レンズ豆

レンズ豆はレンズに似ているからレンズ豆というのではないのである.レンズがレンズ豆 (lentil) に似ているのでレンズ (lens) というのである!レンズ豆はなんと創世記に出てくる.アブラハムの子イサクは,リベカと結婚し,妻リベカは双子の子エサウとヤコブを生むが,創世記 25:27~34(新共同訳)

二人の子供は成長して,エサウは巧みな狩人で野の人となったが,ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした.イサクはエサウを愛した.狩りの獲物が好物だったからである.しかし,リベカはヤコブを愛した.ある日のこと,ヤコブが煮物をしていると,エサウが疲れ切って野原から帰って来た.エサウはヤコブに言った.「お願いだ,その赤いもの(アドム),その赤いものを食べさせてほしい.私は疲れ切っているんだ.」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである.ヤコブは言った.「まずお兄さんの長子の権利を譲ってください.」「ああ,もう死にそうだ.長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると,ヤコブは言った.「では今すぐ誓ってください.」エサウは誓い,長子の権利をヤコブに譲ってしまった.ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた.エサウは飲み食いしたあげく立ち,去って行った.こうしてエサウは長子の権利を軽んじた.

最近読んだ某という本では,アメリカのエグゼクティブは大量の活字を読む速読術を身につけていて,一週間で聖書の三倍の文章を読む,とか書いてあった.そりゃあ嘘だろう.嘘ではないかもしれないが,新約だけのことを言っているのかもしれない.旧約は新訳の約三倍あるからね.

田舎教師その2

ぷろぐれ日記
に書いてあった「博士の異常な愛情」というのを見た.
まあ,見て損はないかな.
アメリカがソビエトの ICBM 基地を誤爆するという話.
空軍の全面的協力によってしか作れない映画である.
それゆえ,冒頭で「こんな事故は決して起きないとアメリカ空軍は保証する」
という言い訳がついていておもしろい.
「未来世紀ブラジル」あったら見てみたいが DVD ではさすがにないだろ.

田舎教師を読んでいて,

> 寺の庫裏の入口の広場にも小作米がだんだん持ちこまれる.
豊年でも何かと理屈をつけて計りを負けてもらう算段に腐心するのが小作人の習いであった.
それにいつも夕暮れの忙しい時分を選んで馬に積んだり車に載せたりして運んできた.
和尚さんは入口に出てあいさつして,まずさしで,
俵から米を抜いてそれを明るい戸外に出して調べてみる.
どうもこんな米ではしかたがないとか,
あそこはこんな悪い米ができるはずがないがとかいろいろな苦情を持ち出すと,
小作人は小作人で,それ相応な申し訳をして,どうやらこうやら押しつけて帰っていく.
豆を作ったものは豆を持ってくる.
そばを作ったものはそば粉を納めに来る.
「来年はひとつりっぱに作ってみますから,どうか今年はこれで勘弁していただきたい」
だれもみんなそんなことを言った.

>「どうも小作人などというものはしかたがないものですね」と和尚さんは清三に言った.

というところに妙に感心した.
農地改革からこちら地主は悪で小作人は善という観念が植え付けられているのだが,
実際には今の大家と借家人のようにどちらがどれほど悪いというほどの関係ではないのかもしれない.
まあ確かに地主というのは資産家で裕福で不労所得者なんだろうから,
小作人よりは良い立場にいるわけだ.
しかし,小作人は小作人で,自分のところで取れた一番悪い米を地主に押しつけて,
一番良い米は自分で食うか金に換えてしまうのだろう.

その他,天長節(天皇誕生日のことでんがな)には小学校でオルガンの伴奏に合わせて
「君が代」と「今日のよき日」というものを歌うそうだ.
「今日の良き日」とは正式には「天長節」という名前の唱歌のようだ.
たくろうの名曲玉手箱
というところにいろんな唱歌がある.

田舎教師

マテ茶はうまくもまずくもない.

田山花袋「田舎教師」を読んだ.日露戦争の戦勝で日本中が沸き立つ中,若く無為に病死する田舎教師を描いたもの.戦争の捉え方がけっこう冷静客観的で,かつ哀れで感動的であった.この「田舎教師」を映画化してみるとしよう.江戸から明治に移り変わる帝都東京,日露戦争を CG で再現するのはとてもたいへんそうだが,なかなかおもしろそうだ.

