諫める

漢字の「諫」には、目上の人に直言して悪事をやめさせる、という意味しかないのだが、
やまとことばの「いさむ」には、たとえば

> たらちねの親のいさむるうたたねはもの思ふときのわざにぞありける (伊勢) または「おやのいさめし」

> たらちねのいさめしものをつれづれとながむるをだにとふひともなし (和泉式部)

> たらちねの親のいさめの絶えしより花にながめの春ぞ経にける (九条道家)

> 無き影の親のいさめは背きにき子を思ふ道の心弱さに (藤原定家)

> うたたねの夢にもうとくなりにけり親のいさめの昔語りは (? 続拾遺集)

> 別れをば一夜の夢と見しかども親のいさめぞ絶えて久しき (? 続拾遺集)

> 伝へおく言の葉にこそ残りけれ親のいさめし道柴の露 (? 新後撰集)

親が子をいさめたり、

> 恋ひしくは来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに (在原業平)

> 今ぞ知る神のいさむる道ならぬ世々の契りのふかきまことを (正徹)

神がいさめたり、

> もみぢ葉をおのがものとも見てしがな見るにいさむる人はなけれど (源重之)

> いかで世にあらじと思へどありぞふる誰かいさむるものならなくに (能因法師)

誰かにいさめられたり、

> 大空に照るひの色をいさめても天の下には誰か住むべき (女蔵人内匠)

小うるさい人にいさめられたり、

> 世の中を厭へと人のいさめしは吉野の里の花を見むみむため (宗良親王)

坊さんにいさめられたりも、

> 折る人をわきていさめむ九重のみ橋の花に風は吹くとも (二条為藤)

いさめたりする。
親が諫めるというのは、ぼーっとながめていたりうたたねしていたり、
つまり何もせず無為に過ごしていてはいけませんよとしかられるということだろう。
神が諫めるとはつまり神域の禁忌などのことだろう。
車から緋色の裾が垂れていると、はしたないと見とがめていさめる人もいるということか。

要するにやまとことばの用例では、
子が親を諫めるなどというよりは、
親が子をしつけたり戒めたり、他人にみとがめられたりする場合に言うことが多い、ということだわな。

わが里の雪

> たまぼこのみちのく蝦夷はいかならむえこそ積もらねわが里の雪

どうよ。

> うれしやとおもへばやがてやみにけるたのみかひなきわが宿の雪

いまいち。

> みささぎに ふるはるのゆき / えだすきて あかるき木々に / つもるとも えせぬけはひは

伊東静雄はやはりすばらしい。

定家はダダ

和泉書院の「和歌史」を読んでいるのだが、
その中の佐藤恒雄「新古今の時代」など読むと、
確かに定家に秀歌が多いと言われればそうかもしれないなと思えてくる。
たとえば定家の恋の歌

> あぢきなくつらきあらしの声もうしなど夕暮れに待ちならひけむ

> かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらのありあけの月

> なびかじなあまのもしほ火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも

などは確かに面白いが、しかしこれらはいわゆる定家らしいといわれる歌ではなく、
どちらかといえば新古今以前の女流歌人らの歌のようだ。
また藤原家隆の

> 思ふどちそこともしらず行きくれぬ花の宿かせ野辺のうぐひす

などは若者たちが花咲くころの野辺をさまよい歩いて迷子になったので、
鴬の鳴く花の木の下にでも野宿しようかというたわいないもので、
普通に面白い。
定家らしいと言われるのはたとえば初学百首にすでに出てくる

> 天の原思へばかはる色もなし秋こそ月の光なりけれ

あるいは新古今に採られた

> さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫

> 春の夜の夢の浮き橋とだえして峯にわかるる横雲の空

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

> 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

などだろう。
不協和なイメージがコラージュされているので心理的な抵抗が大きい。
特に「さむしろ」に「月をかたしく」「宇治の橋姫」などは近現代で言えば中原中也のダダの詩を連想させる。
なにか具体的な情景を連想させ感動させるというのでない。
こういう「前衛」的な「作品」は近現代では珍しくないのだが、
新古今の時代でもおそらくそれを敢えて意図してやったのは定家だけであり、
前衛芸術の走りとしてはかなり貴重な存在なのかもしれないとは思う。

