本居宣長続き

> 春の野の岡辺の道のつつじ花手折りて行かなたびのなぐさに

> 里しあらば宿借らましをあしびきの山路まどひて行き暮れにけり

> あまざかるひなのあら野のあら草を枕にまきて旅寝す我は

> あしびきの山松が根に旅寝してあらし吹く夜は家をしぞ思ふ

> 草枕たびと思へど浪の音のとよむ浜べはいねがてぬかも

> ぬばたまの夜は明けぬらし磯の海人のあご整ふる呼び声聞こゆ

「あご」は「網子」(あみこ)。網を引く人。「大宮のうちまで聞こゆ網引(あび)きすと網子ととのふる海人の呼び声」(万葉集238)。

> 我が旅は日長くなりぬあらたまの月日よみつつ妹待たまくに

> 草枕たびの日長み家の妹が縫ひて着せたるきぬ垢つきぬ

> うちなびく草香の山をけふこえて難波の海を見さけつるかも

> 波の上にうき寝我がする明石潟浦吹く風の寒きこの夜を

> 豊国の夕山雪の日長くは家なる妹が待ちやかねまし

> 春の雨の晴れてといはば散りぬべしけふ見に行かな山の桜は

> 近からば吉野の山の桜花きのふもけふも行きて見ましを

> いかならむ吉野の山もこの頃や桜の花の盛りなるらむ

> 朝日かげにほへる山の桜花千代とことはに見ども飽かめや

> 思ふどちいざ見に行かな春山に咲ける桜の花の盛りを

> 立ち出でてふりさけ見ればあしびきの山は桜の花盛りなり

> みやびをの春のかざしと桜花野にも山にも咲きにけるかな

> あらたまの春立ちしよりいつしかと待ちし桜の花咲きにけり

> 山づとに見せむと思ひて桜花道の長手を手折り持ち来ぬ

> おのづから人ぞ訪ひ来る山里も春は桜の花見がてらに

迷い、悟りと言ふことをことごとしく人の言ふに

> 悟るべき事も無き世を悟らむと思ふ心ぞ迷ひなりける

わろす。

述懐

> いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて

> 思ひ出づる三十の春も三十とせのかすみ隔たる花のおもかげ

山家水

> 世の中の憂きこと聞かぬ住まひかなただ山水の音ばかりして

> 明け暮れに汲むとはすれど谷水になほすみ果てぬ我が心かな

山家松

> 軒の松むかしの友と言ふばかり我が山住みの年も経にけり

山家

> 厭ひてもものの寂しき夕暮れは憂き世恋しき山の奥かな

> ある時はありのすさびの世の憂さもまたしのばるる山の奥かな

ふみよめば

本居宣長は本が好きという話。

> 書読めば大和もろこし昔今よろづのことを知るぞうれしき

> 書読めば詳しくぞ知る天の下行かぬ国々四方の海山

> 書読めば見ぬもろこしの国までも心のうちのものになりつつ

> 書読めば昔の人はなかりけりみな今もある我が友にして

> 書読めば千里のよそのことまでもただここにして目に見るごとし