The Cell

The Cell を DVD で借りてきてみた.
VHS ではこの画質は出せないだろうなあ.とてもきれい.
ヨーロッパ映画かと思うくらいシュールな作りだが,
アメリカ人はこういう精神異常とか猟奇殺人のようなものが好きなのかも.
ていうか,エヴァンゲリオンの強い影響を受けているように思うし,
他人の夢の中に入っていくのはドリーム仮面そのものだ.
アメリカの映画監督がドリーム仮面を知っているとすればそれはそれですごいことだと思うが.

なんかネットで調べてみたらドリーム仮面はつい最近復刻されたらしいぞ.
ますますあやしいなあ….

「文科系」が日本を滅ぼす

早稲田の大槻教授が書いた本「「文科系」が日本を滅ぼす」という本を借りて読む.
題名に少しわくわくさせられたのだが,中身は陳腐.
定量化の尺度として大学の偏差値を持ち出しているところなぞ笑止.
なんでもかんでも定量化しようというのは理系人間の宿痾だね.
小渕と角栄を同列に扱うなんともおおざっぱな論調で,ああ彼は根っからの理系人間なんだなあと落胆させられた.
こういうロジックの振り回し方をするから理系人間は理屈ばかりで説得力がないと言われる.

さて,この本の最後で言っているのは大学教育改革で「希望者全員合格,少数卒業」というもの.
日本の私学の場合,授業料は年間百万円以上はざらだから,大量に合格させて大量に退学させると訴訟沙汰になりかねない.
大学の事務で煩瑣なのは不良学生の処理である.
不良学生を大量に合格させては全体の質が低下し,まじめで良い学生へのサービスがおろそかになる.
本末転倒である.
今の大学は託児所と化しているのだが,その一因は高すぎる授業料にある.
金を受け取る以上,その分の付加価値をつけてやらなくては詐欺である.
しかし,この本では,その点授業料を五万円に抑えろ,といっているのは筋が通った話である.
その代わり,大量教育なのでテレビやインターネットで在宅授業は当たり前で,四年のゼミだけ大学に来て研究室に所属して指導を受ける,というシステムにするとよい,などと言っている.

よいとも悪いともなんともいえない.まあしかし,最初の一,二年の間は仮入学扱いにして,不良学生はどんどん落とした方がよく,そのためには授業料を最初の年次だけ安くし,入試はそのぶん簡素化しても良いかもしれん.

ともかくも,この手の改革は個別の大学でやろうとしても無理である.
何か学校法人そのものを変えてしまうような法改正か強力な指導が必要だろう.
でも,法律さえ改正すればすんなりこの手の改革はできてしまうような気がする.
学部四年次の定員だけたとえば 200 名と定めておき,
一年次は無制限,二年次は 10000 名,三年次は 1000 名,とかにすればよいのだ.
今はずんどうみたいに一年次も四年次も定員は同じ.
これでは小中学校のような義務教育と同じ内容になっても仕方ないよね.

定員制限をピラミッド型にすると,大学経営者というのは欲張りだから入れるだけ入れようとするだろう.
そうするとすべての学生をキャンパスに収容するのは不可能だから,メディアによる教育とか放送大学みたいなことを必然的にやらざるを得なくなる.
今のようにメディアによる授業の単位をいくつまで認める,とかいう文部省の改正では,大学側の負担だけが増えてメリットはほとんどないので,どこも動かないね.
もっと根本的な改革をやらなきゃだめだろ.

なかなか良いことも書いてある.
うちの学生で「大学に入っても勉強するんですか.私の兄/姉は大学では勉強なんかしないと言ってました」と質問したやつが居たそうだ.
なんとも嘆かわしいことだ.
学生や父兄だけでなく教員もそう思っている.
もちろん理系の教員はそんなことは思っていないのだが・・・。

> 1955 年,私は東京の国立大学の理学部理学科に入学した.
大学は文京区にあったが,通学に 40 分以上もかかる埼玉県にある学生寮に無理矢理入り込んだ(注:東大朝霞学生寮,というものがあったのだろうか).

> ・・・その寮では理工系学生(私と数学科 1 名,生物学科 1 名,それに農学部の学生 1 名の計 4 名)は少数派であった.
寮生は 25 名ほどであったから,多数が文化系学生だったのである.

