをとめてさはり絶えせぬ
これは、為藤の歌とほとんど同じだな。
波の上の月残らずは難波江の葦分け小舟なほやさはらむ
波の上の月を残して難波江の葦分け小舟漕ぎや別れむ
有明の月よりほかに残しおきて葦分け小舟ともをしぞおもふ
難波江の葦分け小舟しばしだにさはらばなほも月は見てまし
さりともとわたすみのりをたのむかな葦分け小舟さはりあるみに
とまあ同工異曲というか粗製濫造というか、頓阿は他にもたくさん似たような歌を詠んでいるようだ。本歌取りするにもほどがある。題詠+本歌取りで自己完結した知的遊戯に走りすぎる。ここらが確かに二条派の良くないところ。宣長はたぶん頓阿から影響を受けたのだろうな。題名に託した意味としてはたぶん、和歌の道を進む困難さを言いたかった、くらいか。宣長は確かに、為世や頓阿によく似ている。二条派の中の二条派だわな。