> 書読めば花も紅葉も月雪もいつとも分かず見るここちして

> 書読めば心にもののかなはぬも憂き世のさがと思ひ晴るけつ

> 書読めば絶えて寂しきことぞなき人も問ひ来ず酒も飲まねど

ふーむ。

> 酒飲みて歌ひ舞ひつつ遊ぶより書読むこそは世に楽しけれ

ふーむ。

> 書読までなににつれづれなぐさまむ春雨の頃秋の長き夜

> 暑けれど書読むほどは忘られて夏も扇は取らむともせず

ふーむ。

> 埋み火のもとに夜々起きゐつつ寒さ忘れて見る書ぞ良き

ふーむ。

> 跡絶えて深く降り積む冬の日も書見る道は雪もさはらず

おっしゃる通り。

> なづむなよ書見る道に朝霜の解けぬ所はさても過ぎ行け

> 書見るにけはしき道は避きて行けまたき心の馬疲らすな

> 面白き山川見つつ行けばかも書見る道は苦しくもあらず

> もろもろの書見る道は夜昼と千里行けども足も疲れず

> 寝るうちも道行くほども書読まで過ぐるぞ惜しきあたらいとまを

ずいぶんせっかちだな。

> 菅の根の長き春日も短きぞ書読む人の憂ひなりける

> 面白き書読むときは寝ることももの食ふこともげに忘れけり

> 玉の緒の長くもがなや世の中にありとある書を読み尽くすまで

ふーん。

歌人本居宣長

歳暮

> かくばかり住み良き山の奥にだに年は止まらで暮れてゆくらむ

> 隠れ家はいつも心の静かにて年の暮れとも思はれぬかな

> 世のわざに心騒がぬ隠れ家は年の暮れとていとなみもなし

> ふりまさる老いのしるしかこぞよりも今年は惜しき年の暮れかな

> いたづらに月よ花よと明け暮れて暮れ行く年のほどもはかなし

> よそに聞く年のおはりのいとなみに人もとひ来ぬ宿のさびしさ

> いたづらに雪をもめでし年の暮れこれぞ積もらば老いとなるべき

今年三十五歳也

> 年暮れて過ぎし半ばのほどなさを思へば近き七十の春

35才の年の暮れに70才は近いなどと言うのはどうしたことか。

山家雪

> 人待ちし心も消えて山里は道もなきほどつもるしら雪

> 都にもけふは積もらむ山里は軒端をかけて埋む白雪

> 問はるべき道絶えはてし白雪に春のみをまつ山の下庵

しみじみとした良い歌ではないか。
比べるのは気の毒だが勝海舟よりは数倍良い。
式子内親王の歌だと言っても間違う人はいるだろう。
宣長の歌を批判する人に試してみたいものだ。

> 四十あまり五ツの年もはや暮れてけふはむつきとなりにけるかも

これは(笑)。
しかし46才(数えで)の本居宣長の新年が目に浮かぶようだ。
その翌年の新年:

> あらたまる心の春ののどけさよふりし頭の雪もけぬべし

白髪を気にしているようだ。

> いほりしてもる田の稲も色づきぬ今いくかあらば刈らむとすらむ

なかなか良い。
明治天皇の歌にも似るが、やはりどこかひと味違う。

年の暮れに詠める:

