岩波文庫和歌集

ざっと検索してみると、現在岩波文庫で入手できる和歌集は

> 古今和歌集 佐伯梅友校注 定価 840円 1981年1月16日発行

> 新訂 新古今和歌集 佐佐木信綱校訂 定価 798円 1929年7月5日発行

> 新勅撰和歌集 久曾神昇,樋口芳麻呂校訂 定価 735円 1961年4月25日発行

> 新葉和歌集 岩佐正校訂 定価 735円 在庫僅少 1940年11月29日発行

この四つだけのようだが、すでに全部買ってしまった。
新葉集は予備にもう一冊くらい買っておいた方が良いかもしれん(笑)。
古今集は、今月

> 古今和歌集 (ちくま学芸文庫) (文庫) 小町谷照彦

というものが出た。そのほか、角川ソフィア文庫、講談社学術文庫、などからも出ているわけだが、
文庫本という形態を考えたとき、現代語訳や解説をあまり詳しくして厚くしてしまうと持ち運びが不便。
角川や講談社は分冊にしてしまっているがなおさら不便。金もかかるし。
結局岩波文庫が一番薄くて安くて便利となるのだが、
岩波文庫版にしても古今集はあと半分の厚さで出せるのではないか。すかすかだ。

岩波文庫だと新古今和歌集が一番どんな書店にも並んでいて入手しやすいのだが、
佐佐木信綱の戦前の版で活字も印刷も悪いし、不親切だし、解題も勇ましいばかりであまり役に立たない。
しかし他の人がやり直すとこれもまた分冊になってしまうのだろう。

後撰集、拾遺集あたりも文庫本でほしいところで、古今集と併せて一冊の文庫本にしてくれるとたいへんありがたいのだが、
歌だけ淡々と収録するなら入らなくもないが、そんな本はたぶん誰も買いたがらず、詠みたがらないのだろうと思う。
文庫本というのは実に便利で kindle とか ipad などにはない便利さがある。
小さいし軽いしポケットにもつっこめるしはじっこを折ったり付箋はったり、メモ代わりに書き込みもできる。
書き込みや折ったりするのは図書館の本ではできまいが、しかし愛読書を文庫でとなるとそれも可能。
正直移動中に kindle で読書するかどうか疑問だが、
しかし満員電車で身動きとれないとき片手で操作できるならやや便利かもしれん。
それで勅撰和歌集などをそれぞれ300円くらいで出してくれれば全部集めてもせいぜい7000円くらいで、
デジタルだから絶版になることもなく便利なのではないか。
kindle のような端末で出すとするとページとか見開きなどという概念はむしろじゃまで、
昔ながらに巻物みたいにして縦書きの横スクロールできるようにすると良かろうと思う。
歌は10とばしとか一巻とばしとか、そうなると動画再生に気分は似てくるな。

古今集

古今集を読み始める。
面白い。
新古今で家隆の

> おもふどちそことも知らず行き暮れぬ花の宿貸せ野辺のうぐひす

が実は素性法師

> 思ふどち春の山べにうちむれてそことも言はぬ旅寝してしか

の本歌取りだったりとか。
実朝の万葉調というのが実は万葉集から来たというよりは古今集に集録された東歌に影響されたんじゃないのかとか。

春下はさくらが散る歌ばかりだ。
紀友則の

> しづごころなく花の散るらむ

や小町の

> 我が身世にふるながめせしまに

が有名だが、それに類する歌がいくつもある。たとえば貫之の

> 桜花とく散りぬとも思ほえず人の心ぞ風も吹きあへぬ

> 春霞なに隠すらむ桜花散る間をだにも見るべきものを

よみ人しらずの

> 残りなく散るぞめでたき桜花ありて世の中はての憂ければ

> うつせみの世にも似たるか花桜咲くと見し間にかつ散りにけり

> 散る花をなにか恨みむ世の中にわが身もともにあらむものかは

素性法師の

> いざ桜我も散りなむひとさかりありなば人に憂き目見えなむ

凡河内躬恒の

> しるしなきねをも鳴くかなうぐひすの今年のみ散る花ならなくに

などのように未練なく散るさくらを愛する歌が多い。
これらの歌は明らかに宣長の趣味とは異なり、というよりも、宣長が平安時代以来の日本人のメンタリティからかなり逸脱しており、
故に宣長が誤解される原因となっていることを意味している。