> 朝 7 時半,食堂に顔を出すのは,きまってわれら 4 名の理系の学生だけだった.
文化系の連中は,このとき決して起きることはなかった.
したがって,朝から大学の講義に出席するのも理系の学生だけだった.

大槻教授のこの部分を読んだだけでも,理系が文系とくらべてどれほど時間を拘束されノルマを課されているかわかるだろう.
さらに大槻教授は,文化系の学生が,毎月支給される育英会費を一日で吉原で使い果たしたと書いている.
育英会費を使ったあとはバイトで生活費を稼ぐのである.
しかし,理系の学生は年中バイトをやっているほどヒマではない.

オートミール

オートミールに冷ご飯を入れて粥にしてみた.人類史上初の試み!?食える食える.

かと思いきや. 玄米とオート麦の粥 とか食ってるやつがいるぞ.しかも梅干しまでのせて.糖尿病食だとか.

オート麦は燕麦とかカラス麦とも言うらしい.

こないだ見たマトリックスで,現実世界に返ってきて毎日べちゃべちゃした食い物を食べる,仮想世界に戻りたいという話が出てくる.これはオートミールのことであろう.

追記: オートミールよりもさらにまずい合成食のようなものらしい。

また,昔別冊コミックで連載されていた「ファミリー」とか言う漫画にはオートミールは「子供の天敵」として出てくる.日本では Quakers Oats が有名だが,明治屋など物色するとそれ以外にもけっこうあるようだ.昭和天皇がオートミールを常食していたのもわりと有名だよね?

バッドエンド

「パーフェクトストーム」はアメリカ映画には珍しいバッドエンドで,軽い衝撃を受けた.
普通のアメリカ娯楽映画なら,たとえば主人公のうちの一人くらいは大波を乗り切って救出される,などの救いが残されているものだが,この映画では乗組員全員が行方不明になるのだ….
ラストシーンはお葬式でみんなが泣いている….
ハリウッド特有のぐいぐい引き込む手法でバッドエンドに持って行かれるとなかなか辛いものがあるかも.
ていうか,どうせハリウッド映画だから,ピンチでも助かるだろうと油断してたところで不意打ちをくらった,というべきか.

追記: パーフェクトストームは事実に基づいているので、ハッピーエンドにしようがなかったということだろう。

伏線がなかったとは言えない.
「オレたちゃ男だ!」とか時代錯誤的で無謀なことを言うやつは,アメリカ映画では死ぬことになっている.
特攻精神をちょっとでも賛美したら,パールハーバートラウマ的に罰せられるのだ.
これはジャンヌダルクにもちと当てはまる.
インディペンデンスデイでも特攻するやつがいるが,アメリカ人が特攻するには何重にも理由付けが必要なのである.
犠牲対効果が極めて大きい,機体が故障した,別に犯した罪をつぐないたい,冷静な自意識によって判断した結果,などなど.
カミカゼとキリスト教的殉教は違うんだ,という冗長で神学的な説明付けが必要なのであり(大した差はないと思うのだが),これによってアメリカのキリスト教的ボランティア精神は少しだけ洗練されたものになったかもしれない.

「アイアンジャイアント」も見たが,これもバッドエンドだったらもう少し切れ味があったかもしれない.
しかし,ハリウッドアニメの性なのか,最後にちょっとだけ救われる.

アメリカ映画でハッピーエンドでないのは珍しい.
ベトナム戦争もの以外では.「ジャンヌダルク」「ジーザスクライストスーパスター」は宗教映画で且つ史実をあらかじめ知っているから,必ずしもバッドエンドとは言えないのかも.
あ,「危険な情事」もバッドエンド?

山居

「釣月耕雲慕古風」に関しては961208000306などで考察して来たのだが,インターネットもずいぶん広くなったようで, 明確な出典が見つかった.道元の漢詩だった.思ったよりも古くて大物だったな.

