江戸時代の歌集

江戸時代の私歌集にはたとえば後水尾院歌集、契沖の「漫吟集」、宣長の「鈴屋集」、蘆庵の「六帖詠草」、秋成の「藤簍冊子」、景樹の「桂園一枝」、良寛の「布留散東」、加納諸平の「柿園詠草」、橘曙覧の「志濃夫廼舎」などの私家集(個人歌集)がある。また、真淵などは自選集はないが弟子や後世の人による個人歌集「あがた居の歌集」などがあり、田安宗武にも同様に「悠然院様御詠草」が、荷田春満には「春葉集」があるが、比較的最近平安神宮から出版された「孝明天皇御製集」も江戸時代の歌人の後世の人による個人歌集の一種といえる。

歌合の記録も残るが、あとは私撰集がかなりたくさんある。幕末だと、蜂屋光世という幕臣が出版した「大江戸倭歌集」「江戸名所和歌集」なるものが出ている。国歌大観に「大江戸倭歌集」は収録されている。どういう基準で集めたかわからんが、商業目的に良さそうなものを適当にむやみと集めたのか。また、真淵や契沖などの国学者やその門人の歌を集めた「八十浦之玉」というものもある。これも国歌大観に収録されている。また、江戸の堂上派武家歌集である「霞関集」「若むらさき」などもある。他にも「麓のちり」「林葉累塵集」「鳥の迹」などというものも国歌大観に収録されている。

これら江戸時代の私家集や私撰集の歌を全部合わせるとものすごい膨大な数になる。また入手しにくいものが多い。なんか気が遠くなるな。

類題和歌集

よくわからないことだらけで、しかも原典に直接当たるにも、蔵書がないので、明治書院「和歌大辞典」などの力を借りる。
そうすると類題和歌集とは、勅撰集にもれた歌を題別に分類して1310年頃に成立した「夫木和歌抄」を典型とする、
資料として編纂された和歌集の総称。
もひとつは後水尾天皇が勅撰した類題和歌集。
この二通りの意味に使われる。

総称としての類題和歌集は、次第に重複を気にせず単に歌を蒐集する目的で編集されるようになり、
今で言えば「国歌大観」みたいなものだが、
先に出たものに新たに歌を継ぎ足したり、
場合によっては丸ごと再利用したりしたものが多く、
ただ単に集めるだけでなく題によって分類し、題詠の教科書としても利用されていたらしい。
つまり word excel の使い方とかそういう実用書のような形で使われた。

後水尾天皇の類題和歌集は、もともと和歌題林愚抄というものをベースとして、
それ以降に出た歌集などからも採録してできたものだという。
この題林愚抄は室町時代に題詠の参考書として使われていたもので、
江戸に入ってやや古くなったので、室町末期までの歌を追加して便宜を図ったという程度のものなのだろう。
ただ、題林愚抄以降の差分の部分には、今日伝わらない歌集から取った新出歌が含まれており、
貴重だというが、その新出歌だけでもどこかに掲載されていれば良いのだが。

霊元天皇の新類題和歌集は、後水尾天皇の類題和歌集にない題の歌を補ったものだという。1733年成立。
つまり、後水尾天皇、霊元天皇の勅撰集ではあるが、
単なる和歌データベース的なものに近く、「21代集のようなオリジナリティ」には乏しいということだな。

才女の話

眠れないので、帚木。
文章博士のもとに勉強に行った男が博士の娘に手を出し、
娘の親にも気に入られ嫁にするよう勧められ、
娘は手紙も漢文で書き、仕事の作文なども手伝ってくれるのだが、
そういう才女に気後れして、しばらく立ち寄らなかった。
たまたま近くに立ちよってその女性を訪ねると、病気のためにニンニクを飲んでいて臭いのでという理由で、
居間には通さずものごしで話をする。
ニンニクのにおいがなくなったころにまた来いというので、逃げだそうとして

>ささがにの振舞ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき

と言うと返歌

> 逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩ゆからまし

ささがにというのは蜘蛛のことで、蜘蛛が盛んに活動するのは男がおとづれる前兆だという。
ひる(ニンニク)と昼間がかけてある。
そういう夕暮れなのにニンニク(昼間)を避けよというのは意味が通らないなと。
返しが、
夜でさえ隔てなく逢う仲なのだから昼間でもまぶしいことはないでしょう、と。
なんだかまあ変な話だ。
伊勢物語を読んでいるようだな。
ていうか、伊勢物語のような断片的なエピソードをたくさん集めてきて一つにつなげたのが源氏物語なんじゃあるまいか。
で、あとから桐壺のような前置きができたと。

