思うに、

風邪気味。
薄着で寝冷えしたせい。
三日目くらい。
薬飲む。

庭のバラがわさわさ茂る。
バラは草ではなくて樹木だが、枝は自分を支えるほど強くない。
しかもどんどん密生して互いに絡み合う。
垣根にうまく紐などで結んで形を作ってやらないといけない。
これから、六月頃にちょうど花盛りになるだろう。

浦島太郎のドキュメンタリー番組とか某掲示板のリレー短歌など見てふと思ったのだが、
平安鎌倉ならともかく江戸明治のことくらいなら、
現代人にもわかるはずだと思うのはやはり間違いであり、
現代人は基本的に江戸明治のことはわからない。
わからんのが当たり前、というところから出発しないとどもこもならんのだなと思った。
文語で和歌を詠むということ自体がある種わけのわからんことをしているという自覚が必要だ。

現代における和歌

景樹の言うように、和歌は口語に帰るべきであり、調べは言語によらず世界共通というのであれば、
今や世の中にはフォークもロックも歌謡曲もJPOPもある時代であるから、
和歌がそれらとがちんこで口語と調べで勝負すれば負けるに決まっている。

和歌は歌謡曲ではない。演歌でもない。
そんなものと張り合うのは間違いだ。そういうものに適したメディアではない。
景樹の頃はそういう観点がまだ曖昧だったかもしれんが、現代でもし和歌が口語と調べという、
他の楽曲と同じ土俵で戦えば負けるに決まっている。

そうではないのだ。
和歌は、日本文芸の連続性を保持していることに価値があるのだ。
1500年前から今まで連綿と続いてきた継続性。
これまでの膨大な蓄積。
和歌のほんとうの価値はそこにある。
景樹の歌論では、とても不十分な気がする。
たとえば私が今詠んでいる歌だが、これなど、わざわざ古語を用いて詠んでいるわけだから、
景樹に言わせれば、真淵や実朝のようにわざと古体を模倣して、技巧に走って真情から乖離し、
世の中を欺いている、ということになろう。
真淵が万葉をまねたのと私が文語文法で歌を詠むのは同罪ではないか。
だが、おそらく、私の詠歌で一番近いのは景樹か秋成だと思う。

後水尾天皇

宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」では後水尾に「ごみのお」とルビがふってある。
なるほど、ATOKでは「ごみずのお」でも「ごみのお」でも変換できる。
wikipediaは「ごみずのお」と仮名が振ってある。
どちらも許容されているということかな。
敢えて言わせてもらえば「ごみのお」は音が美しくない。
「ごみずのお(ごみづのを)」の方が無難ではないか。

上述著書だが、基本的には京都の歌人しか紹介してない。
「江戸時代の和歌と歌人」というタイトルにははなはだ疑問を感じる。
橘千蔭もたまたま京都に来て詠んだ歌しか説明してない。
京都の歌人にしても、小沢蘆庵の歌はたったひとつだけ

> うづまさの 深き林を 響き来る 風の音すごき 秋の夕暮れ

これを延々と語っているだけで、要するに蘆庵の歌がどうなのかよくわからん。
秋成との関係でもう少し歌は紹介されてはいるが。
京都のことはとてもくわしい。
しかし、それ以外のことにはほとんど何も触れてない。
京都の歌人にしても、変わった人をたくさん紹介しているが、
非常に偏っていて、網羅しているとは言い難い。
へんてこりんな本だなとしか言いようがない。
京都在住ではない歌人や国学者、
たとえば真淵とか宣長とかその他もろもろの人についての記述や配慮があまりにもなさすぎる。
いや、そもそも「江戸時代の和歌と歌人」というような大風呂敷を広げた割に、
そうはなってない。
もひとつ言わせてもらえば、宣長の歌の解釈が間違っている。
せめて、小林秀雄くらい嫁と。
また、京都の歌人である蘆庵の解釈にもかなりおかしなところがある。
蘆庵が住んだ太秦の寺は狭いどころではなく、薪を集めてもあまりすぎるくらい広大な寺だった。
そんなことはちょっと詞書きを読めばわかる程度のことなのだ。

> 太秦にすみつきたるはじめ、従者も二三人侍りけるが、いと広く荒れたる寺の秋になりてものさびしく・・・

> 思ひやれ嵐を待たぬ落ち葉さへけふのたきぎにあまるすみかを

ランチ

昨日は駅前のリンガーハットでラーメン・餃子ランチを食べた。
690円。
久しぶりに食べて満足。
今日は居酒屋の昼定食を食べてみたのだが、これはもう量が多いというだけで、
飯も茶も漬け物もおかずもとにかくまずい。
ひどい目にあった。
食べきれなくて残した。
外食もどうかなと思った。