山居(さんご)
西来祖道我伝東 西来の祖道我東に伝ふ
釣月耕雲慕古風 釣月耕雲古風を慕ふ
世俗紅塵飛不到 世俗の紅塵飛べども到らず
深山雪夜草菴中 深山雪夜草菴のうち

道元というひと,それからこの漢詩の前後の文脈から,だいぶはっきりしたことがわかる.おそらく「釣月耕雲」というのは,後世の人間どもがこねくりまわした「禅問答」じみた意味ではなくて,俗世間を離れた山奥の静かで質素な勤労生活のことを言っているのだと思う.つまりこの四行の詩は全体に非常に具体的で単純明快なことを言っているのであって,「釣月耕雲」の部分だけになにか深淵な謎がかけられているとは考えにくい.「耕雲」というのはつまり雲が眼下に広がってるような高原の畑を耕している光景が思い浮かぶし,「釣月」というのは夜水面に映った月に釣り糸をたれているような感じがある.しかし,禅宗とか道元というのはかなり保守的な仏教のように思うので,魚を釣って食べたというのは少し考え難い.ここに疑問が残る.が,しかし,鎌倉仏教というものは,肉食はしなくとも川魚くらいは食べたかもしれん.江戸時代までの日本人はだいたいそういうもんだし.「紅塵」というのは繁華な市街の土ぼこり,つまり「俗塵」のこと.山の上には俗世間の塵が飛んでもとどかないということだね.

台湾の高雄にも「曲橋釣月」という名所があるそうだ.しかし台湾の中国の歴史というのはせいぜい清朝からこちらだし,日本の植民地だったこともあるので,日本の禅宗の影響を受けている可能性は非常に高い.であるから,「釣月耕雲」というのは,すでに中国語にあった慣用句というよりは,道元の「独創」であるというので間違いないのではないか.

で,私の爺さんがなぜ「釣月耕雲慕古風」を掛け軸にしていたかということだが,禅はずいぶん好きだったようだし,そのころ京都に本部がある日本剣道連盟と喧嘩別れしたということもあったようだから,世俗の評判や名声などは気にかけず,田舎でひたすら古武道を探求する,というような心境だったのではなかろうか,と推察される.

松尾芭蕉が初めて句集を編んだのが「釣月庵」というそうだ.

追記: 道元 永平広録 巻十 偈頌

庖丁人味平

「こたつむり伝説」はいまなら「ひきこもり伝説」だな.なんという先見の明.木村千歌偉い.

先週も昨日も見忘れた北条時宗見たけど.喜望峰を見つけたのはバーソロミュー・ディアス 1488 年,インド航路を発見したのはバスコ・ダ・ガマ 1498 年じゃろ.なんでモンケ・ハンの時代(1250 年頃)の世界地図に,アフリカ大陸があんなはっきりと書き込まれてるんかのう.まあ確かにイスラムは当時すでにアフリカ東海岸を含むインド洋全域を航海していたが,しかしインド洋が大西洋につながっててヨーロッパまで行けるかどうかということは知らなかったはずだ.

しかしまあ庖丁人味平は傑作だよなあ.庖丁人味平は今の料理漫画の草分けなんだが,最初の包丁試しとか肉裁きとか荒磯の船の上の料理とかは,ただ手際の良さというか,奇術というか,なんかわけのわからん荒唐無稽なものだった(おそらく当時流行していたスポーツ漫画の強い影響を受けていたのだろう)が,うしお汁当たりからほんとの味勝負になり始めて,このカレー勝負は全編中でも一番「人々の記憶に強く刻み込まれた」インパクトの強いあたりだ.カレー屋を食べ歩いたり,漬け物を食べ比べたり,真の味勝負と言えるのはこのあたりからだ.しかしこの勝負は相手が香辛料に麻薬を混ぜるという反則負けで終わる.結局味と味の真っ向対決で優劣を決したのと違うのが悔やまれる.しかしこれは今日の視点で言ってのことなのだ.今はそんなんばっかりだが.そういう意味では後世の料理勝負モノとはじゃっかんニュアンス違う.うしお汁も味平の汗という不確定要素によって勝ち負けが決した.包丁貴族との戦いはどう決着したんだったっけ.

そういえば「真中華一番」の第一巻を読んだらば,時代設定は清町末期と明記してあった.宮廷調理師とかいう肩書きもあったようだ.だとすれば男子は全員弁髪しなきゃ弁髪.だとすれば女子は全員纏足しなきゃ纏足.だとすれば清朝の領土には外モンゴルが含まれてなくちゃ.ついでに刺身食うなよな中華料理でよ.まあそんなのいまさらどうでもいいか.