> 何くれと春のいそぎにまぎれては惜しむ間もなく年ぞ暮れゆく

> ちりぢりに夕暮れ帰る市人のわかれをけふは年のわかれ路

秋夕

> 賑はへる里のけぶりもなかなかによそめはさびし秋の夕暮れ

寄塵述懐

> 思ひたつことはたゆまじちりひぢも積もれば山のかひもある世に

漁火連浪

> 海人の住む里近しとはしらなみの夜さへ見ゆる漁り火のかげ

さくら

> さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

> 世の中はやよひながらに年を経ていつもさくらの盛りともがな

> いかばかり憂き世なりとも桜花咲きて散らずばものは思はじ

> ひたすらにたれ憂きものと歎くらむ春は桜の花も見る世を

> うぐひすのこゑ聞きそむるあしたより待たるるものはさくらなりけり

> 山里の人のたよりもはつ花を待つに待たるるきさらぎのころ

> 待ち侘びて咲かぬ日頃を恨むかないつとは花の契らざりしを

> 春風よ心にまかす花ならば咲かぬ桜もはや誘はなむ

> 桜花たづねて深く入る山のかひありげなる雲の色かな

これは良い。

> 咲かぬ間の思ひ寝に見しならひにはこれも夢かとたどる初花

> 散ることもまづやとかつは歎くかなときがうれしき初桜花

> 帰らばや高嶺の桜飽かねどもふもとの花も暮れ果てぬ間に

これも良い。

> 夜もなほ夢路にだにと見しけふの花染め衣かへしてぞ寝る

> なかなかに月も無き夜は桜ばな定かにぞ見る思ひ寝の夢

月が無い夜は花を夢に定かに見る、という意味。

> 吹くも憂し吹かねば月の霞む夜を思ひわづらふ花の春風

> 照りもせぬ春の月夜の山桜花のおぼろぞしくものもなき

> 咲き続くさくらの中に花ならぬ松めづらしきみよし野の山

> いくへともしら雲ふかき吉野山おくある花も咲きやしぬらむ

> たぐひなき花とはかねて聞きしかどさらに驚くみ吉野の山

どんだけすごいのかと。

> 見わたせば花よりほかの色も無し桜に埋むみ吉野の山

> いづれかを花とは分けてながめましなべて桜のみ吉野の山

> 暮れぬともなほ分け見ばや山桜月夜よし野の花の盛りは

> ほどもなし花散るまでは吉野山捨てぬ憂き世も捨ててこそ見め

> 咲く花に絶えてあらしの吹かぬ間ぞ春の心はのどけかりける

> 散るこそは盛りなりけれ山ざくら空吹く風も花になりつつ

> 墨筆も紙も昔のそれならで変はらむ友は硯なりけり

そりゃそうだわな。

中野重治

> おまえは歌うな

> おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな

> 風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな

> すべてのひよわなもの

> すべてのうそうそとしたもの

> すべてのものうげなものを撥き去れ

> すべての風情を擯斥せよ

> もつぱら正直のところを

> 腹の足しになるところを

> 胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え

> たたかれることによつて弾ねかえる歌を

> 恥辱の底から勇気を汲みくる歌を

> それらの歌々を

> 咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌いあげよ

> それらの歌々を

> 行く行く人びとの胸廓にたたきこめ

知ってる。
詠んだことあるよこの詩。
悪い詩じゃないよ。
まあ良いんだよそういう、プロレタリア文学というものがあって、
マルクス主義者で共産党な詩人がいるのは。
しかし、中野重治に本居宣長を批判させてそれを解題に載せるというのはかなり悪意を感じないか。
公平な態度とは言えない。

宣長の辞世の歌

山室の山の上に墓どころを定めて、かねてしるしを立ておくとて
山むろに 千とせの春の 宿しめて 風に知られぬ 春をこそ見め
今よりは はかなき身とは 嘆かじよ 千代のすみかを 求め得つれば

宣長は遺言で葬式のやり方をことこまかに指示し、かつ自分の墓所も自分で決めた。 そのときに詠んだ歌で、自分の墓で千とせの春の花を眺めていたい、 みたいな、何か無邪気な歌であり、特に学問とか思想が込められたものではない。

黄泉の国 思へばなどか 憂しとても あたらこの世を 厭ひ捨つべき

死後の世界はとても気持ちの悪いものだから、 もったいなくて簡単にこの世を嫌って逃れることはできない、という意味。

死ねばみな 黄泉に行くとは 知らずして ほとけの国を ねがふおろかさ

「死ねば」でなく「死なば」でないかと思うのだが・・・。 宣長は古事記に書かれたように人はみな死ねばけがれた、暗い黄泉の国に行くと信じていた。 極楽浄土に往生するという仏教の教えを信じてはおらず、そういうものを願うのは愚かだと考えていた。

聖人は しこのしこ人 いつはりて 良き人さびす しこのしこ人

聖人というのは嘘をついて良い人をけなす醜い人だ、と言っている。 「さびす」はやや訳しにくい。

聖人と 人は言へども 聖人の たぐひならめ や孔子はよき人

孔子は聖人と言われているが聖人のたぐいではなく、良い人だ、と言っている。 つまり、儒教や仏教などで言われている聖人は嘘つきで良い人を悪く言う醜い人たちばかりだが、孔子だけは良いと言っている。

坂本は文字がありません。

巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について

坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。

坂本は、柔術を知らないものですから、

坂本は、文字がありません。

などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。

ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。

龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。

wikipedia に

平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」

とあるのも同じか。

勝海舟の歌:

