子規と曙覧

子規は[曙覧を評して](http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card46490.html)

> 明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。

などと言っている。
私も最初はだまされた。
橘曙覧は江戸時代の石川啄木だと最初は思った。
しかし、曙覧は別段貧乏な家の生まれではなく、好きこのんで山の中の家で暮らし始めたのである。
妻や子までまきぞえにして。
なので彼の歌で貧乏陋屋などというのはジェスチャーに過ぎない。
僧侶の良寛がそまつな庵に住んで寒いと言っているのとはわけが違う。
ハイジのじいさんが村の生活をいやがって勝手にアルムに住んでいるのと同じようなもの。

「金をもらってうれしい」ことを素直に歌に詠んだのはよい。
しかし、これまた江戸時代には狂歌や俳諧歌の伝統があり、
必ずしも曙覧が初めてではあるまい。
尊皇攘夷を憂えた歌や王政復古を喜んだ歌などもただのおっちょこちょいの歌にしか思えない。
孝明天皇や吉田松陰の歌とはまるで違う。
子規はやはりだまされた、あるいは勝手にはやとちりしたのではあるまいか。

子規と景樹

改めて歌よみに与ふる書を読んでみると、子規が景樹を褒めていて驚いた。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。

「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。古今がすきなのも貫之だけじゃない。当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。

景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。

しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。

それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。良くなることだってあり得る。そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。古今を手本にして学べと言っているだけだろう。そうするとだいたい後の世の歌も詠める。宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。

あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき

これは、今思いついた歌。

景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太(りょうた)に比するが適当と思われ候。
蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣き有之候。ここの処よくよく闊眼を開いて御判別あるべく候。

蓼太とは大島蓼太という人のことらしいが、よくわからない。景樹のどの歌が良くどの歌が悪いということを具体的に例を挙げてもらわないと、子規の真意を掴みかねる。景樹は確かに狂歌まがいの歌や俳諧歌をたくさん詠んでいる。そういうのは駄目だがまじめに詠んだのは良いと言いたいのか。わかるようにきちんと指摘してくれないと卑怯だ。だいたい景樹というのは幕末近くまで生きていたのだから、
江戸の終わりまで歌詠みの名人というのはいたのであり、そのこと自体、和歌が江戸末期まで生きていた証拠であり、その弟子が無様だからといって、和歌全体が駄目な理由にはなるまい。

真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。

実際、真淵の歌はあまり雄々しいものはなく、どちらかと言えば古今調に見える。良寛の方がはっきりと万葉調がわかる。それはやはり時代が下って万葉調に馴れたからだろう。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。

漫吟集にある歌だが、そもそもどうでも良い歌だ。なぜ子規がわざわざこの歌を攻撃しなくてはならないのか。この歌が駄目だとしてなぜ和歌が駄目だということになるのか。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。

私もこの歌は駄作だと思う。だからどうだというのか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、
これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめになされては如何や。

言いたいことはわかるが、何を批判したいのだろうか。一言で言えることを三十一文字に引き延ばすことがいけないといってしまうと、秀歌の多くがそれにひっかかる。「難波津に咲くやこの花」などからしてそうだ。「春になって花が咲いた」というだけなのだから。やはり、何がいいたいのかわからない。俳句ならば文字数を惜しむということはあるだろうが、いや、俳句だからこそそういう発想が出てくるのであり、和歌の場合、そこに囚われずにもっとさまざまな技巧のこらし方があり得る。たとえばわざと文字数を浪費するとか、わざと無駄な言い回しを使うとか。長ければ長いだけ情報を詰め込むこともできればわざと冗長にすることもできる。子規が実朝の歌と言われる歌

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

を、助詞や助動詞が少なく名詞が多く、動詞も現在形で短く、

かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

などと言ってほめているが、これこそまさに俳句的発想であって、和歌というものは名詞が多ければ良いというものではない。子規はそのへんがまるで理解できてないのではないか。