思うにこんなおかしな「活動」に定家がふけっていたのは、若かりし日の、
新古今編纂当時の一時期だけであり、また定家以外の歌人で同程度はじけていた人もなく、
その後も現れなかったのだと思う。

私が定家の歌を好きか嫌いかというとどちらでもない。
中原中也の詩が好きかと言われて別にすきでもないのと同じだ。
本居宣長も新古今風の歌を好むが定家の前衛的な歌が好きなわけでなく、
定家からさらに時代を経たある意味平坦で平凡な歌が好きなので、
そこには特に意識はしてないかもしれないが、新古今時代にはなばなしく行われた実験に対する反省のようなものもあっただろう。

定家の前衛活動に一応の公認を与え、世間一般に受容されるに至ったのは後鳥羽院が定家を積極的に評価したからだったわけだが、
後鳥羽院も定家を特に重んじたのではなく、当時流行した前衛歌をおもしろがって新古今集に取り入れたというようなものだっただろう。
たとえば

> ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

など見てもわかるが、後鳥羽院御製の中に前衛やダダを思わせるような歌は一つも見あたらない。
よく探せば詠草に一つか二つはあるのかもしれないが。
というあたりが後鳥羽院と定家の関係の、さらに言えば新古今というものの位置づけなのではないか。

代々木の園

なぜか明治神宮に行ってきた。

> 降ればなほ行きて見まほし春雨に代々木の園は青みたるかと

> みそのふに春雨ふれば人を無みひとりしめ野にあるここちする

正直に言えばここまでは「心象風景」。
わりに人はいた。
しかもふしぎと女が多い。
最近、[明治神宮内の「清正井」がブーム](http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100207-00000500-san-soci)らしく、
宝物殿などはいつも閑散としているのに、そこから流れてくるのか、
にわか歴女たちが「大正天皇ってダンディー」とか言いながら群れているのが、何かいらだたしいやらにがにがしいやら。
テレビ見たくらいでほいほい沸いてくるなよと思いつつ。

> 春雨のふれる宮路を踏みゆけばしめりてきしむさざれ石かな

> などか知る虎を狩りたるきよまさの名にしおふ井戸に人の寄り来る

で、よく見ると雨の中にも視界に人影が一人二人と入ってくる。
同じ場所にずっと立ち続ける女性とか、一人で気功やってる男性とか。
写真撮ってるひと、地面に穴掘る人とかいろんな人がいる。

占いやってる人ってものすごい勢いでしゃべりたがるよね。
いや、しゃべりたがっているのではなくてそういう仕事なのかもしれんが。
女性だとわざと化粧をしなかったり。
すっぴんでも大丈夫なんですパワーとか。
心霊スポットならずパワースポットとか。
そういう人たちが明治神宮に集結しだしたらどうしようとか杞憂だろうか。

なんか明治神宮創建当初全国から集められた植樹は、当時の写真で見ると大鳥居よりも背が低かったようだ。
そこで詠める:

> うつせみの代々木のもりは鳥居より木高くなりぬふりしまにまに

> おほきみのみよのとほさを生ひ茂る代々木の杜の木立にぞ知る

代々木公園の方にも行ってみる。
こちらも日曜だが雨のためほとんど人はいない。
しかしまったく居ないというのでもない。
見るといろんな碑やら像やらが立っている。
中で「大東塾十四烈士自刃之處」というものがあり、
ここがむかし連兵場で終戦当時に切腹をした人たちが居たらしい。
塾長の影山庄平という人の辞世の歌:

> こんとんをひらきて今や天地の始発の時と祈り行くなり

> 國うれふやたけ心のきはまりて静かなるかも神あがるとき

代々木連兵場は米軍に接収され宿舎用地となり、東京オリンピックの時に返還されて選手村となり、
そのあと国土緑化運動の中の一つとして森林公園となったそうである。
これらうっそうたるレバノン杉やヒマラヤ杉やメタセコイヤの林も東京オリンピック以来とはなかなか信じがたいものがある。