天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり

なんとも言えない歌だな。

勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:

眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ

玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ

移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり

身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ

「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。

本居宣長

筑摩書房の「本居宣長全集」第2,15,18巻、それと小林秀雄「本居宣長」を借りてくる。
全集の解題は大久保正という人が書いているが、
中野重治が

> あんなおかしな歌を何年も何年もこりずに書いたような精神のある面が、その面は詩には無関係のものだったが、とにかく、宣長の学者としての仕事を支えていたのだと思う。

だとか、大久保氏自身も

> 宣長の和歌は今日すでに文学の化石となっている

> 彼の夥しい作中から強いて秀作を拾おうとする試みは、ここでは、それほど意味があるとも思われない

> 宣長の詠風が十年一日の如くで、極めて変化に乏しかった

などとぼろくそと言って良いほどにけなしている。

小林秀雄も

> その歌の内容を問うよりも

などと暗に歌そのものとしての評価を避けようとしている。

本居宣長は自画像も描いているのだが、確かに平凡な絵ではある。
同じことは歌にも言えるのだろうとは思う。
また遺言書に自分の墓の絵まで描いて事細かに指示してあるのはやはり何か異様なものを感じる。

その歌というのが一万首近くもあって、多くの人にとってはそれは過ぎ去った過去の学者の習作か詠草であって、
詩的な、今日的な価値はない、と言いたいのだろう。

しかし、本居宣長の歌でおもしろいものはかなり多い。
少なくとも宣長よりも下手な歌詠みはたくさんいる。
なぜみんな宣長の歌をほめようとしないかというとただ単に戦後民主主義的な雰囲気が妨げているだけではないかとさえ思える。
宣長が、ことあるごとに「やまと」「こま」「もろこし」などを歌に詠みたがるのが煙たいのだろう。
国学として、歌論としてそういうことを言っている分には良いとして歌に詠まれるのが憎らしくはがゆいのではないか。

> めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり

> 忘るなよわがおいらくの春までも若木の桜うゑし契りを

> この花になぞや心のまどふらむわれは桜の親ならなくに

> 桜花ふかき色とも見えなくにちしほに染めるわが心かな

> さし出づるこの日の本のひかりよりこまもろこしも春を知るらむ

小野小町を詠める:

> 今もなほながめせしまのおもかげは露けき花に見るここちして

紫式部を詠める:

> 言の葉に染めずばいかでむらさきのふかき心の色は見るべき

> 言の葉はたぐひなき名の立田姫いかに染めける錦なるらむ

確かに秀歌というかどうかはともかくおもしろい歌は多い。

> 待ちわぶる桜の花は思ひ寝の夢路よりまず咲きそめにけり

> のどかなるあたら春日を花も見で咲くを待ちつついくか経ぬらむ

「のどかな春の日を、花も見ずに過ごすのはもったいない、もう何日花の咲くのを待ちながら日が経っただろうか」、
という実に素直な歌だ。

> 朝な朝な庭のもみぢの色見れば賤き心のはづかしきまで

> いくばくもあらぬさくらの花ざかり雨な降りそね風な吹きそね

これはわざとこういうふうに詠んだのだと思うよ。
なかなか味があるじゃないか。どうよ。
宣長は学者だったから、素人が歌を詠む手本になるよう、
わざと教科書的な歌をを詠んだと思う。同じことは明治天皇にも言える。
自分で歌を詠もうと思ったときにこれほどたくさんサンプルがあると便利。

つまり、本居宣長とか明治天皇の歌というのは、純粋なミネラルウォーターのようなもので、
本人が詠んだことが確実で、文法的にも間違いがなく、かつ量が多い。
初学者がそのまま何の疑いもなく学ぶことができる。
こういう純度の高い歌集は勅撰集以来そうざらにはなかったものである。