歌道

たとえばだが、華道、茶道、書道、剣道、柔道、居合道など、だいたいこれらは江戸時代の習い事に由来しているわけで、
どれも江戸時代に確立された古態をそれなりに継承している。
歌道もまたそうだったはずだ。
歌道は、いろんな習い事の中の一つとして嗜まれていて、
茶道や華道などと同じ程度に庶民にも親しまれていたはずだ。

ところが、明治になって近代文学運動というものに、歌道だけが巻き込まれた。
茶道や華道や書道などは西洋の影響をあまり受けずに済んだが、
歌道は、つまり和歌は、同じ文学の一種だというだけの理由で、西洋的な価値観で自己批判を強いられて、
さんざんにいじり回され改造されて、
あれほど日本人のいろんな種類の人たちに愛されていたという記憶まで奪われ、
今日に至っているのだ。
和歌は本来相当に保守的な芸能であって、たとえていえば、
能や狂言や神楽などと同じかそれ以上に保守的な伝統芸能といって良い。
しかし、能楽に関しては、正岡子規のような攻撃者がいたわけでもなく、
西洋演劇理論で改造すべきだなどいう乱暴な議論がされたわけでもなく、
今日に至るまで古典芸能として生き延びてきた。
しかし和歌は古典芸能であり続けることを否定されてしまった。
古典芸能でありつづける部分と、近代文学として変化して行く部分と、
うまく両立できればよかったのだろうが、近代文学な部分があまりにも勢いづいてしまい、
伝統芸能の部分がしだいしだいに枯死してしまったのだ。
そして、歌道というものは一部の公家と知識階級によってもてあそばれた「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候」
ということにされてしまったのだ。

さくらまつり

まだ全然咲いてないのにさくらまつりとて

> 春を浅み色香の足りぬ花を見にしひてつどへる市の店並み

> 花を見て酒によはむと思へども花は少なし日もまた寒し

> 山のはに日はかたぶきてかげりゆく麦酒寒き春の夕暮れ

> 春遅く花は咲かましうらうらとあたたかき日に花は見まほし

和歌を四つ、四行詩、というか起承転結というか絶句みたいに組み合わせるのってどうよ。

江戸時代の歌人

wikipedia のカテゴリーに
[江戸時代の歌人](http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%8C%E4%BA%BA)てのがあってそこから芋づる式に歌人がわらわらとたどれるのだが、
たとえばだが、このカテゴリーの中には本居宣長は入っていない。
宣長は歌人として認識されてないということだろう。
後水尾天皇も入ってない。特に江戸時代の歌人として認識されてないからだろう。
塙保己一は歌人としては認識されてないが、江戸時代に歌集を出しているので、歌人と言うこともできる。
頼山陽の母の頼梅颸は歌集は出してないが、後の世に歌集が編纂されているので、歌人と言っても良いだろう。
たとえば、徳川光圀は歌人とは見なされていないが歌は詠んでいて歌集も残っている。やはり彼も歌人と言って良い。

こうしてみていくと、江戸時代の公家だとか国学者だとかはたいてい歌を詠んでいるし、
頼山陽のような漢学の人でもたまには和歌は詠む。
戯作者やら狂歌師やら俳諧師でもたまには和歌くらい詠む。
武士でもたまには和歌くらい詠む。
色街の芸者も詠む。

こうしてみていくと、江戸時代の人で、読み書きが出来る程度の人で、和歌を詠まなかった人を探す方が難しく、
また和歌を詠んだ人を網羅するのもものすごい大研究とならざるを得ないことがわかる。
これはつまり和歌を詠むことが日本人のかなり広い層の日常生活にまで普及していたことを意味していて、
それはあたかも今日の日々の新聞に俳壇や歌壇と称して謎の呪文が大量生産されているのと大差なかろう。
だが、江戸時代の風俗として和歌の文化をもうちょっと体系的に整理すべきなのではないか。
なぜこんな大事なことがこれまで放置されてきたのか。
一部の、明治以降に影響を与えた歌人だけがかろうじて注目されているだけで、
江戸時代は勅撰集の編纂もなく、和歌史上不毛の時代だとされ、その時代にはめぼしいものはなかったことにされている。
実に驚嘆すべきことだ。
なかったどころではない。
非常に和歌文化の豊かな時代だったはずだ。