> きもをなめたきぎにふせしつらき世を知らずなりゆくわがくに民は

> 知るらめや代々木の園もひとたびはえびすの住める里となりしを

それはそうと、「たまぼこ」は「道」にかかる枕詞なので、
宣長の「玉鉾百首」とは「神の道」を教えた歌だったのだ。
どうりで宣長にしては、ぎこちない歌ばかりだと思った。

> うまざけは日ごと飲みてもうまけれどひと日あくればなほまさりけり

歌物語というのはあるが歌ブログというのはあまり無いジャンルではあるまいか。

雪を待つ春雨の夜

雪を待つ春雨の夜に詠める歌五首:

> 明日もまた雪はふるらしひと月も待たで桜は咲きそむるとも

> 今さらに雪は降らめや雨だれの音もしづけき夜もあけなば

> めづらしく酒も飲まずに籠もりけりゑひ飽きにける春雨の夜

> 雨はゆき雪は雨にとかはるらむなまあたたかき春のよはかな

> 春雨やいそぐともなきこよひこそこころしづけく家ゐすべかれ

がらにもないと言われそうだな。
さらに。

> 春の野の雨のたまれる土のうへを歩かまほしきここちもぞする

> うすぐもり梅咲きのこる川のべを歩かまほしきここちもぞする

うひやまぶみ

「うひやまぶみ」は確か昔、岩波文庫版を買って読んだことがあったが、すでに絶版になったようだ。
改めて読み直したが、やはり記憶どおり、割と短い文章。
本文と補足に分かれていて、補足はイロハからヤまであるが、

* (ム)みづからも古風の哥をまなびてよむべし
* (ノ)後世風をもすてずしてならひよむべし
* (オ)後世風の中にも、さまざまよきあしきふりふりあるを、よくえらびてならふべき也。

の三ヶ所、得にノとオが他と比べて異様に詳しくてワロタ。
宣長としては、やはりこの辺りについて、どうしても弁明が必要だったのだろう。

> 古哥をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我事なる故に、心を用ること格別にて、
深き意味をしること也。

私もそう思う。

> よき哥をよまんとするには、数おほくよまずはあるべからず、多くよむには、題なくはあるべからず、これらもおのづから然るべきいきほひ也。

良い歌を詠むには数多く詠まねばならないというのはそうだ。
しかし題詠は、必ずしも必要だろうか。まあいいや。

「本居宣長」連載

小林秀雄「本居宣長」は連載もので、50回に分かれていて、正直なところ、この50回という切りの良い数字は、必要があってそうなったのではなく、何か出版社との約束事でもあってそうなっているだけなのではないか。というのは、連載も30回を過ぎた辺りから内容もとりとめなく朦朧としてきて、わけがわからなくなるのである。明らかに連載第1回と続く2回目の「遺言書と墓、墓参、法事等について」「辞世の歌」などはおもしろい話題だ。ぐいぐいと引き込まれる。3回目「松坂の生家、生い立ち、家業など」は、まあ普通の前フリ。それから延々と話は宣長からそれて、19回目の「賀茂真淵の万葉考、枕詞考など」からまたおもしろくなり、20回目「真淵との書簡のやりとり、宣長の歌詠み批判、破門状など」。21回目「宣長の弁明、新古今風についてなど」。22回目「歌学と詠歌」辺りまでがこの連載の山場だと思う。その後は 25回目「(ざゑに対する) やまとだましい、やまとごころ、姿と意、など」、26回目「平田篤胤など」、27回目「ことだま、古今仮名序、土佐日記など」がややおもしろいが、28回目以降は古事記の話題が中心になり、明らかにどうでも良いような神道教義の解釈うんぬんという話になり、29回目の「津田左右吉「記紀研究」の紹介など」からどうも明らかにテンションが下がりまくり、後はもうどうでも良い感じ。というのが私の率直な読後感ですが何か。そうだな。ざっと5分の1、要領よくやれば10分の1でまとまると思うのだが。