思うに、「ますらを」は万葉時代には明らかに「立派で優れた男性」特に「強い武人」を意味していた。
しかし古今の時代にはそれらがまったく忘れられ、
新古今の時代になると単なる「農夫」「狩人」「漁師」「木こり」の意味、つまり野山や海で肉体労働するまずしくいやしい男性の意味に使い、
知的労働階級たる殿上人たちが田舎の風景を歌に詠む上で鹿や雁や鶴などと同じく、
いわば屏風絵というジオラマの中の小道具扱いされている。
特にこの「ますらを」を繰返し繰返し誤用しているのは俊成である。
かれの武士蔑視、貴族意識ははなはだしいものがあっただろう。
このことは万葉集をちょっとでも学びまた新古今の歌に親しんだ人々にはすぐに察せられただろう。
武家の時代になって万葉集を研究した真淵らなどはこのような堂上歌風に憤激したに違いない。
ところが宣長はそういうところにはまったく無関心で、古今・新古今時代の誤用であることは明らかなのに、それに言及する気すらないように思われる。
また、あれほど源氏物語には熱心なのに平家物語などの軍記物にはなんら関心を示していないが、
やはり、宣長という人はどこか、徳川の尚武の時代にあって、何か根本的にひとりだけ浮いているところがある。
この部分を宣長はまったく解決していない。
真淵による宣長批判も、大筋には正しいと思う(ただし学問的な緻密さ正確さでは真淵は宣長にはるかに及ばないとは思うが)。
おそらく宣長は心情的あるいは精神構造的には「公家」であって、
公家は公家自身を自己批判できない。
だが真淵らは武士か町人か、ともかくも徳川支配の世の中の一般的な庶民の立場に居て、
公家を外から批判的に見て、
公家というのがどうしようもなく退廃的で衰え落ちぶれたように見えただろう。
なぜ公家はかつては栄華を極め今はあのように惰弱なのか、
なぜ武家はいまや民百姓を代表して世の中を経営しているのか、その現実を目の当たりにしているからこその、
源氏物語、新古今批判なのである。

プーさんの鼻

俵万智「プーさんの鼻」をさらっと読む。
そうかあ。
かつての学生歌人が20年経って今はこんな歌を詠んでるのか。
我が子を「みどりご」と呼ぶシングルマザー。
贈り物が

> いるけどいないパパから届く

このあやうさがやはり俵万智なんだよなあ。
ある意味20年前となんら変わらず歌を詠み続けているんだなと思った。

> 記念写真撮らんとするにみどりごは足の親指飽かず舐めおり

うーん。
「それぞれの未来があれば写真はとらず」からこうなったんだなあ。
大きなお世話だがけっこう高齢出産だな。

ねぢけゆくわが心

木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば

木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに

ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし

春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き

いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに

いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな

ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし

浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ

大国魂神社

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。

たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。

こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。

頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

黄砂襲来

> もろこしの砂も降り来る春の日の夜半は嵐を聞きつつぞ寝る

> 雨風はきのふの夜こそはげしけれけふはしづけく春ぞ更けゆく

> をちこちの花咲く野辺にうたげせむ日どりばかりぞまづ決まりゆく

> 惜しまずやあたら月日を春さればつとめもしげくなりゆくものを

> いにしへの大宮人よわれもまたいとましあらばうたげせましを

> わが宿ののきばに出でて草まくら旅寝ごこちの春を楽しむ

> ぼんやりとけふも暮らしつかかる日のあはれこのまま続かましかば

> なりはひのわざにつとめばなかなかにいとまなくとも歌は詠ままし

> うららかに晴れたる春を惜しむべしけふぞ過ぎなばいとまなからむ

> つのぐみて咲かむとみゆるこずゑかなをみなをのこら日を数へてぞ待つ

> ことしげき日々ぞ待ちぬる春過ぎてあはれ浮き世の夢も醒めなば

> おもひやれ四十ぢのをのこいかばかり国に貢ぎて世を支へてむ

> あしびきのやまどりのをのしだりをのしだれ桜をけふこそは見め

ますらを

[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)がおもしろい。

「ますらを」で検索すると一番古いので金葉集。つまり万葉集はともかく古今集辺りでは「ますらを」は一切歌に詠まれなかったということだ。

> 雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて

勝命法師という人の歌。新古今集。苗代に水を引く農夫が、雨がふったので、その手間がいらず、ひまなのだろうか、というのんきな歌。

> ますらをは同じふもとをかへしつつ春の山田に老いにけるかな

俊成の歌なのでだいたい新古今時代。同じ山のふもとを耕しつつ農夫は春の山田に年老いていくのだなあ。
これまたのんきな農夫の歌。
新古今時代は「ますらを」とは「農夫」「山人」「狩人」などを意味していたようだ。