ええと。
源氏の家来の一人に紀伊守というのがいて、
その父が伊予介で、伊予介の後妻が空蝉で、
紀伊守は伊予介の前妻の子で、
空蝉の弟が小君で、
空蝉と小君の親が衛門督、と。わかりにくいな。
wikipedia 読んだだけじゃわからん、たぶんどこかに攻略本かまとめサイトみたいなのがあるんじゃないのか。

方違えで源氏が紀伊守の家に行こうとしたが、紀伊守の家は親の伊予介の家が工事中かなにかで、
家族(つまり伊予介の妻の空蝉ら)がみな越してきていて手狭であると、
しかも急ぎだったので、家族らを別の部屋に動かすのが間に合わなかったので、
空蝉と源氏の接近遭遇が起きた、というシチュエーションなのだな。
いきなり中将というのが出てくるがこれはそれまで出てきた頭中将(男。左大臣の息子で右大臣の婿)ではなく、
空蝉に使えている女房の中将(女)なんだよな。
しかもこの当時、源氏自身も中将だった。
なんかもう、設定がややこしすぎる。

挫折しそう

源氏物語めんどい。
長い長いRPGみたいな。
まあ自分に合わないものを無理して読む必要もないわけで。
この帚木の長い長い男たちの問答も、そのあとの空蝉のぐだぐだも、もうどうでも良い感じ。
ていうかまたこの調子であとどのくらい続くのかっていう。
でまあ、源氏も空蝉も一応既婚者なわけで、
だが空蝉は年寄りの後妻でしかも別居中であり、
当時の習慣としては一夫多妻みたいなもので、
今の感覚でこれを不倫とは一概には言えないし、
かつ源氏は親王ではないが天皇の子だから
(有力な女御の子は親王になれたが、それ以外は源氏姓など賜って臣籍降下する)、
このくらいのことはあるんだろうけど、
帚木・空蝉の辺りなどは源氏物語の一番初期からあった原型のようなものじゃないかと思うのだが、
こういう女性週刊誌のゴシップ記事みたいなものを後世の武士たちが嫌悪したのはよくわかる。
ていうかこういう女性文学があったから今の日本のオタク文化があるんだろうと思う。
同じぐだぐたにしても竹取物語や和泉式部日記などの方がずっと上品だよな。
それにすっと読める程度の分量だし。

帚木原文

> なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。

渋谷訳

> 艶っぽくて女性的だと見えると、度を越して情趣にこだわって、調子を合わせると、浮わつきます。これを、第一の難点と言うべきでしょう。

与謝野訳

> なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。

わかんねえよ。
難しすぎる。
女性選び、妻選びの話なんで、どちらかと言えば、与謝野訳の方があってる気がするが、
どちらとも言えないというか。
与謝野訳はいろいろ補完されているので意味は通るがそれと原文と意味があっているかはなんとも言えない。
渋谷訳は直訳なんだろうが、意味不明。これ読んで意味がわかる人は居るまいし本人もわかってはいるまい。

ヤマザクラ


多摩の尾根緑道にヤマザクラの並木があったので、わざわざ撮影に行った。美しいが、ソメイヨシノに比べるとかなり地味。逆に、ヤマザクラを見てからソメイヨシノを見るといかにも人工的な造花のような感じがする。ソメイヨシノは派手だが色調が単調で、幹が黒々とごつごつしてて醜い。ヤマザクラは幹がすっと細く高く伸びて気持ちが良い。

ソメイヨシノだと、桜のトンネルのようなものを何千本も作りやすいのだろうが、ヤマザクラはそんなことをしてもあまり派手な感じにはならず、遠目にはかなり地味な印象で、ここの尾根緑道のような、雑木林にとけこんだような自然な感じにしかならないのではないか。しかしまあ、むやみやたらとソメイヨシノが咲いて、屋台や御輿が出てよさこいソーラン祭りみたいになっているところもあるのだが、わざわざこのような緑道まででかけて静かにのんびり桜を見る方がずっと良い気がする。

青い葉と白い花のコントラストが高いミドリヤマザクラとも明らかに雰囲気が異なる。

参考までにこちらが同じ日に別の場所で撮ったソメイヨシノ。
うーむ。こういうものを日本の文化と言ってしまうのはどうかと、
ヤマザクラを見た後では考えてしまう。単一DNAのクローンなんだよなあ、ソメイヨシノは。戦後の混乱期に、後にどんな劇的な効果を生むか最初はあまり深く考えず、植えてしまうのだが、それが50年も経つとえらいことになってしまい、さくらまつりみたいな盛大な祭りをやらざるを得なくなっている、そんな気がするのだが。ソメイヨシノに振り回されている日本、みたいな。宣長が見たらなんと言うだろうか。