また、補記の方だが、1回目にプラトンやソクラテスの話ばかり出てくるのは冗談としか思えないし、3回目の「真暦考」についての話がややおもしろい程度で、どうも別段どうということもない。こういうものを頭から難解だが名著だと信じて読んでも意味はわからないと思うのだが、どうよ。

本居宣長の最大の功績はやはり「古事記考」という大著をまとめたことだとは思う。当時解読不能になっていた古事記を読み解いた。それはすごいことだ。特に、古事記は日本書紀に比べて神話時代の話が濃密であるし、宣長は神話はすべて事実だと考えていたから、どうしても宣長という人は神代について、神話について研究した人という見え方になる。

さもなくば源氏物語を読み解き、「もののあはれ」の重要性を指摘し、近代小説との類似性に着目した人、ということになる。この辺りは近代の作家のひいきによるものだろう。

そこでつまり本居宣長とは「古事記」と「源氏物語」の人だということになる。それはそれで間違ってはいないと思う。小林秀雄も最初読んだのは「古事記考」でさらに折口信夫に「本居さんはやはり源氏だよ」などと言われて考え込んだりしている。そういうことが冒頭に書いてある。やはり小林秀雄にとっても宣長について書くきっかけは「古事記」と「源氏」だったわけだ。未だに世間一般ではそういう見方に違いない。

だがその書いたものを見るに彼が着目しているのは宣長の遺言だったり、真淵との師弟関係だったり、「うひやまぶみ」で彼が主張しこだわっていることだったり、異様に膨大な詠歌群だったり、「やまとごころ」「やまとだましひ」の発見だったりする。いやそもそも「やまとごころ」の意味を発見したのは、というより宣長が実は(幕末や戦前において)まるで理解されていなかったことを発見したのは、宣長を理解し再発見した小林秀雄自身の功績であろう。後半の古事記うんぬんの辺りはただ単に小林秀雄の独学というか独り言のように思える。ひどい言い方をすれば義理のために書いた埋め草というか。ただまあ、書きたくて読ませたくて書いた部分ではないのではないかと思う。

まくらの山

これもまた小林秀雄の受け売りなのだが、
本居宣長に「まくらの山」という桜花三百首を詠んだものがある。
晩年近く、年をとると夜寝られず目が覚めてしまうことが多く、
そういうときに詠んで書きためていたらいつのまにか百首になり、二百首になり、
とうとう三百首になったというもので、
これがしかも秋から冬の桜が咲くまでの間に、寝床の中の想像で詠まれたものだというから、何か異様なものを感じるだろう。

思うに本居宣長は読書家であり学者であるから、膨大な量の書籍の知識が頭の中にあって、
一方で歌を詠むのは生涯の習慣であったから、
脳が勝手に無意識のうちに働いて、五七五七七の定型に言葉を並べてしまう。
あるいは春の花が咲くのを待ち遠しく思う気持ちが強すぎてついつい花の歌ばかり考えてしまうのだろう。
すると宣長としてはそれを忘却してしまうのも惜しいと書き留めておく。
それがいつの間にか何百首とたまってしまい、弟子に見せるとこれは珍しい惜しいと言われる。
自分としてもまじめに詠んだわけではないので手本にされては困るがかといって後世に残さず捨ててしまうのも惜しい、
というのでできたものらしい。

たぶんこの心境は普段和歌を詠んでいる人にはすんなり理解できると思うが、
そうじゃない人にはただむやみに凡庸な歌を作っているように見えるだろうな。

当時国学を批判する儒家たちは
「すがたことばは万葉に似せているが心は通俗であり、まったくの偽物が多い。
違いを見分けられない人など居ないだろう」と言った。
これはもっともなことだ。
実朝のような人は新古今の素地の上に万葉調を取り入れたのでそれがなんとなしにうまく調和した。
ところが後世の歌人たちは、明治以降に至るまで、ただむやみに万葉のことばすがたを取り入れ、
実朝にはまだあった新古今の素養すら不純物と見なし、ただひたすら万葉を追求すればさらに純粋に目的は達せられるとした。
これはまったく失敗であって、なぜ実朝が成功したのかの分析がそもそも間違っている。
というか実朝は基本的には新古今の人だ。
宣長まではなんとかあやうい調和の中にあった国学はそれ以後過激化暴走し、
さまざまな神道系の新興宗教を生み、伝統的な漢学や仏教よりもさらに怪しげな新教義を発達させ、和歌の伝統すら破壊しようとした。
その悪影響は現代まで残っている。