いい加減金がなくなってきて某茄子までもつか心配なので(というか余裕でもたないとおかしいわけだが)、
超緊縮財政に移行しなくては。そうだな、夜飲みに行くのは週に一回のみとか。
ぎりぎり、週二とか。
まずは、月曜日から外飲みする習慣をやめよう。

真淵と景樹

引き続き宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」。

真淵の歌

> 大比叡や小比叡の雲の巡り来て夕立すなり粟津野の原

に対して景樹の歌

> 大比叡や小比叡の奥のさざなみの比良の高根ぞ霞そめたる

を挙げて、「この二首を比較しても、景樹の才気は十分窺いうる」などと言っている。
景樹の方が優れている、とまでは言ってないが、良い歌だと言っているわけだ。
どうもこの著者は、例の挙げ方がおかしい気がしてしかたない。

まず真淵の歌だが、「粟津野」はただの地名ではない。古戦場である。
おそらくかつて木曽義仲が討ち死にした近江の粟津野に真淵が実際に訪れており、
天気はだいたい西から東へと変わっていくものだから、西の比叡山の方から雲がやってきて、夕立になったという、
近江盆地の雄大な情景を詠んだものであり、
わざわざ古戦場辺りを探しあてて、平家物語か何かの義仲の最期をしのびながら詠んだものに違いなく、
真淵の作のなかでもなかなかの秀歌だと言って良いと思う。
「粟津野」をわざわざ「粟津野の原」と言っているのは「武蔵野の原」という東国風の言い回しをイメージさせる。

一方で景樹の歌だが、これは京都側からあるいは琵琶湖側から眺めた景色だか判然としない。
だがおそらくは著者の言うように京都側から見て、比叡山のさらに奥の近江の国の(さざなみは志賀の枕言葉)
比良連峰に霞がかかり始めた、と言っているのだろう。
悪くもないが特に良くもない。通俗的な印象すら受ける。
そもそもそれだけの遠景となると普通にかすんで見えるものではあるまいか。

小堀遠州、長嘯子、烏丸光広

引き続き宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」。
小堀遠州の

> 風冴えて寄せ来る波の跡もなし氷る入り江の冬の夜の月

を紹介しているが、これは定家の

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

などの単なる模倣であって別段大した歌ではない。
他にもいくつか紹介されているが、大したものもないし、
残っている歌もごくわずかで、なぜわざわざこの人を紹介しなくてはならなかったがはなはだ疑問だ。
と思ったら、最後に

> ・・・そのような人物であるがゆえに、あえて一文を草したのである。

などと書いている。

木下長嘯子が中秋の名月、八月十五日の前夜に詠んだ歌

> あくる夜の月をこよひの庭に見る命も知らずくもりもやせむ

を、烏丸光広が

> 名にし負ふ月はこよひに出でて見る身は浮き雲の定めなき世に

と直しているのだが、長嘯子の歌が、いかにも無骨な武士らしい歌なのに対して、
烏丸光広の歌は肝心要めの「命も知らず」を取り除いてしまい、
まったく何のインパクトもない、意味も通りにくい、というより、何を言っているのかさっぱりわからない歌にしてしまっている。
しかもこれを「堂上歌人の歌の技巧のうまさ」の一例としてあげているらしいのが、
まったく了解しがたいのである。

しかしまあこの著者の宗政五十緒という人は京都で大学の名誉教授までした人なので、
江戸時代の歌人のいろんな話題を良く知っているなあと思う。
実にうらやましい限りだ。

江戸時代の和歌と歌人

宗政五十緒「江戸時代の和歌と歌人」を読む。
やや古い本で、著者自身はすでになくなっている。
きわめて興味深い本ではある。しかし、いろいろな短編のエッセイを集めて大学の助成金で出版したものであって、
いわば一種の珍本のたぐいで、
まったく予備知識のない人が江戸期の歌人について学ぼうと思ってこの本を読むとめんくらい、ひっくりかえるだろう。
江戸期の和歌史というのであればまず細川幽斉や後水尾天皇から始めて、
古今伝授がどうしたこうしたとか、真淵が出て万葉調がとか、
そういう流れになろうかと思うのだが、細川幽斉や後水尾天皇については名前が出てくるだけで歌の紹介などはほとんどなく、
松永貞徳の説明はあるが歌はひとつも紹介されていない。

冒頭に紹介される歌が後西院(後水尾天皇の第八皇子)で後水尾院から古今伝授されているのだが、
その歌というのが、

> 咲かばまづここにをき鳴けうぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ

をきは「招き」だが、万葉時代の古代語であり、ちょっとわかりにくい。
そもそも「招き鳴け」とは変な言い方だ。
「うぐひすの根こじて植ゑし梅にやはあらぬ」も何のことやらさっぱりわからない。
「うぐいすが根から堀り取って植えた梅ではないのか」とはどういう意味か。
というかそれ以外に解釈しようがないではないか。
これが本歌取りでもとの歌は拾遺集の