千春の名曲ベスト4

唐突だが、松山千春の名曲トップ4曲を決めた。

1. [炎](http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND55983/index.html)
2. [この世で君が一番好き](http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND39874/index.html)
3. 愛しているから
4. [時計](http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND23815/index.html)

「愛しているから」は割とマイナーなんだな。
カラオケにないことも多いし、gooの歌詞にもない。

梅颸詩抄

「梅颸日記」は見延典子の「すっぽらぽんのぽん」などである程度わかるのだが、原本を見るのはちと難しいようだ。
「梅颸詩抄」は入手困難。
そもそも「颸」がOPACで検索できない。困った。
山陽が江戸に遊学するときに梅颸が詠んだという歌

> 不二のねもあふみのうみも及びなき君と父との恵み忘るな

うーん。悪くはないが儒教臭く説教臭くて、歌としての雅やかさがない罠。
こんなこと母親に言われたらもううんざりする。
富士山や琵琶湖をいきなりもってこられても、っていう。
他の歌にも当たってみないとわからんが。

返歌

> たのもしくおほしたてたるたらちねの親の心ぞ憂かりけるらむ

> もののふの家に生まれし子にしあれば親のをしへぞそむきかねつる

> 子を思ふ親のこころはたふとくもかつ苦しきは子の心かな

架空勅撰和歌集

「近世和歌集」を読んでいてヒントをもらったのだが、
たとえば孝明天皇が存命中に宣旨を出したと言う仮定で、
応仁の乱の直前で途絶えた勅撰集の、その後の歌を集めて、
選者は孝明天皇の近習の誰かということにして、
実際には江戸時代の歌人たちの歌を集めた、
架空の勅撰和歌集というものを作ったら面白いのではないか。
知的遊戯として。

勅撰和歌集はだいたい歌の数としては1500首くらい。
歌人一人で多い人は50首くらいまで。
少ないひとは1首から。
そうすると100人くらいは歌人がいないといけない。自然と百人千首的な構成になる。

孝明天皇は在位中という仮定だから「御製」となる。
在位期間は思ったよりは長い。1846~1867と20年以上ある。
36才の死は早すぎたので、在位期間ももっと短いかと思っていた。
15才で即位したのだな。

奏覧を安政の大獄、桜田門外の変の後1859年くらいとすると、和宮や吉田松陰の歌も入れられる。
しかし幕末動乱の歌は取りたくない。
まして明治時代の歌は入れたくない。
江戸時代の、ぎりぎり古き良きところまでで留めるという意味で、孝明天皇による勅撰。

選者は難しい。
いったい孝明天皇の近習にどんな歌人が居たか。
まったくわからないけど調べるとわかるのかな。
ストーリー的には1853年黒船来襲以来の公武合体論の流れで公家や武家、庶民の和歌などを幅広く集めようというもので、
公家、武家、庶民代表でひとりずつくらい選者を選びたい。
しかし幕末には有名な歌人はほとんど死んでしまった。
生きてるのは橘曙覧くらいか。
その選者の一人に仮名序を書かせねばならないがこれまた難しい。
400年間途絶えていた勅撰集の序文をどう書くか。
まあしかしこれは一種のファンタジーであって、選者もその歌も適当に創作してもかまわんのかもしれん。

部立ては

* 仮名序
* 春歌
* 夏歌
* 秋歌
* 冬歌
* 賀歌
* 哀傷歌
* 離別歌
* 述懐歌
* 羇旅歌
* 恋歌
* 雑歌
* 神祇歌
* 釈教歌
* 雑体
* 狂歌
* 俳諧歌
* 学問歌

と、江戸時代らしく狂歌や俳諧歌を入れてみるのはどうか。
その方が歌人を集めやすいだろう。
「述懐」と「学問」は自分の趣味。
こうして和歌集を編纂してみれば、江戸時代が必ずしも和歌にとって不毛な時代ではなかったことがわかるに違いない。
歌集の名前は「近葉」を考えたのだが先行する「金葉」と音がかぶるのがあまりよろしくない。
まあぼちぼち考える。