ところが江戸時代の武士の歌などは個々の歌人のものはサンプル数も少ないし、
真作と偽作が混ざり合い、
文法もいい加減で、
見た目はとっかかりよさそうに見えて、
これらを手本にして和歌を学ぶなどということは不可能であり、
できは良くても狂歌や戯れ歌などであったり、
むしろ玄人が慎重により分けないとまともに鑑賞することすらできない、というわけだ。
だから私は、宣長の一万首の歌は今日的にも非常に価値が高く、
宣長の著述の中でけっして軽んじることのできない部分だと思う。

四方の海

ふと気になって明治天皇御製で「四方の海」を検索して見たのだが、かなりある。
実際にはおそらくこの数倍はあるだろう。

> 池水のうへにもしるし四方の海なみしづかなる年のはじめは (明治20年)

> 四方の海なみをさまりてこの春は心のどかに花を見るかな (明治29年)

> いくさぶねつどふもうれし四方の海なみしづかなる世のまもりにと (明治33年)

> まじはりのひろくなりゆく四方の海は波たつ風のおともきこえず (明治34年)

> 外つ国のふねもつどへり四方の海なみしづかなるとしのはじめに (明治36年)

> 仇波のしづまりはてゝ四方のうみのどかにならむ世をいのるかな (明治37年)

> おほづつの響きはたえて四方の海よろこびの声いつかきこえむ (明治37年)

> 四方の海みなはらからと思ふ世になど波風はたちさわぐらむ (明治37年)

> 四方の海なみしづまりてちはやぶる神のみいつぞかがやきにける (明治38年)

> 波風もしづまりはてて四方の海に年のほぎごといひかはしつつ (明治39年)

> 四方の海なみしづかなる時にだになほ思ふことある世なりけり (明治39年)

> 波風はしづまりはてて四方の海に照りこそわたれ天つ日のかげ (明治39年)

明治29年のは日清戦争が終わったことを言っている。
一番有名なのは明治37年の「四方の海みなはらからと思ふ世に」であろうと思う。
さらにこれらには本歌がある。

> 四方の海なみをさまりてのどかなる我が日の本に春は来にけり

亀山天皇が元寇の後に読んだ歌。「弘安百首」に採られている。
また、

> 四つの海波もをさまるしるしとて三つの宝を身にぞつたふる

後村上天皇。こちらは新葉和歌集に採られている。
もっと遡ると「後鳥羽院御集」に

> ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

がある。
うーむ。
谷知子「天皇たちの和歌」を読みつつ。
なるほど、ここで「日吉」とは比叡山の東の麓にある、滋賀大津の日吉大社のこと。
同時に詠まれた「正治二年初度百首」中の御製では、伊勢神宮、石清水八幡宮、住吉大社、春日大社も詠まれていて、
要するに近畿の主要な社を詠んでいる:

> 万代の末もはるかに見ゆるかな御裳濯川の春の曙

> 石清水絶えぬ流れの夏の月たもとの影も昔おぼえて

> 三笠山峰の小松にしるきかな千とせの秋の末ははるかに

> 冬くれば四方の梢はさびしきに千代をあらはす住吉の松

御裳濯川(みもすそがわ)は五十鈴川の別名。
で、こうして並べてみると、「四方の海」以外の歌にはそれぞれ春夏秋冬が詠み込まれている。
こうしてみると「四方の海」の歌は正月に当たって四方の神々を遙拝する「四方拝」を意味しているのだろうと言うことがわかる。
なんとも見事だ。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。
千人といっても、
江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

> 三度炊く米さへこはし柔らかし思ふままにはならぬ世の中

式亭三馬:

> 善もせず悪も作らず死ぬる身は地蔵もほめず閻魔叱らず

蜀山人:

> 生きすぎて七十五年食ひつぶしかぎりしられぬあめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

> 暑くなく寒くなくまた飢ゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

> 酒も飲み浮かれ女も見つ文もみつ家も興して世にうらみなし

のんきだな。
とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

> 思ひきや野田の案山子のあづさ弓引きも放たで朽ちはつるとは

宮本大平:

> えびす船打ちもはらはで白雪のふり行く老いの身ぞあはれなる