> いにし年根こじて植ゑし我が宿の若木の梅は花咲きにけり

だというが、こちらはすっきりすんなり理解可能だ。
どうしてこんなへんてこな歌を紹介しなくてはならなかったのだろうか。
なんかいろいろとちぐはぐな印象を受ける。

一方、森河章尹(あきただ)の歌

> 露の身を送るばかりと聞きしかど草の庵にも月はすみけり

涌蓮(ようれん)の返し

> 草の戸に月すめばこそ露の身のかかる嵐も耐へて住まるれ

などはなかなか面白い。

さらに

> 近世和歌を言うならば、私は前期の第一の人は後水尾院であり、後期の第一人者は香川景樹であると評価するものである。
だから、近世和歌史はこの両者の線を基線にして記述されるべきである、と私は考える。
後水尾院、景樹、ともに人々のよく知るところである。
敢えて、この二人の和歌に言及せずして近世和歌の世界を述べてみたわけである。

などと言っている。
これは「短歌研究」というものに初出の「近代和歌の展開」という文章らしいのだが、
単行本にまとめるにあたっていきなりこんなことをもち出すとはどういう読者を想定しているのかと、
雑文のただの寄せ集めであることの言い訳に過ぎないのではないかと言いたくもなる。

霊元院の歌

> 梓弓やしまの外の波風ものどかなる世の春やいたらむ

> 袖の香を家づとにせむ道の辺の垣根の梅は折るべくもなし

> 山水の一つ流れをいく町にすゑせき分くるしづが苗代

> 夏もはやなかばは過ぎぬさみだれの晴れぬ日かずを数へこし間に

> おのがためつれなき妻を有明の月にたぐへて鹿や鳴くらむ

> 消えなばと拾はで見るも笹の葉のうへにたまらぬ玉あられかな

> 都にはまだ降りそめぬ雪をけさ山の端白く見てぞおどろく

> 風に伏し霜にしほれて池水のみぎはに枯れぬ芦の葉もなし

> つたひ来る流れも細き岩間よりこほりにけらし山河の水

> にひまくらかはす言葉も年月の思ひのほどをいかが尽くさむ

> おどろかす一筆もがなあひ見しは夢かとたどる今朝のまた寝に

> ひとたびはあひ見し人の忘るばかりにまたぞつれなき

> ひととせのしわざいとなき民や住む田づらに見えてつづくいほりは

油谷倭文子の歌

> 雪深き谷の古巣のうぐひすはまだ春としも知らずやあるらむ

> 春風は吹きそめにけりつくばねのしづくの田居や氷とくらむ

> 花の色に心も染めぬうなゐ子の昔よりこの春は待たれし

> 雪深きかきほの梅もうぐひすの声聞くときぞにほひまされる

> いつしかも行きて見てしがみよし野のよしのの山の花の盛りを

> 昔より神も諫めぬわざならし花に浮かるる春の心は

> 玉と思ふ露はくだけしはちすばにまたこそけさはあざむかれけれ

> 月見ればおふけなくしもなりぬかな知らぬ千里も思ひやられて

> 山里のもみぢの色を見ぬ人は秋に心を染めずやあるらむ

> よひよひに涙はゆるすをりもあるをやるかたなきぞ心なりける

> 来じと言はば来む夜もありと待たましを来むと頼めて来しやいつなる

> 思ふなる心に数はなきものをなほこそ待ためみとせ過ぐとも

> 一夜経(ふ)と言へばたやすしきのふけふおぼつかなさの数ぞやは知る

> 末いかにちりやかさねむ手枕のにひしきほどにふた夜来ぬ君

祇園梶子の歌

> しづのめが降り立つ小田の水かがみ見るひまもなく取る早苗かな

> 雪ならばとひこし人のあとも見む木の葉に埋む庭の通ひ路

> 契りしは昔なりけり思ひ寝の夢には絶えぬ人の面影

> つらくのみ過ぎこし方を忍べとや憂きひとり寝に立てる面影

> 雪ならばこずゑにとめて明日や見む夜のあられの音のみにして

よみ人しらず

> あはぬ間にいかに恨みの多かりきこよひは何を語りあかさむ

かへし

> よしさらばくらべかこたむあはぬ間の恨みの数はいづれまさると

> あふことを夢なりけりと思ふにもさめしうつつぞ苦しかりける

> 契りあれば夢にもあふと思ふにぞさめしうつつのたのみなりける

> もえわたる沢の蛍を憂き人に見せばや身にも余る思ひと

> こひこひてまた一とせも暮れにけり涙の氷あすやとけなむ

最後の歌は14才(満で12か13才)の時の歌というから、なんとも早熟だ。