こういう架空の二十二代目の勅撰和歌集を作ってみようという試みが、もし今まで一度もなかったとしたら、
それこそアララギ派の呪縛、呪いだろう。

景樹2

はづき十六日の夜なりけむ、頼襄が三本木の水楼につどひて、かたらひ更かしてよめる

> すむ月に水のこころもかよふらしたかくなりゆく波の音かな

文政7年(1824) 8月16日に香川景樹と頼山陽が会ったときに詠んだ歌らしい。
香川景樹は1768年生まれ、頼山陽は1780年生まれだから、山陽の方がだいぶ年下だ。
だが、1824年となるともう44才、日本外史が完成する2年前ということは、私塾の経営はだいぶ安定したころだっただろう。
山陽の母・梅颸が歌を景樹に習っていたつながりだという。
なるほど、そこは盲点だったな。
小沢蘆庵にも習ったらしい。
山陽もたまには和歌を詠んだらしく、母と子の和歌がたくさん載っているようだ。やれやれ、梅颸日記でも読むか。
山陽の歌

> 親も子も老いの波よる志賀の山三たび越えけることぞうれしき

梅颸の歌

> まがひつる雲は色こそながめけれ花にうづめるみよしののやま

景樹が小沢蘆庵のもとへ詠んだ歌

> 身はつかる道はた遠しいかにして山のあなたのはなは見るべき

蘆庵の返し

> としを経し我だにいまだ見ぬはなをいととく君はをりてけるかな

宣長が詠んだ歌

> 涼しさに夏もやどりもふるさとに帰らむこともみな忘れけり

景樹返し

> ただひと目みえぬる我はいかならむふるさとさへに忘るてふ君

宣長返し

> ふるさとは思はずとてもたまさかにあひ見し君をいつか忘れむ

ふーん。ずいぶんつきあいが広かったようだ。
上の歌からわかるが、宣長と景樹は初対面だったようで、しかも宣長の最晩年・享和元年(1801)の夏のことのようだから、
これで今生の別れとなったわけだな。秋にはもう宣長は死んでいるし。ぎりぎりのタイミングだった。
72才の当世随一の老学者にまみえた壮年の歌人の感情の高ぶりが上の歌のやりとりからも伝わってくる。

景樹は桂園派の流れを作った人で、堂上の公家から地下の香川家に伝えられた二条派の分流で、
真淵の「万葉調」に対して古今調を重んじてうんぬん。
なんとなく公家のまねをしてつまらん歌を詠み続けた因循姑息な流派のように思えるのだが、
景樹の歌はかなり狂歌に近い自由で気楽なものが多いように思う。
雑体の中に俳諧歌というものも載っている。
堂上でもなく万葉でもなく狂歌や俳諧に近い、江戸時代の中では主流とみなされる流派だったのだろう。
まして宣長も批判している「古今伝授」などといったいかがわしい密教的な歌風ではあり得ない。
景樹がそういうバカであった可能性はその実作を見る限りあり得ないと思う。

それが明治になると万葉・アララギ以外の古風な「和歌」はすべて「桂園派」というレッテルを貼られて迫害を受けた。
代わりに「短歌」という呼び名が発明されたというわけだ。
「桂園派」を攻撃するためにその古今調の始祖であるところの紀貫之が偶像破壊の対象として選ばれたということだろうが、
実際批判したかったのはその流れの香川景樹やら、宮中歌会所の高崎正風だったというわけだ。

正岡子規のアジ文書「歌詠みに与ふる書」だが、あれは特に子規がどうというより、俳句詠みの若造の跳ねっ返りな主張が、
当時流行していた西洋文学の、自然主義かなんかの風潮にうまく乗って扇動に利用されたってとこではないか。
しかもその言いたいところの実体は古文漢文ちんぷんかんぷんな文体ではなくて、俺等がふだんしゃべっているような言葉で歌わせろという程度の、
大衆化・民主化運動のたぐいであって、
こむつかしいお勉強なんかしてんじゃねーよぐらいの反発だっただろうと思うんだな。
別に古今がどうのとか貫之がどうのってことはどうでもよかったんだろうと思うな。
大衆運動なんてものはいつでもその程度のものだ。