上記に対する宣長の批判がまたおもしろく「心(意、あるいは儒学で言う義、大義)などはむしろまねしやすく、姿の方がまねしにくいものだ。
万葉の言葉にほんとうに似せることに比べれば心を似せるのはたやすいことだ。
これらの難易の違いもわからないような人に似てる似てないなどわかるはずがない。
試しに、私が詠んだ万葉風の歌を万葉歌の中へ、ひそかに混ぜて見せたら、決して見分けることはできまい」
と。
確かに宣長の(新古今風の)歌に関して言えばそれは真実だと思う。
宣長の歌は、基本的には新古今風であって、おそらくさりげなく勅撰集の中に混ぜてあっても、
うまく見分けられる人は居ないだろう。
さきほどあげた、「まくらの山」の中の歌と、玉葉集の春の歌を試しに混ぜてみせるから、どれがどれか当ててみれば良い。
たぶんよほどの人でも簡単には見分けはつくまい。
ただまあ上に書いたことがややヒントにはなろうか。

1. 咲く花を何の仇とて山風は世に残さじと吹きはらふらむ

2. 都には雲と見るらむわが宿の軒端に近き山のさくらを

3. さくら花さくときくより出でたちて心は山に入りにけるかな

4. をちこちの山は桜の花盛りのべはかすみにうぐひすの声

5. 春の来てかすみを見れば桜花またたちかへるこぞの思ひ出

6. 雲となり雪とふりしく山桜いづれを花の色とかも見む

宣長の万葉調の歌というのはほとんどない。
万葉仮名で書かれた「玉鉾百首」というのがあるにはあるが

> もろもろのなり出づる本は神産巣日高御産巣日の神の産霊ぞ

> 鎌倉の平の朝臣が逆わざをうべ大君の怒らせりける

というような調子であまりうまい歌とは思えない。
というかこれはわざと国学の思想を詠んだもので、宣長らしくない異様な歌だ。

小林秀雄「本居宣長」は、漠然と、源氏物語の読み方とか「もののあはれ」について論じている評論だと、
思われているようだが、
私の見る限りこれは、その占める文章量からしても「歌論書」の一種だと思う。
宣長をある種の歌人、あるいは歌学者と見て、「歌論書」だと思って読まないと意味はわかるまい。
もちろん源氏のもののあはれについてもある程度は書かれているのだが。
およその現代人にとって「歌学」ほど疎遠な学問はあるまい。
しかし、小林秀雄はその意味を完全に理解しているようにみえる。すごい。

宣長という人は、死ねば黄泉の国に行くだけだとして、
遺言や墓や葬式の心配などは「さかしらごと」として弟子に誡めていたくせに、実際には極めて詳細な遺言を残し、
仏式と自己流の二種類の墓を作らせた。
医者として、また実業家として、家も興した。
神道の墓には鳥居がつくものが多いが、宣長の墓にはそんなものはなく、そもそも宣長のころまでは、
神道形式の墓などというものはなかったのだろう。
宣長が作った墓というのは古代の庶民が作ったであろう、小規模の円墳のような土盛りの、ごく素朴なものを復元しようとしたのではなかろうか。
このように宣長というのはごく普通の江戸時代の日本人として生まれて、次第に国学へ傾いていったが、非常に不徹底で不完全な人でもあった。
過渡期の人と言っても良い。
ところが宣長から後の人たちというのはもう少し純粋に神道というものを思い詰めたのだろうと思う。

上記問題の正解だが、奇数番目が宣長で偶数は玉葉集。