> ますらをもほととぎすをや待ちつらむ鳴くひとこゑに早苗とるなり

藻壁門院但馬(知らん人)。農夫もほととぎすの声を待っていたのだろうか、一声鳴いてから早苗をとった。これまたのんきな話だわな。

> ますらをの海人くりかへし春の日にわかめかるとや浦つたひする

「ますらをのあま」で漁師。まあ「あま」だけでも大差ない。

> ますらをも月漏れとてや小山田の庵はまばらに囲ひおくらむ

誰の歌かよくわからん。
農夫も月の光が漏れるようにと小山田の庵はすきまだらけに作るのだろうか。
ふーむ。
どうも、「ますらを」「しづのを」「やまがつ」「あま」などは同じような意味だったようだな。
農業や狩猟、漁労などの第一次産業に携わる男たち。
万葉時代とはかなり違う使われかたのようだ。

宣長と山陽

宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。
宣長は頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。
ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。

宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、
当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。
武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。
そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。
ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、
エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、
単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。
師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。
敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、
現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。
今でも理解されてない。
こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。

江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。
しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、
自ら進んでその役を買って出たようにも見える。
山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、
幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。

読書は冒険

あいかわらず小林秀雄宣長本13章辺り。
ややはしょって引用するが、

> 文学の歴史的評価というものは、反省を進めてみれば、疑わしい脆弱な概念なのであるが、
実際には、文学研究家たちの間で、お互いの黙契のもとにいつの間にか自明で十分な物差しのような姿をとっている。

> 過去の作品へ至る道は平坦となってもはや冒険を必要としないように見えるが、
傑作は、理解者・認識者の行う一種の冒険を待っているものだ。
機会がどんなにまれであろうと、この機を捕らえて新しく息を吹き返そうと願っているのだ。
もののたとえではない。
宣長が行ったのはこの種の冒険だった。

なかなかおもしろい。宣長を語りながら自分自身を語っているのだろう。
傑作は冒険者を待っており、そのまれな機会を利用して何度でもよみがえろうとしている。
読書とはそういう種類の冒険であると。

ふーむ。
「まこと」と「そらごと」を超えたところにあるのが、創作だろうし、
ファンタジーというものだろうな。
現代のオタク文化に通じる肝酢。

煙草専売と特攻隊

宣長のことを調べてるといろんなことが。

日露戦争の軍費を調達するために煙草が国の専売になって、
最初に作られたのが「敷島」「大和」「朝日」「山桜」
だったそうだが、これは宣長の歌にちなむという。
宣長が愛煙家だったからだそうだ。

[JTのサイト](http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/japan/04_1.html)
/
[楽天のサイト](http://item.rakuten.co.jp/plaza/c/0000000435)

口付たばことは、円筒状の中空のやや厚手の口紙というものを両切りたばこの片側のはしに取り付けたもので、
口紙を口にはさみ、つぶして吸ったらしい。
要するに口紙とはキセルの吸い口の代用品ということだ罠。

wikipedia 読んでるといろいろ愉快なことも書いてある。

> 金鵄あがって十五銭 栄えある光三十銭 朝日は昇って四十五銭 鵬翼つらねて五十銭 紀元は二千六百年 あゝ一億の金は減る

元歌。

> 金鵄輝く日本の 栄えある光身にうけて いまこそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 あゝ一億の胸はなる

神風特攻隊の最初の四部隊も「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」
と名付けられたそうだ。

> 道の辺の尾花がもとの思ひ草今更になど物か思はむ

「尾花が本」「思ひ草」ともに煙草の異称としても使われている。

たしかに、明治時代には「[敷島](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」「[大和](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97))」「[朝日](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」
ともに軍艦の名前としてある。
しかし「山桜」は見あたらない。
またこれらが宣長の歌にちなむかどうかは、建造時期が違うのでなんともいえない。
しかし、敷島と朝日は同じ[敷島型戦艦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6)
であり、宣長の歌にちなむと見てよく、すると宣長の歌が日本政府に利用された一番最初の例は戦艦の名前と言って良いのかもしれん。
すごい人気である。