ヤマザクラ(幼木)


比較的新しく植えられたヤマザクラ。ソメイヨシノは割と若いうちから花がたくさん咲くようだが、やはりヤマザクラは若いころは花が多くないのではないか。

植樹されたばかりのヤマザクラ(花が咲いてないのでよく確認できないが、状況的には)は添え木をあてられて幹は一本だけ。花を咲かすことはできず、若い葉だけがめばえている。

ヤマザクラ(樹形)

開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。

ヤマザクラとミドリヤマザクラ

さくら品種図鑑桜花譜等々を見ると、山桜には主に「ヤマザクラ」と「ミドリヤマザクラ」がある。私も近所の公園をぷらぷらと歩いてみたが、新しい葉の葉緑素が足りずに赤みがかって、一見枯葉のようにもみえる桜の木がある。こちらが吉野山などの「ヤマザクラ」なのだろう。一方で青々とした葉の「ミドリヤマザクラ」というものもある。

ヤマザクラの美しさはおそらく、花の白さ、花芯や軸の赤さ、新葉の茶、赤、黄色みがかった緑まで、さまざまな淡い色合いが混じり合い、それらが山全体にわたって咲いているようすなのだろうなと思う。

ソメイヨシノは枝が横へ横へと広がっていく。ミドリヤマザクラもだいたい同じような形になる。どちらも花が間近に見れて、観賞用には良い。しだれ桜などはさらに花が目の前まで垂れてくる。しかし、「ヤマザクラ」は枝が上へ上へと伸びてたいへんな高木になり、さらにその梢に花が咲くので、花自体をよくよく見るのは難しい。特にやぶの中に生えているものは、他の雑木と競うから、よけいに上に延びる。写真にも撮りにくい。池の岸辺などに生えているものは、これも池の真ん中の方へ伸びてそこで咲いている。やはり写真にとりにくい。日本原生種の古態を留めていると言えば言えよう。とまあそんなわけでまだ満足のいく「ヤマザクラ」の写真がとれてない状況ではある。

源氏物語を読み始める

本棚から出てきた岩波文庫版の源氏物語を読み始める。
今、桐壺から帚木の途中まで。
平家物語よりは難しいが太平記やら吾妻鏡などに比べれば読めるか。
なにしろ源氏物語レベルになると攻略本も walkthrough もなんでもありだと思ったが、
案外 wikipedia なども使いにくく、
間違いもあるようだ。
たとえば弘徽殿女御は左大臣家の人物となっているが、右大臣家でないと話が通らない、など。

フリーの現代語訳は
[渋谷栄一訳](http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/)と、
[与謝野晶子訳](http://www.genji.co.jp/yosano/yosano.html)がある。
渋谷訳は直訳調でなんかわからんことが多い。
与謝野訳は、かなり意訳してある。
たとえば、
桐壺で、

> 里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。

とあるのを、渋谷訳は

> 実家のお邸は、修理職や内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派にご改造させなさる。

とあり、与謝野訳は

> 更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。

とある。
源氏は元服して左大臣の娘・葵の上と結婚したので、里の殿とは左大臣家のことかと思ったが、
これは要するに妻の実家であるから他人の家なわけで源氏が
「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」などと思うはずがなく、また左大臣家は「大殿」と書かれている。
渋谷訳では「里の殿」を「実家」と訳しているだけだが、
与謝野訳では「更衣の家」、つまり源氏の母である桐壺の上が生まれ育った実家であることが明示されていて、
わかりやすい。
ただ「宣旨下りて」を「帝がお命じになって」まで意訳する必要があるかどうか。
その他の場所もだいたい同じ。
「いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる」を
与謝野「意外であったということは十分に男の心を引くカになります」と訳すのはやり過ぎではないか。
渋谷「どうしてまあ、こんな人がいたのだろうと、想像していたことと違って、不思議に気持ちが引き付けられるものです」
程度に訳した方が無難ではなかろうか。
渋谷訳はたぶん現代語読んでも逆に良くわからんところがある。
与謝野訳は意味は良くわかるがそのままでは原文のニュアンスが伝わらないところがある、というところか。
原文読みながら参照するのであれば与謝野訳が良い。